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ユーガリア戦記  作者: さくも
第5章 王国の猛攻
101/163

5-11「君はずいぶん正義感が強いみたいだね」

 ラッセルは殴られ続けて感覚を失った。満足に眼も開かない。騎馬の音が微かに聞こえる。混乱。誰かが騒ぐ声と、釈明をする声。入り混じって聞こえる音に、ラッセルは何も考えることができなくなっていた。意識は浮上しては途切れる。全身の痛覚はもう麻痺していて、自分が未だに暴力の嵐に続けているのか、それとも気を失っているのか定かではない。


 どれくらいの時間が経っただろう。頬に髪があたってくすぐったかった。痛みは途切れているのに、くすぐったさを感じるのが不思議だった。


「ラッセル……ラッセル……!」


 目を開こうと努力するが、瞼の上に何か乗っているようで開かない。かろうじて影が見えるだけだ。


 頬に、雫が落ちたのをラッセルは感じた。鼻から唇にかけて伸びる筋に沿って、その雫は伝わる。唇の端から、雫が口の中に入った。苦さと塩っぽさの入り混じった味。涙の味だ。


(ミン……?)


 ラッセルは声を絞り出そうとしたが、言葉にはならなかった。雫が、また一滴ラッセルの頬に垂れる。眼を開こうと、再度ラッセルは努力した。薄く見える影が、少女の形を取り始める。長い髪が、ラッセルの頬をくすぐる。顔が近いよ。ラッセルは再度声を絞り出そうとしたが、微かに息が漏れただけだった。


「ラッセル! 良かった……」


 ラッセルが微かに動いたのがわかったのだろう。少女はラッセルの身体を抱き起して言った。ミンの声じゃない。温かい身体だ、とラッセルは思った。良い匂いがする。抱きしめ返したいのに、力が入らない。


(しばらく、こうしていたいな……)


 ラッセルは身体の緊張が解けていくのを感じていた。マリーナに体重を預ける。包まれているようだ、とラッセルは思った。ひどく、心地が良い。


 身じろぎをしようとして、痛みに意識が覚醒した。瞼はまだ重かったが、何とか開いた。見知らぬ天井。ベッドに横たえられているようだ。身体が鉛のように重い。首を回そうとして、あまりの痛みに苦痛の声が漏れる。痛みは、全身にわたっている。自分の顔が晴れ上がっているだろうことは鏡を見なくても予想ができた。


「おはよう。……あ、動かない方がいいわ」


 ラッセルの顔を覗き込むようにして、マリーナが挨拶してくれた。


「ここは?」

「宿屋よ。ラールゴール様が用意してくださったの」

「ラールゴール様?」

「ジーラゴンの領主様よ。ちょうど今いらしてるから、呼んでくるわ」


 行かないでくれ、とラッセルは言いそうになったが、それは格好悪い気がして何も言わなかった。どうにも、マリーナの前だと素直になれない。


「目を覚ましたようだね」


 褐色肌の男が、ラッセルを覗き込んで言った。こいつが、ラールゴールか、とラッセルは思った。ラールゴールの顔は笑っているが、その瞳は見下しているように思えた。見下ろしているのは当然なのだが、それ以上に侮蔑のこもった瞳。気に喰わない。


「ナーラン様と、彼女……マリーナに感謝するといい。君が死ぬ前に助けてくれたのはナーラン様で、君を介抱してくれていたのはマリーナだ」

「宿を手配してくださったのは、ラールゴール様よ」


 マリーナの声がする。ラッセルは「ありがとうございます」と声を絞り出した。


「治るまで、この宿を使ってくれて構わないからね」


 ラールゴールが言った。ラッセルは再度礼を言った。ラールゴールが部屋を出ていき、マリーナが再度ラッセルを覗き込んだ。


「何か食べれる物、持ってくるわね」


 マリーナがスープを持ってきた。スプーンで一口ずつ飲ませてくれる。温かいスープが、全身に染み渡るようだった。身体と同時に心も温まる。安らかな時間が流れていく。ラッセルは幸福を感じていた。


