5-36「なに、お困りのようですから、何か手伝いができればと」
スッラリクスはゾゾドギアの城壁に立っていた。
眼下では、無数の松明が蠢いている。ゾゾドギアを出て、ジーラゴンに渡ろうとする民衆たちの灯である。
リズール川に棲息するワニは昼行性で、夜の方がまだ大人しい。ワニとの付き合いも長い民衆たちはもちろんそのことを知っていて、陽が完全に暮れてから行動を開始した。
ゾゾドギアを出て行こうとする民衆を、帝国軍は引き止めなかった。
事態がここまで進んでしまえば、もはや打てる手はない。ゾゾドギアの内部で暴動が起きるよりは、不満を持った者たちが勝手に出て行ってくれる方が助かる。合理的な判断に基づいた結論だった。
(いえ……そう思いたい、というのが正しいですね)
すべてが後手に回ってしまった、とスッラリクスは思っていた。民衆が不満に思い始めていることを、自分はもっと早くから掴んでいた。アーサーやカートに遠慮がちになってしまって、適切な助言ができなかった。そのせいでゾゾドギアの一部が膿み、切り落とさなくてはならない状況にまで悪化してしまった。
食糧庫の中身を、民衆に見せた。それしか、事態を収める方法がなかった。食糧が底をつきかけていると知った民衆が、そのまま暴徒と化す可能性も十分にあった。アーサーとカートは、上手く民衆をなだめてくれた。
しかし問題は何も解決していない。むしろ増えたと言ってもいい。
ゾゾドギアは、川の中州に位置する城塞都市である。川にはワニがいるから、そうそう簡単に侵入することもできないし、逆に出て行くこともできない。王国軍も、ゾゾドギア内部の正確な情報を掴んではいないだろう。いつまで粘るつもりなのか。食糧はどれだけあるのか。ジャハーラはなぜ出てこないのか。そういった情報を掴んでいないから、川の西側に布陣したきり攻めてこないのだ。
民衆が川を渡ってしまえば、ゾゾドギアの内部事情は、瞬く間に王国軍の手に渡るはずだ。そうなれば、いまよりさらに身動きが取れなくなる。ゾゾドギアが自滅するだけだと知れば、王国軍はゾゾドギアに向けている兵力の一部を、兵站の安定に使うだろう。そうなれば、たとえゼリウスの援軍が間に合ったとしても、王国軍を退かせることができなくなる。逆転の芽が、摘まれてしまう。
いっそ、全員ワニに食われてしまえばいい……。そうすれば情報は守られる。
眼下で無秩序に動き回る松明の炎を見ながら、スッラリクスは冷めた心でそう思ってしまった。すぐに、一瞬でもそんな思考に至った自分のことが嫌になり、松明から目を背けるようにして目を閉じて頭を振った。
「お困り、ですかな」
しわがれた声が背後から聞こえ、背筋が凍える。「誰だ!」と、振り返ったスッラリクスの眼に映ったのは、月明かりの下で怪しげに佇む老人の姿だった。胸の辺りまで伸びた長い髭、そのまま闇夜に消えてしまいそうな存在感のなさ。それに落ち窪んだ眼。
「お忘れですか。儂です、ダルハーンです」
魔都攻略の際に、援助してくれた奴隷商人である。スッラリクスは警戒して辺りを見渡した。ダルハーンの他に人の気配はない。
「なんの用ですか」
スッラリクスは訊ねた。
冷たい汗が流れた。いつもはスッラリクスを守っているダークエルフの戦士たちも、今はジャハーラの護衛につけてしまっている。完全に、無防備である。スッラリクスとしては一対一で話し合いたい相手ではなかったが、逆にダルハーンは一対一で話せる機会を見計らっていたようだ。
少なくとも、スッラリクスを殺しに来たというわけではないだろう。もし殺しに来たのなら、声をかけずに背中から斬っていたはずだ。
「そう、邪険にしないでください。なに、お困りのようですから、何か手伝いができればと」
ダルハーンは恭しく頭を下げてそう言った。
「ええ、悪魔にでもすがりたい思いです」
「悪魔とは、これまた大げさな物言いですな」
ダルハーンは不気味に笑った。
「スッラリクス様が、どうやって王国軍を撃退するつもりなのか楽しみにしていたのですが……いささか分が悪すぎると思いましてね。食べ物の配給が止まってしまえば、我々も困る」
