5-26「兵一万を率いて、敵の本隊を攻めさせよ!」
ジャハーラが敵陣に突撃していく。爆炎と轟音は遠くへ向かっていっているはずなのに、肌を焼くほどの熱気は、まだ感じ取れる。
「父上、ご武運を」
ナーランが小声で言ったのを、スッラリクスは聞き逃さなかった。
「心配ですか?」
訊ねたことを、スッラリクスはすぐに後悔した。訊くまでもないことだ。ナーランは、ただ静かに頷いて見せる。
スッラリクスらが率いる四千人は、全員が鎧を脱ぎ捨てていた。脱いだ鎧は並べて、あたかもここに軍がいるかのように偽装している。ジャハーラがいざ撤退してきたとき、ここに本隊がいるように見せかけることができれば、敵も無理に追撃しようとはしてこないだろう。それが、死を覚悟したジャハーラたちに対してできる、最大限の置き土産であった。
ジャハーラの決死隊が十分に離れていったのを確認して、スッラリクスは渡河の指示を出した。百人規模の軍勢が、順々に川に入っていく。できるだけ水の音をたてぬように、ゆっくりと水に浸かり、やがて闇の中に消えていく。リズール川は、闇そのものだった。遠くに城塞都市ゾゾドギアの明かりが見える以外には、何もない。
敵に渡河を悟られぬよう、誰一人として明かりを手に持っていない。闇の中に、兵が沈んでいくような錯覚にスッラリクスは襲われた。
最初の五百人が闇に消えた。そろそろ、アーサーも川に入っていくはずだ。指揮官の中では、アーサーが最初にゾゾドギアに入って安全を確保する手はずになっている。スッラリクスは中軍、ナーランは最後尾で渡河する。
ジャハーラの部隊も、ついに見えなくなった。かなり遠くまで攻め入ったようだ。あそこまで深く懐に飛び込んでしまったら、抜け出すのは至難だろう。
スッラリクスの出番が来た。持ち物は、一食分の携帯食料と剣だけである。水中で動きやすいように、限界まで軽装にしてあるのだ。
口に、木片を咥えた。
北海のように水が凍り付くような温度ではないにしても、リズール川の水は冷たい。ずっと水中にいては身体が凍えて、歯がカチカチと震えてしまう。下手をすれば舌や唇を切ってしまう。口に木片を噛んでおくことで、顎を固定して怪我を防ぐのだ。
川の深さは、腰くらいまでだった。川底に足がつかない、ということはない。ぬめぬめとした水生植物が足に絡まるようだ。股の間を小魚が通り抜けていく。ふと、スッラリクスは孤独を感じた。辺りに兵はいるはずなのに、暗闇の中で姿も見えない。全員が口に木片を咥えているから声も上がらない。遠く後方では爆発音と弓矢の音がしているが、もはや遠すぎて現実の音とも思えない。
ゾゾドギアの城壁が見えてきた。松明の炎が揺らめいている。先発したアーサーの部隊を、ゾゾドギアにいた兵たちが見つけたのか。
スッラリクスはできるだけ余計なことを考えないようにして、足を動かし続けた。
波立つような水の音が響き、絶叫が上がった。次の瞬間、前方で炎が爆ぜた。モンスターの大群――ワニの顔が、水上にいくつも浮かび上がっている。ギラついた瞳が、闇の中で笑ったように浮かぶ。
「――っ!」
スッラリクスは声にならない叫びを上げた。まさに地獄そのもののようだった。闇の中で、どれだけのワニが前方を襲っているのかわからない。先ほどの一瞬の爆発で見えただけでも、それこそ無数と言ってよかった。
水しぶきの音が、大きくなった。前方で、おそらくアーサーの率いる帝国軍が、ワニの大群と交戦している。
苦戦は免れないだろう、とスッラリクスは思った。火の精霊術に長けた者が多いが、隠密行動のために松明さえ持っていない。火がないのだから、火の精霊で戦うことができない。さらに、ほとんど全員が布一枚といったレベルの軽装なのである。襲われれば一たまりもない。
スッラリクスは腰の下に、ワニの気配が近づいてきているようにさえ思った。大丈夫だ、大丈夫だ、戦いの音はもっと前方からしか聞こえていない。そう自分に言い聞かせ続けながら、前へ前へ水をかき分けて進んでいく。
すぐ隣で、声にならない悲鳴が上がった。水中に引き込まれたようだ。バチャンと大きな音がして、飛沫がスッラリクスの顔に飛んだ。……温かい。すぐに錆びた鉄のような臭いが、リズール川に充満し始めた。
