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自我の解鎖 [下]

 部屋に置いてある時計の音がやけに耳に障った。静かな時間が降り積もっていく。

 服越しから伝わるほのかなぬくもり。あれからずっとココアを抱きしめている。


「あのさ、ココア」

「……はい?」


 見上げてくる赤い瞳はまだ涙でにじんでいた。


「少し気になったけれどもさ――」


 ここまで言って、何を問えばいいのか分からなくなった。

 我慢して部屋の隅でむくれていたのは分かる。捨てないで欲しいと思っていたのも分かった。おぎなうために、社会性の関係で奴隷イコール命令されるものだとの思いから、命令を下さいと言われたのも分かる。


 でも、何かがかすかに引っかかっている。それを問うにはどう訊けばいいだろうか。とても抽象的な感覚で言葉では伝えにくいもの。香水の残り香のような本当にわずかな違和感だ。


 そういえば、補う手段として命令をもらうのは、ちょっと不自然ではないだろうか。

 一緒にいる間は特に命令らしきことはしなかった。つまり、僕の前では命令を聞いたら喜んでもらえる図式は成立しないと考察できないだろうか。一緒に生活をしていたら、それくらいは考えそうなはず。


「どうして、命令にこだわったのかな?」


 質問の意図を考えるようにココアが黙りこんだ。図星をつかれて言い訳を考えているのではなくて、考えてもみなかった質問へ純粋に眉を寄せているみたいだ。


「ずっと……見ていて欲しいから?」


 何をだよと言おうとしたが、今もぎゅっと握られているそでに気がついた。

 そういえば、奴隷商から引きとってお互いに慣れた頃からだろうか。ココアはいつも袖を握っていたような気がしてきた。


 ずっとお互いの距離が離れないように。

 手を握るよりも遠い距離だけれども、いつもお互いを感じられる距離。僕が無視するには近すぎて、ココアが甘えてくるには遠すぎる距離。

 思い返すとアルフやユーリ、フラン達と話していると、ぎゅっとそでを引っ張った感触がして、ココアへよく目を向けていたような気がする。奴隷としての距離を保ちつつ、いつもココアへ気を向けるように意識を独占されていたのかもしれない。

 ココアは少し考えるように小さく唸ってから話を続けた。


「あと……生きてるだけなんて、辛いから……」


 いまにも崩れそうなもろい表情でココアは言い続ける。


「料理もできません。戦えません。でも、命令なら聞けます。だから――」


 ココアがすっと息を吸い込む。儚げな決意を、悲鳴にも似た呟きで言いはなった。


「あなたに……心も全部ゆだねます……。いっぱい、命令をしてください――っ!」


 毒蜜にも似たような甘い言葉に酔いそうになる。

 感情に流されてしまえば幸せだったかもしれない。ココアの言葉を素直に受け入れれば楽だったかもしれない。


 でも、ココアの言葉は絶対に否定しないといけない。


 前世があったから、どうしても客観的に見てしまうせいだろうか。ポステリーさんと会ってしまったからだろうか。いや、もっと前から知っていたはずだ。

 ――ココアは自分と似ているのだ。


 ココアが言ったことは考えることを他人に任せて放棄することになる。ただ茫然ぼうぜんと効率的に生きていた僕に戻るようなものだ。いや、ココア自身の自我が無い分は、それよりも太刀たちが悪いかもしれない。


 だから、訂正しないといけない。分かっている。でも、それを訂正する言葉が宙に揺れ乱れていた。

 ここで頷けば、抱きしめてしまえば、ココアの何もかもが独占できる。ココアと出会う前に、何も考えずに奴隷商へ入ったときは下心だってあったはず。気持ちがぐらぐらと戸惑い揺らいでいる。


 でも、頷いてココアに肯定することもできなかった。

 いくつもの思い出がフラッシュバックしてきたから。

 ずっと一緒にすごしてきた日々。一緒にイチゴの実を食べたり、ドキドキしながら一緒に寝たり、人形を一緒に作ったり。凡庸な気持ちで過ごしてきた日々たちは、簡単に棄却ききゃくしてしまっていいものだっただろうか。

 この日々たちを捨てることができるのか。


 回答は胸に問うまでもなかった。

 思い出たちに詰まった想いの重さを僕は感じてしまったから。やっぱりココアのことが好きなんだなって、悟ってしまったから。


 ココアに頷けば楽になると思う一方で、狂おしいほどの想いがココアのために動けと叫んでいる。

 気持ちと行動の矛盾した行為。自分でも呆れ果ててしまいそうだ。感情に振り回されるなんて、まるでワガママな子どもみたいで情けない。ほんとうに、情けないくらいに大好きなのかもしれない。それくらいに、すごく大好きなのかもしれない。


