1.東京でいちばん珍しい名刺
東京のテレビ局の楽屋口には、独特の空気がある。
照明の熱と、スタッフの焦りと、芸能人の笑顔が、奇妙に混ざり合った空気だ。
「おはようございます!」
因幡ばななが、深々と頭を下げた。
角度は三十度。アイドルとして、最も「感じがいい」と言われる角度である。
「おはよう、ばななちゃん」
ディレクターが笑う。
ばななは笑顔を浮かべたまま、ポーチを開けた。
「はい、どうぞ!」
そう言って、カードを差し出す。
名刺サイズの紙だ。
しかし、名刺ではない。
そこにはこう書いてあった。
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【鳥取県民 遭遇証明書】
本日、あなたは極めて希少な「鳥取県出身の人物」と遭遇したことを証明します。
遭遇者:因幡ばなな
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ディレクターは三秒ほど沈黙した。
「……なにこれ?」
「鳥取県民との遭遇証明書です!」
ばななは胸を張った。
「知ってますか? 鳥取県の人口は今や約54万人。これは23区の杉並区よりも少ないんです。日本で一番人口が少ない県。つまり、東京で鳥取県民に遭遇する確率は、サバンナで特定のチーターに会うより難しい……かもしれないんです!」
「かもしれない、って」
「だから、私に会えたことは、運勢が今日爆上がりしている証拠なんです。記念に持っておいてください」
ディレクターはカードを裏返した。そこにはマジックの汚い字でこう書き添えられていた。
『現在の鳥取県人口:約54万人(ばなな調べ。去年より減っとるかもしれんので注意!)』
「調べ、って……。君、面白いね。普通はさ、もっと自分の宣伝とか、SNSのQRコードとか載せるでしょ」
「私を知ってもらうついでに、鳥取も知ってもらえたら一石二鳥じゃないですか。砂丘と梨だけじゃない、因幡ばななもいるぞって」
ぺこりと再度頭を下げる彼女の姿に、ディレクターは思わず声を立てて笑った。
「分かったよ。財布に入れとく。今日の収録、期待してるからね」
「ありがとうございます!」
ばななはぺこりと頭を下げた。
その様子を少し離れた場所から見ていたメンバーが、呆れた顔で近づいてくる。
「また配りょーるん?」
同じグループのメンバー、モモカだ。岡山出身の彼女は、ばななの「鳥取推し」が過ぎる活動をいつも冷ややかな、それでいてどこか楽しげな目で見守っている。
「うん!」
「もう何枚配ったん?」
「今日でたぶん三枚目!」
「まだ三枚なん?」
「だって朝だけぇ」
モモカは笑った。
「ほんま、あんた変わっとるわ」
「そう?」
「普通アイドルは名刺なんか配らんのよ」
「でも覚えてもらえるで」
「それはそうじゃわ」
モモカはばななのポーチを覗き込み、束になったカードを一枚抜き取った。
「デザイン、ほんまにダサいなぁ。フォントが昭和の役所みたい」
「これ誰が作ったん?」
「私!」
「デザイン微妙じゃなぁ」
「そこ言う?」
二人は笑った。
やがてスタッフが呼ぶ。
「本番いきますー!」
ばななはポーチを閉じた。
その中には、まだ百枚以上の「証明書」が入っている。
彼女の小さな故郷のための、小さな武器だ。