恐怖は伝染する。ゆっくりと一歩ずつゾゾドギアに向かって歩を進めていた兵たちは、我さきと岸へ向かって駆けだした。あちこちで大きく水が跳ねる音がする。……また、誰かがワニに襲われたようだ。スッラリクスも無我夢中で岸へと向かって駆けた。足がもつれ、水に倒れこむ。思わず手をつこうとして、水ではない何かに触れた。
それが生物だと気づくのに、一瞬の時間を要した。岩のように固いのに、わずかにぬめりがあって、脈打っている。スッラリクスはそれがワニの口の上だとわかると、手を引っ込めた。暗闇の中で、ワニの瞳が輝いたような気がする。スッラリクスは、ひたすら陸に向って走った。
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ランデリードはジャハーラが突撃してきたと聞くと、わざと奥まで攻め込ませた。その間に、網を整える。ジャハーラを取り囲むように弓兵を配置し、それから退路を塞ぐようにして騎馬隊を回り込ませた。詳細な報告が入る。攻撃を仕掛けてきているのはわずかに一千ばかりだという。
ランデリードは眉をひそめ、敵の本隊の行動を注視させた。敵の本隊は動く様子がない。偵察隊は、そう報告してきた。
ジャハーラの行動は、不自然だ。
敵の退路を断った。敵は背水の陣を敷くしか選択肢がなかったはずだ。ここでわずかな勝機に賭けて、夜襲を仕掛けてくるのは理解ができる。だが、それならばなぜたったの一千なのか。残りの兵はどうしているのか。
最初に考えたのは、ジャハーラの存在が囮なのではないか、ということだった。本隊の四千がその間にランデリードの首を狙ってくるというのは、十分に考えられる作戦である。しかし、敵の本隊は完全に包囲している。いくら闇の中とはいえ、ランデリードを直接狙ってくるのは不可能だろう。ジャハーラが作った突破口の他に、どこかの陣が崩されたという報告は入っていない。
次に、こう考えた。帝国軍はここにきて分裂したのではないか。十倍以上の兵に囲まれて、帝国軍の兵のほとんどは投降を望んだ。ジャハーラの作戦では、ここで城塞都市ゾゾドギアまで兵を退かせる予定だったはずだ。それが失敗したことで、ジャハーラに従おうという者が減った。そして降伏すべきだ、という声が上がってきた。納得のできないジャハーラは、自分に従う者だけを率いて、王国軍に戦いを挑んできた――。
ありそうな話だ、とランデリードは思った。退路を断った時点で、ルージェ王国軍の勝利なのである。
もう一つ、ランデリードが懸念していたことがある。オールグレン王子の消息である。平原に転がっていた死体のことごとくを確認させたが、オールグレンの死体と思しきものは見当たらなかった。
敵に捕らえられている、ということも考えられた。特に敵がこうやって分裂の構えを見せたことは、オールグレン王子が敵の手にある可能性を示唆している。王子を引き渡せば、殺されはしない。帝国軍の内部で、そういう話が出てもおかしくはない。それに納得できなかったジャハーラは、死を覚悟して突撃してきた。
遠くで爆炎が上がっている。熱風が波打つ。すさまじい炎だ。だが、永遠ではない。いずれ精霊術には限界が来る。それまで消耗戦を仕掛け続ければいい。
「ランデリード様、報告いたします。リズール川にて爆発音が聞こえた、と……」
「なに、川で?」
「お耳に入れるべきか迷ったのですが……」
「聞き違いではないのだな? リズール川から、それは聞こえたのだな?」
「確認しますか?」
「――違う、確認するのは、敵の本隊四千の方だ」
ランデリードは敵の目的に気が付いた。ジャハーラはやはり、囮だったのだ。敵の狙いはランデリードの首ではない。城塞都市ゾゾドギアへの撤退である。
「は?」
「デュラーに伝令! 兵一万を率いて、敵の本隊を攻めさせよ! もしそれが偽装なれば、リズール川に向けて矢を放てと、そう伝えろ!」
「は、はいっ!」
伝令が、飛び出していく。ランデリードは苦々しい表情で、それを見送り、唇を強く噛んだ。
11/13(水)追記
怪我をしてしまい、更新が滞っております。
次回更新は11/16(土)予定ですが、その後の更新日程は未定です。申し訳ありません。
詳細は活動報告に記載しております。
お待たせして、大変申し訳ございません。