 だから、なけなしの勇気をふり絞る。矛盾をはらんだ崩れそうな想いを必死に立たせて言葉を紡ぐ。


「それは駄目だよ。命令しない」


 途端にココアの目じりに大粒の雫がたまってきた。抱きしめている胸の内で小さく震える姿に、鋭利な罪悪感が胸を激痛でえぐった。

 ああ、やっぱりこうなった。分かっていても、怯えた表情にはショックを受けてしまう。


 でも、あんな選択をココアにさせてはいけない。嫌われるかもしれないって分かっていたとしても、それがココアのためにならないなら、僕はここで引くわけにはいかない。


「ちゃんと考えて生きないと駄目だよ。ずっとどんな風にすごしてきたのか、覚えているよね?」

「でも、あの……」


 躊躇ちゅうちょするように、ココアが問い返した。


「……命令したことが、無いです。だから……ちょっと、分かりません……」


 命令を受ける立場は分かるけど、命令をする立場は分からない。考えることをまた放棄してきた。

 かたくなに変えないココアの心へ、何か妙案がないものかと考えをめぐらせる。


「だったなら、お互いに三つずつ命令しあおうか。交互にね。そうすれば、命令する立場も分かるよね」

「えっ――。あの……っ! だめっ、駄目ですっ!」

「命令しろって言ったよね? だから、『お互いに三つ命令すること』を命令するよ」


 ココアが声にならない悲鳴をあげて動揺している。

 さて、言いだしたのは僕だから、最初に命令させてもらおう。その方がココアも命令するのに気が楽になると思う。


「一つ目が、ちゃんとお互いに命令すること。言いたくないとか駄目だからね」


 これでココアの逃げ道を封じた。

 残りふたつ。どうしたものか。


「……とりあえず。命令の二つ目は、まるまってないで顔を出して」


 少し前に抱きあった名残で、ココアは僕の胸に頬をくっつけながらまるまりかけていた。

 もちろん身長差が原因でもあるんだろうけれども、一緒に寝る時は決まってお腹のあたりでまるまって寝ている。


「あの……まくらがないですから、いいです」

「んー、腕まくらでも使ってみる?」

「でもっ、悪いです……! だめですっ!」

「そんなに嫌なら命令の三つ目は、腕まくらにしちゃおうかな」


 腕をぽんと差し出してココアを急かせた。

 僕は自分が思っているよりも、本当はイジワルなのかもしれない。


 ココアが恥ずかしさのまじったジト目をしてきたけれども、僕は知らんぷりをした。ココアはもじもじといったように僕の腕へゆっくりと頭を乗っける。

 腕から感じられるココアの重みに、ココアが目の前にいることを実感する。息のぬくもりが感じられるほどに近い距離。ほんのりと赤みが差した顔と見つめ合った。


 途端に心臓が破裂しそうなくらいに鼓動してきた。次第にむずがゆい恥ずかしさがこみ上げてくる。

 自分でやらせておいて、見事に誤爆してしまった。


「次はココアの番だよ」


 動揺を誤魔化すように、ココアへ話しかける。でも、ちょっと声が震えていた。バレたかなと焦ったけれども、ココアはとても深刻な表情をしていて、それどころではなかったみたいだった。


「……分かりません」

「ひとつ目の命令。ちゃんと命令すること、だよね」


 ピンとこないような表情をしている。考えるココアが少しだけうつむいた拍子に、ぬくもりの距離がそっと近くなった。

 顔に熱がはしる。耳まで熱い感覚がしてくる。動悸どうきがさらに加速した。 


 ココアがひらめいたように、ほぉとした表情になった。おずおずといったように命令を言う。


「それなら……。ぎゅっとしてください」

「ああ」


 背中に手をまわして、そっと触れるように包み込む。

 抱きしめた拍子に、ココアの長い髪が僕の頬をくすぐった。奥ゆかしい月の光がとけたような髪が、さらりと流れている。

 ココアのやわらかいぬくもりの香り。呼吸の音がする。トクリと響いている心音も感じられた。


「あとは……」


 話した吐息が、頬を撫でてくすぐったい。


「……撫でて下さい」

「ああ」


 つややかで豊満ほうまんな髪をそっと撫でる。かろやかでさらりとした撫で心地は、ずっと撫で続けていたいような髪質だった。

 ココアが目を細めて力の抜けた表情をしている。恍惚こうこつな表情に目を奪われているとはっとした表情になった。頬を染めたココアが視線から逃げるよう、赤みの差した顔を僕の胸へぱふりとうずめた。

 ココアの鼓動が早くなった。体を密着させているから分かること。ちょうど、僕の心音と同じリズムでトクトクと動いているのを感じられる。


 ところで、ココアが詰まりながらもスムーズに命令をしてきたことに疑問が湧いてきた。もしかして思いついたものを漫然と挙げて命令を消化したのではないだろうか。もうちょっと躊躇ちゅうちょがあってもいいと思う。