「我々?」
「魔都でいただいたお代のことです。まだ売り物にするには不足がありますが、ここで餓死させてしまったら大損です」
魔都攻略にあたって、協力の見返りにダルハーンが求めたのが、奴隷の少年少女たちの身柄だった。もっとも、攻略の最中のごたごたで、勝手に連れだして行ったという方が正しい。エリザたちが魔都に入った時にはすでに、貴族たちの所有していた奴隷の子どもたちは残らず姿を消していた。
ダルハーンはおそらく、あの時に連れ去った者たちを暗殺者に育て上げるつもりだ。その暗殺者の卵とでも言うべき少年少女たちが、ゾゾドギアにいるということになる。
血の気が引く思いだった。
なんのために、ゾゾドギアに滞在していたのだ。どうして発見することができなかったのだ。寒気と同時に、複雑な思いがスッラリクスの中で駆け巡った。
「ああ……なんのために、とお思いでしょうか。スッラリクス様の知略を、見物したかったのです。大兵力を擁する王国軍を、いかにして退かせるつもりなのか興味がありまして……。本来ならば、見ているだけで干渉するつもりはなかったのですが、食糧の配給が減らされては困ります」
「戦に巻き込まれる、とは思わなかったのですか」
「スッラリクス様ならば、必ず勝利の手を打っているはずだと。まさか逆に追い込まれてしまうとは、予想外でしたが……。ここで帝国軍の方々に負けられてしまっては私も困ります」
「この状況で、いったい何ができるというのです?」
「補給路の回復に、少しばかりの助力を。上手くいけば、食糧事情が多少は改善されることでしょう」
願ってもない申し出だった。糧食さえ補充できれば、援軍が来るまでの時間を稼ぐことができる。
「見返りに、今度は何が欲しいのです?」
「王国軍を追い払っていただきたい、それだけです。前にも話しましたが、儂は王国に恨みがあります。彼らに痛撃を与えてくださるのならば、それ以上に愉快なことはありません。それに、商売上の理由もあります。儂はルノア大平原に渡り、商売をしたいのです。もっとも、クイダーナで商売をしてもいいというお話であれば……ありがたいのですが」
暗殺の術を持った奴隷を、貴族に売りつける。それがダルハーンの言う『商売』だった。
「……エリザ様がお許しになるはずがありません」
「わかっています、わかっていますとも。ですので、儂は帝国領で商売をしません。クイダーナを出て、商売をします。そのためには王国軍を追い払っていただき、移動手段を解放していただかねば」
スッラリクスに申し出を断ることはできなかった。たしかに、手詰まりの状態である。少しでも可能性のあることならば、賭けてみたい。ダルハーンは何も求めていない。これは、エリザを裏切ることにはならないはずだ。
「話を、聞かせてください」
スッラリクスが言うと、ダルハーンは悪魔的な笑みを浮かべた。
しわがれた手を天にかざす。漆黒の鳥が舞い降りてきて、ダルハーンの手の甲にとまった。闇に溶けてしまいそうな、黒い鳥だった。
これが魔鳥か、とスッラリクスは思った。
二人の立つ城壁の下では、松明を掲げた民衆が次々とリズール川に入っている。
登場人物が多すぎて忘れてしまう、というご指摘をいただいたので、久々に登場するキャラクターは「前書き」か「後書き」を使って説明していくようにしますね。
ダルハーン
→魔都攻略の際に、反乱軍(現在の帝国軍)に対して食糧などの提供をしていた奴隷商人。スッラリクスとつながりを持とうとしている。
→魔鳥を使って離れた所にいる部下たちと情報を共有することができる。
→魔都クシャイズ陥落後は姿を消していた。
登場話:3-12,3-16,3-17あたり。
2/28追記
明日2/29(土)の更新ですが、リアルの都合で執筆が間に合わず、1日ずれて3/1(日)に投稿する形になってしまいそうです。
大変申し訳ありません……。今後は、なるべく遅れないように執筆していきます。




