自我の解鎖 [上]
ポステリーさんの言葉が頭の中で未だにぐるぐるとまわっている。
自己を自分で理解するのは難しい。もちろん、これが好きとか、あれが苦手だとかそういった個人の好みは知っている。でも、そういった意味じゃないと思う。
何かが変だと直感が気付いているけれども、どうにも分からない。もとい、思い出せないと言うべきだろうか。誤った生き方なのは理解できたけれども、何をすれば解決できるのか分からない。試験の答え合わせでバツマークをもらったけれども、それだけだと正しい答えが何か分からないようなものだ。
もやもやとした気持ちを抱えながら、自室のドアの前に立った。戸越しから重たい空気がにじみ出ているように感じられた。ノックを三回して入る。暗い部屋の中、下段のベッド。ちょうどまるまったココアほどの大きさで布団がひと山ふくれていた。
「ここにいたんだね」
「…………」
布団がちょっとだけ動いた。
でも、反応はそれだけ。相槌くらいあってもいいだろうに。いや、答えなくてもいいと無視をされたのかもしれない。
「夕食はとった?」
布団が、もふりと小さく動いた。戸惑ったような沈黙の後に、ココアが小さな声で答えてくれた。
「……食べていません」
「じゃあさ、食べに行こうか」
「構わなくていいです……」
何かがおかしい。
ふと先ほどのポステリーさんとの会話を思い出す。きっとココアは、何か嫌なことがあったら、ヤキモチを焼かないで部屋の隅でむすっとしているタイプ。
自覚してみるとけっこうキツイ。罪悪感というか、重たく胸にくるのものがあった。
「一緒に行こうよ」
「…………気にしないでください」
少し考えたように間をおいた返事。ココアが布団の中で再び丸まった。
事前にポステリーさんと会えてよかった。様子がおかしいココアの認識で放置していたかもしれない。もしかしたら、今日以外にもこんな日はあったかもしれない。なんとなく流してしまったときもあったかもしれない。
思いきって近づかないとココアの心は分からない。避けてきたつもりは無かったけれども、避け続けてしまっていた代償が目の前の光景として広がっている。
「仕方がないか……」
「……」
ふくれている布団の隣に座る。避けるように布団の山がもそもそと動いた。
ベッドサイドにあるぬいぐるみ人形を手に取る。人形劇をやった後に販売してみようと思い作ってみた、きっちりした鎧の兵士のぬいぐるみに、オレンジ色のファンシーなドラゴンのぬいぐるみ。
「……仮契約完了」
ほんとうに仕方がない。うん、少しくらい強引でもいいよね。
「作戦目標は布団の中で籠城するココアの奪取! ――みんな突撃ッ!」
コミカルにちょこちょこと人形が動きだす。これらのぬいぐるみ人形にも、核となる宝石が入っている。子どもへ使い魔使役の練習にも使える配慮からだ。もっとも、純度が低くて人格形成はできないが、簡単な命令くらいなら聞いてくれる。
びくりとココアが身を固めた。
そんなココアに構わず、兵士のぬいぐるみが、よっこらしょと布団をはがそうとする。必死にココアが布団を掴んで抵抗をする。
「地の利はこちらにあり。陽動作戦成功、残念だったね」
ドラゴンのぬいぐるみが、ベッドマットをぴょんとひっくり返そうと小さく投げた。
「……ッ!」
ココアにとってみれば、まさしく天変地異。
ココアの身体が布団とベッドを掴みながら空中にふわりと浮いた。空中に浮いた刹那に、ココアが布団やベッドを掴んでいない部分が見える。その隙間へ飛び込んで捕まえる。
マットレスがひっくり返った。ベッドの底の板に体を二人でぶつける。その上にマットレスがどすりと落ちてきた。
「ぐっ……!」
落ちてきたマットレスからココアを庇う。ココアの無事を確認しようと見ると、あろうことかチャンスとばかりに逃げだそうとしていた。ココアの腕を掴んでベッドの底へ引きずり込む。
――逃げたのなら仕方がない。さて、マッドレスの上が天変地異なら、マッドレスの下は地獄ということだろうか。
「ひっさつ――! くすぐり地獄の刑!」
「――っ!」
むすっとしたココアへ、こちょこちょ攻撃を開始する。
「ひぃっ――、ひっ――! ぴゃ――っ!」
ココアが抵抗してくるが、後ろから密着するように抱きよせて体を固定する。バタバタしているココアの足は、こちらの両足で挟んで片足を確保。これで、どうあがいても逃げられない。
抵抗する気力を失うまでくすぐり続けてやる。
「やみゃっ! やめ、やめて……くださ、い……っ! ひゃう、ひゃひぃっ! あははははっ! おっ、お腹が……っ、痛くなりっ――ひゃいっ!」
「ぐはっ――!」
ココアのヘッドバットによって、くすぐりの刑は中断された。
顎がすごく痛いし、脳味噌がシェイクされたみたいにぐらぐらと意識が揺れている。変なところに入ったせいか無茶苦茶にダメージが大きい。
すごく痛いけれども、そのままココアの華奢な体を強く抱き寄せ続けて逃がさないようにした。
「いっ痛――。 絶対に逃がさないからな」
ココアは息を切らしながら、恨みがましさが差した上目づかいを向けてきた。
まぁ、笑顔になってくれれば、作戦勝ちだ。ココアにヘッドバッドをされながらやる価値があった。まだ顎が痛いけど。
ココアがむすっとした声で批判を刺してきた。
「……よだれっ、でりゅかと……思いまし、た」
