かき鳴らされる心
ふと視線を外すと、窓辺から目を刺すような朝日が部屋を照らしていた。作り終わったぬいぐるみを机に置いて椅子から立ち、カーテンを開けてみる。街並みが真鍮色に染まり、ぽつりと人が歩き始めていた。
木々の隙間から陽光がキラキラとひかり、どこまでも澄み渡った青空を気持ち良さそうに鳥が翔けていく姿をぼんやりと見送る。
ナズナがビーズケースをしまいながら、ねぎらいの声をかけてきた。
『徹夜、お疲れさまでした』
「ありがと。本当は夜更かしコースのつもりだったんだけれどもね」
大きく伸びをする。縮こまっていた体がほぐれて気持ちがいい。随分と長く作業に没頭していたみたいだ。
大ボタンの上を片足でケンケンと飛んで遊んでいたポプラが遊ぶのを止めた。すると、呆れたような細い目でこっちを見てきた。
『あのさー。別に今日、いや昨日かな。とにかく、夜明かしコースになるマデ頑張る必要は無かったんじゃないの?』
「たしかに、時間はあったよ。でも、今日は予定を空けておきたかったからね」
ポプラに相槌を打ちつつ あくびを噛み殺しながら二段ベッドの下段を見る。
柔らかそうなベッド。白いシーツの上に長い髪がぺしゃんと散らばっていた。いつも使っている真っ白な枕に、いまは可愛らしい寝顔が乗っている。小さな両手で枕のはしを きゅっと掴んで、くぅ、くぅ、と寝息をたてていた。
◇◇◇
今日はココアの日用品を買うために時間を作った。ココアと一緒に朝食を済ませ、出かける準備をする。
「準備はできたかな」
「はい」
鈴の音を転がしたような小さい声が返ってきた。出かけることを伝えると、ココアはフランに教えてもらったツーサイドアップの髪型でリボンを結ぶ。奥ゆかしい紺色のワンピースにオレンジ色のケープを羽織り、ブローチでケープを留める。着せた後に気付いたけれど、ケープのせいで鳩胸に見えてしまうのが分かった。気に入ってくれたのか分からないけれども、いや気に入ってくれたなら作った甲斐があったけれども、ケープを見るたびに失敗したのを見せつけられているようでちょっと複雑な気分だ。
出かけようと玄関に行くと、見慣れない靴が置いてあった。ほんのりと丸まっているつま先で、ちょこんとリボンがついたダークブラウンのストラップシューズ。少なくとも、ここにいる男連中が履くような靴ではない。
「これってフランのやつかな」
「はい……。でも、貰いました」
「あれっ? それなら、最初に履いていたのはどこにある?」
「捨てられました。いらないよね、と」
せめてひと声かけて欲しかった。フランは新しいもの好きだから、ちょっと古いだけで捨てようとしてしまうことが多い。古くて着ないなら捨てる価値観は理解できるけれども、他人のものまでノリで捨てるのはちょっと困る。
でも、奴隷服はボロボロだったから、捨てられた皮靴もそんなものだったのかもしれない。それならいいんだけれどもな。
未だにベッドの上で まどろんでいるアルフに出かけると声を投げる。面倒くさそうな うめき声を返された。たぶん、「分かったから、さっさと行け」の意味だと思う。
まるでお日さまが清澄な空気を吐いているような、朝の凛とした香りがする。
街は通勤ラッシュが終わり、いまは人がまばらに歩いている。人に溢れているいつもの歩道は、すがすがしい静けさが広がっていた。時折に荷物を持った大人たちが忙しそうに横切っている。活気のある露天市が、いつもとは違った一面を見せている光景。新鮮な気分で眺めながら買い物をする。
ココアのコップと食器を購入する。野外実習のために水筒も必要そうだ。もしかしたら、弁当箱もいるだろうか。実習では学生は学校から食料を支給されるが、奴隷だったとしても付き人の扱いになるのだろうか。そういえば、タオルも買い足した方がいいかもしれない。荷物を持ちながら、全部を買うといくらになるだろうか考えながら歩く。
思案にふけっていると、遠慮気味に くいくいと左袖を引っ張られた。
ココアの両手が、きゅうっと左袖を握っていた。無表情な水晶のように硬く凛とした表情が見つめている。背中まで伸びた 左右に結われている長い髪が、静かに吹き抜ける青い風にたなびいている。
「大丈夫ですか。荷物……」
痛いところを突かれた。
たしかに荷物が思ったよりも多かった感は否めない。人形を使うと魔力を使って疲れるのを嫌がった選択だったが、今回は失敗したかもしれない。