 だから、きっと手を抜いたに違いない。そんなタテマエを見つけたからイジワルをしてみる。


「ちなみに、ココアの命令は、あとみっつだからね」


 伏せていた顔が上げられる。

 上目づかいで、きょとんとした顔をされた。


「ココアに言われて自発的にやったことだから、命令じゃない。なるほどそうして欲しかったのかって同意して行動しただけ」


 とっておきのイジワルに、ココアがあたふたとしながら答える。


「でっ、でも……っ! それなら、ひとつ命令を……忘れてます……っ!」

「なにが?」

「……ちゃんと、命令を言うことは、私も……同意するから、です……」


 なるほど。ココアがちゃんと命令を言うつもりなら、僕の一つ目の命令は意味をなさなくなる。そもそも、『ルールを破るな』を一つ目の命令にするのは詭弁きべんいきだ。


「じゃあ、一つ目の命令は変更。寝る時は布団の中でまるまってないで顔を出して。時々に蹴りそうになって怖いからね」

「……蹴られるのは嫌です。……同意します。もっと、ひとつめを言って下さい……」

「あとでね。ココアの方がみっつも余ってるよ。そっちが優先だよ」

「……優先なんて、ないです」

「へぇ、俺 の言うことを聞けないんだ?」


 僕は『俺』を使って強引に押し通した。

 ココアは少しだんまりしてから、観念するように小さく息を吐いて続きの命令を言った。


「でしたら……口調を直してください……」


 直すとは、どのようにだろうか?


「アルフレイドさんと……話す時みたいだと……いいです……」


 タメ語のことらしい。


「そっか。ふたりっきりのときは、ココアも丁寧な言葉を止めたらそうする」

「……分かりました。あの……、でも……、どうやって話せばいいのか……分からない、です……」


 奴隷だから丁寧な言葉しか使ったことがなくて分からないようだ。どういう風に伝えたら分かりやすいだろうか。

 言葉を使って会話をする。会話はキャッチボールに例えられたりするのを思い出した。


「言葉を投げるつもりで言ってみたらどうかな?」


 会話をキャッチボールに例えるなら、ココアの球は消える魔球のように分からない球が多い。気をつけていないと投げたことすら分からないメッセージが入っているときもある。もちろん、どんな球がきてもキャッチできるなんて言いきれないけれども、いや、そもそもキャッチできていなかったから数分前みたいな状況になってしまったけれども、それでも、ココアのためならどんな球が来ても受け取ってみせたいと思う。

 だからどんな言葉だったとしても、安心して投げて欲しい。本人の前で言うのは恥ずかしいから、絶対に言わないけれども。


 ココアは受け取った言葉を吟味して話した。


「……丁寧な言葉を、止めます」

「止め『ます』?」

「……止める」


 真っ赤に染まった顔でうつむきながらボソリと言った。

 愛らしいしぐさに、思わずココアを撫でる。ココアは拗ねたように小さく唸りながら、甘えるように頭をあずけてきた。

 かぼそい声でココアが小さく呟いた。


「けっ……、ん」


 何か言ったらしい。

 赤面した顔でもじもじしながら、ココアがじっと見上げてきた。


「け、けっこ……」


 熱のこもった声。もごもごと言われてちょっと聞きとれない。

 落ち着かないようにそわそわしながら見上げてくる瞳は、儚げな嘆願たんがんがこもっている。


「……け、けっこんっ、ごっこ……し、しまっ、しましょうっ!」


 ――何を言ってるんだ?


 耳まで赤くなったココアが、今にも消え入りそうな小さい声で呟く。


「ふたつめ。けっこんごっこ……する……」


 恥ずかしそうにうつむいた。

 けっこんという言葉にココアの独占欲が覗けたように思えた。ごっこという言葉に、いじらしさというか、ココアの可憐なしおらしさが垣間見えたような気がした。


 真っ赤にうつむいているココアの頬に手を触れて、そっと顔をあげさせる。緊張したココアの真紅の瞳と視線がからみあった。不安げにまばたきをしている。

 ああ、やっぱりココアのことが大好きなのかもしれない。世界で一番の宝物へ、そっと熱を忍ばせた返事を渡す。


「じゃあしよう。今から」

「はい……っ。えっ――、あぁっ、うん……!」

「『はい』から『うん』に言い直したね? ――じゃなくて、言いなおしたな?」


 お互いともはにかんだ眼差しが重なって、一緒に小さく笑いあった。

 ココアが甘えるように僕の胸元へ顔をすりすりとこすりつけてきた。されるがままに抱きしめながら、そっとココアを撫でる。優しく触れるたびに、安堵のまじった小さな吐息を漏らした。


 ずっと小さな幸せを抱きしめていると、ココアが顔をあげてきた。期待をふくらませているように、かすかに跳ねた声を投げてきた。


「ごはん、いっしょに……作る」

「ごはん?」

「みっつめ。一緒に……作りたい……」


 そういえば、まだご飯を食べていなかった。今さらに食堂へ行っても、夕食は残っていなさそうだ。部屋の据え置きのキッチンで何かを作った方が建設的かもしれない。もっとも、この場合は有用的な意味じゃなくて、『一緒』の部分にすごく惹かれるものがあるけれども。


「さて、一緒に作ろうか。ココア」


 むぅと口をすぼめられた。言葉に問題があるのだろうか? でも、別に問題もなさそうな気がする。いや、一番に大切な部分を忘れていた。


「えっと、その……なあ」


 恥ずかしさが喉に詰まって、声が出なくなった。

 はにかんだ緊張に震えた声で精一杯に呼びかける。


「なぁ、『ココ』。一緒に作ろう」

「……うん」


 はじめて呼んだ愛称。二人の時間をそっと染めあげた。




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