 翌日、ナーランが見舞いにきた。ナーランはラッセルの姿を見るなり笑った。


「驚いたよ、一人で兵たちに殴り掛かったって?」


 バカにされているような気がして、ラッセルはふてくされながら「はい」と答えた。


「これでも、おれは君を買ってるつもりなんだけどな、ラッセル」


 ナーランはまだ笑っている。


「助けてくださったって、聞きました。ありがとうございます」

「いやいや、礼には及ばないさ。もともと、軍内の規律が守られていなかったのが悪い」

「なんで取り締まらないんですか」


 ラッセルは訊ねたが、自分の質問が上滑りしていることにも気が付いていた。ラッセル自身、良く分かっていたからだ。兵たちに略奪をそそのかしたジャハーラ。金品を手にした兵たち。与えられた休暇と、集められた踊り子。奪った金で英気を養え、というのはそういうことだ。厳しく取り締まるはずがない。当然そうなるだろうと分かった上で、軍の上層部はこの状況を作ったのだ。


「君はずいぶん正義感が強いみたいだね」


 ナーランはそれだけ答えた。ラッセルはそれ以上、質問を重ねなかった。ナーランがそういう話をするために立ち寄ったのではないことは確かだった。


「軍を三つに分ける。ジーラゴン、ゾゾドギア、そしてルノア大平原に打って出る部隊。新兵はゾゾドギアに集められる。分けると言っても、ジーラゴンに残していく兵はわずかだ。ほとんどが渡河し、ゾゾドギアで王国軍に備える格好になる」


 川の中州にある城塞都市ゾゾドギアを拠点にするということなのだろう、とラッセルは思った。


「ラッセル、君はジーラゴンの輜重隊に入って欲しい」

「なっ」


 ラッセルは驚いてナーランの顔を見つめた。


「おれに戦うなっていうのですか」

「ラッセル、君は休暇中に私闘を行い、怪我をした。そうだよな。本来は君を処罰しなきゃならないが、事情を鑑みて不問にしている。だが、怪我人は輜重隊に回す」

「こんな怪我、もう治りますよ」


 ラッセルの腕を、ナーランは掴んだ。それだけで激痛が走る。ラッセルは顔をしかめた。


「調練についてこられるとは、思えないが」

「……そんなこと、わざわざナーラン様が伝えにきたんですか」

「言ったじゃないか。おれは君を買ってるつもりなんだ。輜重隊に、信用できる人間が欲しい」

「それが、おれだと?」

「ああ、そうだ。そう思っている。クイダーナ地方最後の拠点が、ここジーラゴンだ」

「ゾゾドギアではなく?」

「ゾゾドギアは川の中州にある。たとえゾゾドギアが落ちなくても、ジーラゴンが落ちてしまえば、ゾゾドギアは補給を得られずに壊滅する。大平原に攻め入ったとしても、そうだ。クイダーナ地方の最後の拠点が、ここなんだ。ジーラゴンを失ってしまえば、東に行った帝国軍に勝機はなくなる」


 ナーランの言わんとしていることは、ラッセルにも理解できた。補給の面で考えれば、ゾゾドギアよりもジーラゴンが大切だというのも、分かる気がする。


「ならば、ジーラゴンに十分な将兵を残していくんでしょう? 何も、おれじゃなくていい」

「そうしたいのは山々だが、兵士が足りない」


 ナーランは唇を噛みしめて、言った。


「おれがここに残るのは、決定ですか」

「ああ。軍としての決定だ」

「新兵の一人くらい、いなくても変わらないってことですか」

「……どう取ってくれても構わない。だが、おれは君を買っている、ということだけは覚えておいてくれ」


 ナーランはそれだけ言うと、部屋を出ていった。ラッセルは軽い自己嫌悪に陥った。ナーランの言うことが正しいのはわかっている。私闘の挙句、怪我をしたのは自分の責任だ。――だけど、輜重隊だって? 何の為に帝国軍に入ることを選んだのか。王国軍と戦うためじゃないのか。苛立っている自分のことが、嫌だった。ナーランは精一杯、ラッセルを立てようとしてくれたのだ。