ちょっと呂律がまわってない。かなり効果がばつぐんだったらしい。覚えておこう。
新しく見つけた愛らしい弱点に笑いをこらえながらココアへ話しかける。
「落ち着いた?」
「……落ち着けません」
「でもさ、嫌な気分は切り変わったよね。ずっと考えてたら行き詰まるよ、だから話してくれないかな?」
「…………」
「じゃあ今度は全力でしよっかな。ぜんぶの人形達を起こしてくすぐりの続きを――」
「や、やめてくださいっ!」
「冗談だよ。でも、心配だから」
「…………」
音が盗まれたように静けさが広がる。ココアの答えをじっと待つ。
ポステリーさんが、もっとココアの心へ近づけと言っていた。けれども、自分にはこれが限界だ。ここから先の強引さは、どうも力加減が想像できない。むしろ、さっきの行動が自分にとって今世最大の強行だったかもしれない。
ここまでやって駄目なら、これ以上やっても嫌われるだけかもしれない。
肩の力を抜いてココアの拘束を弱める。逃げられたら悲しいけれども、ココアが嫌がっていたら意味がないからだ。
捕まえているココアの身体から力が抜けるのを感じられた。抱きしめている腕の中でココアが身をよじらせる。こちらと向かい合って上目づかいで見つめてきた。
「あの……。やっぱり、おかしくないですか?」
「なにが?」
ココアが苦々しく目を伏せた。
急かさずにココアの言葉をゆっくりと待つ。言うべきか当惑しているような長い沈黙だった。
「……わたし、奴隷です」
「そうだね」
「言うこと聞かないと……駄目なんですよ……」
「知ってるよ」
「私は奴隷なんですよ……っ! どうして、何も……命令してくれないんですか……?」
それはこの世界の慣例なだけだ、と言おうとしたが言葉を飲み込んだ。
そういえば、自分はどうやってこの世界で生きただろうか。それを思い出したからだ。
「命令を聞きたいの?」
「だって……おかしいじゃないですかっ?」
転生してはじめにやったことは、この世界に馴染む努力。学校に入学したときや、働くときだったとしても一番に大切なのは、社会性を尊守すること。ようするにチームとして動く以上は、ルールを守らなくちゃいけない。とても大切な常識だ。
「ずっと……昔から。ずっと、ずっと……言うことを聞いていました。何も…言わなかったら、何も……できないじゃないですかっ……!」
異世界の価値観に長い間さらされることによって、異世界の社会性へ矯正されていく。慣れてくると無意識で社会性に合わせて生きていく。いつの間にか異世界の価値観を尊重するようになり、それに沿って生きていくことに憧れ始める。
テストで良い点数をとることを崇拝しているのと一緒かもしれない。学校だけの価値観なのに、いつの間にか試験の点数が集団の価値観となり、自分の価値観が蝕まれていく。
「なんでも……。ぜったいに、言うこと聞きますから……っ!」
ココアは奴隷の心を持っているからこそ、命令されるのが生きがいになってしまった。
でも、その価値観は根本が違う。社会性に寄り添うことは生き延びるためだ。生きることとは違う。
この子を引きとった理由が分かった気がした。
――自分と似ていたからだ。
別に社会性を壊そうなんて言うつもりは無い。でも、社会性を学生服に例えるなら着るのは外であって、家の中では着なくてもいい。無意識で社会性に染まってしまうと、家でも学生服を着ていないと駄目だと思えてしまう。
だから、社会性に流れるように生きてはいけない。部屋でも学生服でいたら、私生活ですら変わり映えのない日常になってしまう。それでは生きることを労働のように捉えてしまうだろう。
とっくの昔から、いや地球にいたときから、既に生きることを労働のように捉えていた気がする。
そんな日々を繰り返していたら、心が冷え続けてしまう。人間の心の絶対零度はどんな状態か分からないが、ココアの心はそれに近いような気がしてきた。
「命令か……」
「……お願いします」
冷めた心は焚きつけないといけない。
ひとつだけアイディアが思い浮かんできた。そのアイディアを手に取っていいものか。
いつもなら客観的な立場ですらりと手に取れるけれども、どうにも胸に不安が湧きあがって埋め尽くしてしまいそうになる。
答えが迷走を始めた。もしかしてこの答えは浅はかな考えではないだろうかと困惑してしまう。
「…………」
沈黙の時間が容赦なく流れていく。時間が経つにつれて思いついた答えが色褪せていくのを感じられた。
このまま困惑に流されるのが一番に良くないのに、心はいつまでも踏ん切りがつけられずにいた。
「命令は……駄目ですか……?」
「いや、駄目じゃないよ。駄目じゃなくて、その……」
呑み込もうとした言葉を止める。
まったく、情けなくてしょうがない。これでも男の子をやっているんだ。肝くらい据えないで、意地ぐらい張らないでどうするんだ。
冷えた心を助けてあげたいんだろ。だったら、暖めてやればいいじゃないか。理解してあげたいんだろ。それなら、心に近づかないでどうする気なんだよ。
狂おしいほどの想いが胸を掻き乱す。嫌われたくないから。でも、ココアのためになるなら構うものか。そうだろ。
ちゃんと「自我」を持っているならさっさと決断しろよ。アイディアを言ってしまえよ。
――早く言えよ『僕』!
