5-28「父上がこのようなところで死ぬはずがない!」
スッラリクスは、我武者羅に水を掻き分けて前に進んだ。川の水が重い。ぬめりを含んだ水は、どこか脂っぽくべとべととしていて、それが水だけではないことを証明しているようだった。後方では、まだジャハーラの決死隊が戦っているようだ。あるいはもう、川にまでは逃げ込んできたのか。飛来する火矢はわずかに川を照らし出すが、せいぜい水と空気の境を確かにする程度の明るさである。
色の見分けがつかないことが、唯一の救いだった。川の水がもし真っ赤に染まっていたら、恐怖のあまり足が止まってしまうかもしれない。
ゾゾドギアに近づくにつれ、川の陰影ははっきりとし始めた。闇の中で、縦に伸びた瞳孔が怪しく光る。ワニだ。次の瞬間には大口を開けて、スッラリクスに襲い掛かってくる。刺々しい歯に身震いした瞬間、炎が巻き起こってワニが呻くようにして横転した。
「軍師殿、はやく! こちらへ!」
アーサーである。指揮官の中で真っ先に離脱したアーサーは、無事にゾゾドギアにたどり着いたようだ。スッラリクスは死に物狂いで水を掻き分け、陸地に手を伸ばした。両側から兵に支えられるようにして、陸地に這い上がる。
「お怪我はありませんか?」
兵の一人が訊ねた。おそらく、ゾゾドギアに残していった新兵の一人だろう。乾いた服が、羨ましかった。
「怪我はしていません」
「それは良かった。あちらに、火を起こしてあります。まずは身体を温めてください」
兵に案内されるがままにスッラリクスは足を進めた。長時間水の中にいたせいで、腰より下の感覚が麻痺している。何歩か進んだところで倒れてしまった。付き添ってくれていた兵が、それを支えてくれる。そこで初めて、スッラリクスは自分が凍えていることに気が付いた。両手が震えている。感覚はないが、恐らく足も震えているのだろう。
「大丈夫ですか」
「大丈夫、歩けます。ありがとう」
支えてくれた礼を言うために、新兵の方へ顔を向ける。「良かった」と返事をする新兵の後ろで、アーサーが指揮を執っているのが見えた。ゾゾドギアに残っていた兵たちに指示を出して、撤退してきた者たちが無事に陸地に上がれるようにしている。ワニに襲われかけて危ういところを、精霊術で助けてくれたのも、アーサーだった。
スッラリクスは自分のことを恥じた。何とか自分の身体を立たせるのが精一杯で、とても指揮を執れるような状況ではない。ワニと戦うだけの力もなかった。
ゾゾドギアまでたどり着けたのは、運が良かったからだけではないだろう。スッラリクスの周りにいた者たちが、身を挺してスッラリクスを守ったのだ。事実、陸に上がった時には周辺の者は誰一人残っていなかった。
焚火のそばに案内された。そこでは、百名近くの兵たちが休んでいる。中には腕や足を失っている者たちもいる。傷口を焼いて塞いだだけなのだろう。わずかな明かりでも、顔色が悪いのがわかる。
温かなスープがふるまわれ、毛布が支給された。震えは徐々に落ち着くが、代わりに手足が異常にかゆくなった。感覚が戻ってきている証拠だ、とスッラリクスは思った。腕や足を失った者たちに比べれば、なんということはない。自分は五体満足で陸に上がれたのだ。
「何人くらい、生きてここまでたどり着いたのですか?」
スープを運んできた兵に訊ねたが、わかりません、と返されるだけだった。
「ジャハーラ殿とカート殿は?」
「まだ、お見えになっておりません。ですが将軍なら、必ず生きてたどり着かれることと信じております」
「ナーラン殿は?」
「先ほど陸に上がられて、今は救出部隊の指揮を執っていらっしゃいます。呼びますか?」
「いえ……その必要はありません」
ひとまず、ナーランの無事を喜ぶべきだろうと、スッラリクスは思った。どれだけの兵が、ワニに食われて死んだのかわからない。
王国軍との戦いの為に、精鋭ばかりを連れてルノア大平原に渡ったことが悔やまれる。
そこまで考えて、スッラリクスは自分の思考を呪ってしまいたくなった。いま自分は、兵が精強かどうかで、命の重さに優劣をつけて、損失のことを考えた。だがそれは自分にも跳ね返ってくる問題のはずだ。
命の価値が、精強な兵か、それとも新兵かで重みが変わると考えたのだ。スッラリクス自身は、どうなのだ。戦うこともできない。精霊術を使うこともできない。何の役にも立たないのに、その精強な兵を何人も盾にして、生き延びたのだ。
アーサーやナーランといった指揮官たちは、同じようにワニに追われながら陸に辿りついた。身体は冷え切っているはずだ。それなのに休息も取らず、そのまま他の兵たちを一人でも多く生き延びさせようと、いまも必死で指揮を執っている。だというのに、自分は温かな場所でスープを飲んで休んでいる。