ココアの視線が荷物の方へ落ちる。荷物を持たなくてもいいのかと訴えるように、心配そうな瞳で見上げてきた。
「大丈夫だよ。ほら、次に行こうか」
大丈夫だとアピールするようにそっと笑顔を渡した。
これでも男の子をやっている。だから、異性の前ではちょっとくらい見栄を張ってみたいものなのだ。ココアの前でなら、もう少しだけ頑張れそうな気がした。
「あ――っ! おっはようございま~す!」
うるさいくらいに元気なフランの声が降ってきた。
声の先を見ると小走りでこちらに駆けてきていた。今日はバレットをつけている。結婚式などで見かけるハーフアップの髪型。ゆるくねじりながら留めたのか、ふんわりと可憐な印象を感じた。休みの日なのになぜか制服を着ているが、制服との組み合わせがいっそうに清楚さを引き立てている。
首から提げている落ち着きのある金色の上品な懐中時計。「トルイト」と名前らしきものが小さく刻印されている。
名前からして男親の方だろうか。目新しいが使い古された時計の輝きが陽光に反射した。
「おはよう、フラン。朝早くから珍しいね。なんで制服を着ているのかな?」
「お父さんの仕事の手伝いをしているんですよ。動きやすい正装はこれしかないですからね。いま暇な時期なのがバレたんですよねえ」
顔をしかめて苦々しげに呟かれた。そのままの流れで愚痴を聞かされたけれども、嫌そうに言っている割には、しっかりと手伝っているみたいだった。
なぜ買い物をしているのかと訊かれて、日用品を買っていることを話す。フランが「あっ」と何かを思い出したように言ってきた。
「そうそう。それなら、ポステリーさんのお店がお薦めです。珍しいものを売っているお店で、前にツゲの木の櫛を売っていましたよ」
「櫛はあるからいいかな。いま使っているのを共有するつもり」
「でも、長い髪ですからね。ちゃんとした櫛で梳かさないと傷んじゃいますよ」
そう言われると買った方がいい気がしてきた。
思い返してみると、持っている櫛は自分用に買ったはずだが、今は人形用になっている。人形用の櫛を使わせるのも あまり良い気分でもないだろうし。
「そっか。ポステリーさんの店はどこにある? それと、露天売りをしてるのかな?」
「露天の人です。時計台の近くの市で売ってますよ。でも、商品をある程度に揃えないとお店を開かない人ですからねえ。でもでも、とってもオススメですよ」
フランがそこまで言うなら行ってみたくなってきた。もっと詳しく聞きたいけれども、その前に気になったことを訊いてみる。
「ところで、ゆっくりしているけれども仕事は大丈夫なのかな?」
「えっ――?」
フランが懐中時計を見る。目を丸くして慌てて別れていった。ちょっと話し過ぎたかな。
「時計台に行ってみようか。もしかして、昨日 フランと一緒に行った?」
ふるふると首を振って答えてくれた。ならば、目指すは帝国の中心にある大時計台だ。
ココアと一緒に歩きながら、これから向かう時計台についての説明をする。時計台は五十メートルはありそうな三角錐の巨大な建物で、それぞれの側面ずつに異なる色で建築されている。パールホワイト、ローズピンク、ターコイズブルーの三色が鮮やかな塔。この色たちには、帝国、境界師の国 リーニュリネア、魔法の国 サーセリースが手を取り合って共存していく願いを込めて造られたらしい。
もちろん時計台が大きいのにはシンボルとしての理由もあるが、元は天気予報の関係で作られたためにこの大きさになった由来がある。頂上では風の重たさを計測することができ、湿った空気の重さで天気を判断しているのだ。たしか、ユーリの親が働いていたはずだ。ユーリム・ベノンズのベノンズは職業を表している。
職業によって苗字が決まり、職を持っていない時期は同性の親の名字を借りる形になっている。
珍しい名字として樹木医のティティリアも挙げられる。樹脂プラスチックや紙を貿易の中心にしているために、木材の加工の技術の発達した。それに押される形で木についての職業が多い。特に樹木医は帝国の中では人気職のひとつでもある。他にも植林師、樹育師など木の関連の仕事だけで かなり細分化されている。
ちなみにアルフのように苗字が無いのは、自分と同じく帝国の外から入学してきた場合だ。
帝国の事について ココアにいろいろと話していると、突然にココアが視界から落ちた。両手で掴まれていた袖が、強く引っ張られて転びそうになるが踏み耐える。転ぶ寸前のココアを右手で支えるように起こした。