「命令は――。今日に遭った嫌な事をぜんぶ、『俺』に教えること」
「――――ッッ!」
絡み合う視線に怯えた瞳。ココアの震える指が上着の袖を掴んだ。
途端にかける言葉が宙に舞った。ああ、やっぱり情けない。だから、外では『俺』なのに、心の中では『僕』なのだ。ココアに有無を言わせないために、勢いで言った仮初めの『俺』だ。なんとも『僕』は頼りない『俺』なんだろう。
「俺の言うことが聞けないんだ?」
「でも、その……」
ココアの声色が怯えたように揺らいでいた。
ココアを抱きよせていた腕に、軽く力を込めて優しく抱きしめる。
「これでも男の子をやっているからさ。もうちょっと意地くらい張らせてよ」
ココアが握っていた服の裾にきゅっと力が入った。握られた弱々しい力は、おぼろげであり、儚い決意を感じられた。
小さく震えた声に耳を傾ける。
「傷つくかも……しれません……。……嫌なことを……考えてるかもしれませんよ……」
「嫌なことをぜんぶ聞いてあげる。傷つけられてもぜんぶ受け入れる」
いままで誤ってきた日々をここで清算する。
ほんの少しだけでも良いから、ココアのことを分かってあげたかったから。何が辛かっただろうか。何を切望してきたのだろうか。何を恨んできたのだろうか。
本音を吐く方も辛くて傷つくだろうし、受け取る側も傷つくのは知っている。でも、少なくとも僕は、醜い本音も全て受け入れて、優しく傷つけあう覚悟は決めている。
傷つけられても受け入れると言い切った残響が無音として広がった。僕の鼓動の音すら聞こえてきそうなくらいの静寂。
ココアは上着を握っていた指を握り直した。すがるような儚い力で掴みながら、湿った声で呟いた。
「アルフレイドさんや……フランチェシカさんが、あなたと楽しくおしゃべりして……。でも、私はできなくて……、おしゃべりできる人が……たまらなく憎かった……っ」
ココアの最初に受けた社会性は奴隷の心得だった。だから、ずっと耐えることを覚えてしまい、それが基準であると誤解していく。やがて、心が痺れて何も感じられなくなってしまった。
「指輪の人と戦うとき。……何もできなくて、いっしょに戦えなくて悔しかった。……いつも良くしてくれているのにっ……何も返せない私が……嫌だった……っ!」
ココアを奴隷商から引きとって、ココアが奴隷でない立場になったとき。始めて奴隷の生き方の抑圧が溶けた。
「邪魔だったら……邪魔って言って下さいっ! 優しくされると、分からないです……。なんでも、言うことを聞きますから……っ。汚い心でもっ……、ずっと誰かを妬んで、僻んで考えてっ……、でも、私を捨てないで……っ」
心の痺れが解けて、初めて知った自分の心に渦巻いていたのは、辛み、嫉み、嫉妬だった。
まっさらに綺麗な心のココアが、はじめて知った心をけがらわしく思ってしまう。その感情を隠したいと思っても、折り合いをつける方法が分からない。だから、奴隷として学んだ「我慢」を重ね続けてしまっていた。
ココアの言葉を受け入れて、僕の言葉を贈る。
「捨てないよ」
伝えたいことはたくさんあるのに、渾身で絞り出した言葉なのに、たったひと言しかいえなかった。
言葉の形にすれば、どうしても劣化するような気がして。言葉という物のもどかしさジリジリと悶え焼かれる。
だから、言葉よりも確かな方法。ココアの存在そのものを肯定するように、さっきよりも力を込めて抱きよせた。
「……ごめんなさいっ」
ココアがあどけない顔を僕の胸に押し当ててきた。
耳を澄ませるとすすり泣くような声が聞こえる。心の本音に優しく触れるようにそっと頭を撫でる。ずっと離れていた心の距離を埋める抱擁を、ココアの嗚咽が止まるまで続けた。