スッラリクスはやりきれない気持ちになった。立ち上がって、来た道を戻る。何かをしたい。自分が役立つ人間だと証明できるような、何かを。
リズール川の周辺は凄惨な状況だった。傷だらけの兵、それを支えて陸地に引き上げる味方。川からは巨大なワニが何頭も陸地に上がってきている。アーサーとナーランは指示を飛ばしながら自分たちも剣を握り、精霊術を使ってワニに対抗している。そこかしこにワニの死体が転がり、川の臭いと怪我人の血が相まって漂っている。
血の臭いに誘われて、ワニは地上にまで上がってきているようだ。武装した兵たちにとって、ワニはそこまでの脅威ではない。大きいワニは鈍重だし、小さい物ならば鎧を噛み切れない。陸地に上がってきたところを斧で叩きつけるようにして殺している。
「状況は、どうなっているのです?」
兵の一人に訊ねた。その兵はスッラリクスに何か答えようとしたが、すぐに飛び出していって陸地に這い上がろうとする味方の救助に回った。スッラリクスも手伝おうと思ったが、自分の身体を支えるので精一杯で、とてもそれどころではなかった。
(何か、何かやれることを――)
せめて状況の把握だけでも、という思いからスッラリクスは周囲を見渡した。何かできることを……。焦りが、精神を摩耗させていく。戦闘にも参加できない、負傷者の救護の心得もない。できることと言えば策を考えることくらいなもので、それはいまこの状況で役立つことではない。
無力だ。あまりに無力だ。
スッラリクスは唾を飲みこんだ。せめて兵たちの邪魔にならぬように、様子の把握に努める。
川の向こう岸が、燃えている。ルノア大平原に残してきた幕舎が焼かれているのだろう。川の様子は、陸地からではよく見ることができない。対岸は燃えていておぼろげに動くものが見えるが、川は黒一色である。深い深い闇の中から、生き延びた兵士たちが上がってくる。
闇を照らすように、炎が上がった。まるで一瞬だけ太陽が上がったかのような明かりに、スッラリクスは思わず目の上に手をかざした。爆炎は、王国軍の放った矢をことごとく燃やし尽くしたようだ。
「いまのは、ジャハーラ卿だ! 炎熱の大熊公は、生きておられるぞ!」
兵の一人が叫んだ。
「そうだ、父上がこのようなところで死ぬはずがない! ――お前たちも、そうだ! 死に物狂いでも何でも、生き延びて見せろ! エリザ様の作り上げる世を見届けるまで、生きたいと願い続けろ!」
声の主は、ナーランだった。最前線でワニ撃退の指揮を執りながら、這い上がってくる味方を鼓舞している。もう少しだ、生きろ! そうやって、心の炎を分け与えている。
武装したままの味方が、陸地に上がってき始めた。決死隊として、ジャハーラと共に残った兵である。ほとんどの者が、何らかの傷を負っていた。矢傷、切傷、ワニに咬まれた傷。スッラリクスは誰か一人でも無事な者がいれば、前線の情報を訊ねようとして、すぐにそれは無駄だと気づいてやめた。
知って、どうする。敵が、リズール川にまで追手を放っていないことは明らかだった。ならば、情報を得るのは後で構わないはずだ。いま情報を得たところで、スッラリクスには何もできない。
かなりの、時が過ぎた。
決死隊の救助もあらかた済んだようだ。ワニの上陸も落ち着きを見せ始めている。スッラリクスは、救助される決死隊を数えていた。七十二人。もちろん、スッラリクスの視界の範囲外で、救助された者もいるだろう。だがそれにしても、信じがたい犠牲を出したということは、間違いがなかった。すべて、スッラリクスが立てた作戦の結果である。
「ジャハーラ卿だ!」
声が上がり、スッラリクスはそちらに視線を向けた。川から、二人の男が引き上げられている。二人とも、灼熱を思わせる髪色をしている。間違いない、ジャハーラとカートの二人だ、とスッラリクスは思った。多大な犠牲は出したが、指揮官は失わずに済んだ。そう思った。
ジャハーラの様子がおかしい。引き上げられたはずが、ぐったりと倒れこむようにして兵たちに担がれている。川の水の冷たさに、やられたのだろうか。
「救護班を大至急で回せ! 最優先だ!」
駆け付けたアーサーが叫ぶ。アーサーを含め、五人がかりでジャハーラを担ぎ上げる。救護班のいる内陸へ、運ぶようだ。
かがり火に照らされたジャハーラの顔は、死人のように血の色を失っている。それだけではない。何か、違和感がある。普段のジャハーラとは決定的に違う何か。スッラリクスは、運ばれていくジャハーラを見送る。
ジャハーラの右側の肘から先がないことに、スッラリクスは気が付いた。
お待たせして申し訳ございませんでした。