「くそっ」


 拳を握りしめようとしたが、腕が痛んだだけだった。


「ラッセル、大丈夫?」


 マリーナの声がする。


「おれは、ここに残ることになった」

「ジーラゴンに?」


 ラッセルは頷いた。マリーナはラッセルの手を取った。


「良かったじゃない。前線に行くより、よっぽど良いわ」

「マリーナは、どうするんだ」

「私? 私は……ごめんなさい、ゾゾドギアに帰るわ。兵士さんたちを乗せた船が出るから、その船についていくの」

「あの小船で帰るのか?」


 マリーナは頷いてから声を潜めた。


「商人たちを乗せるような船は、すごく船賃が高いのよ。ジーラゴンが豊かなのはね、ラールゴール様が船賃で儲けてらっしゃるからよ」

「船の所有者は、みんなラールゴールなのか?」

「大きな船は、みんなそう」


 マリーナは微笑み、なるほどな、とラッセルは思った。

 ラールゴールの見下したような表情を思い出す。気に喰わないと思ったのは、間違いじゃなかったようだ。私腹を肥やす貴族のことは、どうしても好きになれない。


「それで、船に乗るお金がない人たちは、ああやって小船で渡るってことか」


 ラッセルはやり切れない気持ちで呟いた。魔都クシャイズからずいぶん離れたというのに、ここでも何も変わらない。金のある者たちは私腹をより肥やし、金のない者たちは必死で生き抜こうとする。踊り子たちは、生きるためにジーラゴンに集まって来た。だから、昨日のような状況でも、ラッセルが止める必要はなかった。兵士たちが金を払えば、それだけですむ話だったのだ。


 マリーナは? マリーナが他の踊り子たちと同じような方法でしか生活ができないと思っていたら? ラッセルはそれを想像するといたたまれない気持ちになった。しかし、身体はベッドから動かない。縛り付けられているようだ、とラッセルは思った。


「どうかしたの?」


 マリーナが訊ね、ラッセルは首を振った。


「なんでもない。それよりも……おれが倒れていた時、小袋を持ってなかったか? それから、君のベール」

「ベールなら、干してあるわ。わざわざ預かってくれていたのね、ありがとう」


 マリーナはすぐに袋を持ってきてくれた。乱闘のさなかで落とさなかったことも、盗まれなかったことも奇跡のようだ。中にはナーランからもらった金が入っている。すぐにでも奪われていてもおかしくなかった。


「それ、やるよ」


 差し出そうとしたマリーナに、ラッセルは言った。だから自分の身を売るようなことはしないでくれ。そう続けようと思ったのに、それ以上は言葉にできなかった。何も変わらないじゃないか、という気がしたのだ。金を払って女を買う兵たちと、金を払ってそういうことをするなという自分。しかも、そこにはあわよくば自分のことを好いてくれ、という気持ちが混じっている。金を出すから、おれを好いてくれ? それでは、言っていることは他の兵たちと変わらない。そういう方法でマリーナの気持ちを引きたくない、と思ってしまった。


 マリーナは袋を開き、驚いた顔をした。いいの? と問いかける彼女に、ラッセルは頷いた。


 マリーナが抱き着いてくれる。長い黒髪がラッセルの頬をくすぐり、唇を重ねてくれた。心臓が高鳴る。マリーナが唇を離す。すぐそばに、マリーナの顔がある。


 ――これは、買ったんじゃない。

 おれはやつらとは違う。違うはずだ。ラッセルは自分に言い聞かせ続けた。マリーナの身体からは甘い匂いがする。ラッセルは目を閉じた。マリーナの唇が、またラッセルのそれに重なった。

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