「だいじょうぶ?」
「……はい」
儚げな細い声が返ってきた。ココアの視線が履いている靴へ落ちる。心当たりを思い出した。ココアの靴はフランから貰ったばかりで履き慣れていない。もっと早く気がついて休憩をはさんであげればよかった。
「また今度にしようか」
ふるふると首を振られた。
「でも、もっと歩くよ」
ココアの前髪が微風で揺れた。もしかしたら、風じゃなくて頷いたのだろうか。
どうにも意見を変えないようだ。もういちど時計台へ向かう。でも、いちど気が付いてしまうと目がいってしまう。心なしか痛々しく引き摺りながら歩いているように見える。せめて、どこか休憩できる場所でも無いだろうか。見回してみると、小さな公園を見つけた。
「公園があるよね。そこで休憩しようか」
「大丈夫、です」
「昨日は徹夜してたからけっこう眠いんだよ。疲れたから休みたい」
こくりと頷いて、公園へ進路を変えてくれた。
何を言えばココアがどう動くかは分かりかけてきたけれども、なんとなく心の距離感がつかめていない気がする。例えるなら、ココアの周囲にシャボンのように透明な膜が常にまとわっている感じだろうか。姿はしっかりと見えるけれども、確かに何かが間を隔てている。
昨日から気になっているけれども、ココアの心はちゃんと生きているのだろうか。生きている熱が感じられない気がしてならない。感情を摩耗させる奴隷の生き方で冷えきってしまった心。その温度は絶対零度を連想させた。
公園に着き、ベンチへ腰を下ろそうとする。思いのほか勢いよく座ってしまった。揺れたベンチにココアの肩がぴっくりと跳ねた。
「ごめん、驚かせた?」
「大丈夫、です」
こくんと頷いて答えてくれた。
太陽が一番高く昇った晴天の下。心を洗い流してくれるように澄み渡った青空が広がっている。風に流される雲を ぼんやりと眺めていると、眠気に景色が霞んで見えてきた。
春先のぽかぽかした日だまりの心地がいい。徹夜明けのせいか、ものすごく眠い。見栄を張りすぎて疲れたのが止めを刺したのかもしれない。夢に引きずり込まれるような強い眠気に意識を手放してしまった。
薄紅色の光を感じた。瞳を開くと燃えるように赤い夕焼けが空に傾いていた。世界中が鮮やかな赤に包み込まれていて、辺り一面を鮮彩な輝きが染めている。
見上げると、ココアが空をじっと見つめていた。あかね色に照らされた白銀色の髪。凄艶な美しさがさらさらと風に流れていた。夕焼けの中を凛と佇んでいる姿は、どこか儚げに見えて目が離せなくなった。
恍惚と見つめていると、小鳥のように小首をかしげてのぞきこんできた。ルビーのように透き通った赤色の瞳が、こちらを見つめている。瞳が合った刹那に、心臓が壊れたみたいに不器用に騒ぎだした。
慌てて「腰を起こして」跳ね起きる。
あれっ!? なんで、見上げる位置にいたんだ!? ひざまくらをされていた!?
必死に状況を思い出している中を、相変わらずに平然とした面持ちでココアが佇んでいる。
「フランチェシカさまが、来ました」
ココアが指を刺した先には、置いてあった荷物がなくなっていた。少し前にフランがやって来て、部屋まで持って行ってくれると言っていたらしい。ついでに、いまの状況をセットしやがったとか。
すごいところを見られた気がした。いや、すごい状況を作られたと言うべきだろうか。恥ずかしさのあまりに、顔が燃えるように熱くなってきた。
「~~っっ! おっ、遅いから帰ろうか」
少しだけ喉が震えていた。声も震えていたかもしれない。実は震えていなくて、過敏に気にしすぎているだけかもしれない。
「はい」
ココアの両手が左手へそっと添えられた。これもフランに教えられたのだろうか。荷物がなくて都合よく空いている左手がココアの手と重なった。
折れてしまいそうなほどの華奢な指をそっと包むように握る。小さなぬくもりの柔らかさが、どこまでも温かくて全身に広がっていく。思い返すと、初めて手を握ったかもしれない。
夕焼けに染まったココアを見る。夕空に染まった風が、ワンピースのすそをふわふわと揺らす。長い髪が絹のカーテンのようにさらりと風に流れる。ふいに、こちらを見上げてきた。慌てて視線を別の方向へ投げる。
きっと向こうは意識していないのに、ひとりで空回りをしている自分に呆れそうになる。心音以外の音が 全て消し去られたような心地だった。




