#49
悪人の見ている世界は、善人には見えない。
同じ世界だというのに。
#49
舟正に言われるままに車に乗り込んだ丹羽はドアを乱暴に閉めると、助手席に乗り込んだ狐刀に何度目かわからない質問を投げかけた。
「……何が起こってるんだ」
「どうもこうも、かれこれ一ヶ月この調子ですよ」
狐刀が笑う。
後部座席で丹羽と井田口に挟まれた瀬世は、狭くもないのに身を小さくするばかりだ。
外は日常と変わりない昼間の日差しが燦々と降り注いでいるが、それが寒く見えるほど車内には殺気立った緊張感が立ち込めている。
舟正はハンドルを握り車を走らせ始めたが、その鋭い目は絶えず後ろの車に意識を向けていた。
狐刀は丹羽の質問にようやく答える気になったらしく、舟正と同じくミラーを注視しながら口を開く。
「──瀬世を預けられてしばらくは静かだったんですけどね。何故か一ヶ月前から執拗なつきまといが起きて、それから二日で奇襲されるようになりました……それも人に」
「いやあ、あれは多分、狐刀さんが瀬世の身だしなみをどうにかするとか言いだしてあちこちに連れ回してたからやないですか?」
「とにかく」
舟正の指摘を軽く流して、狐刀が笑う。
「見知らぬ者の残党を狩る分には文句はない誰かが、しかしその残党をこちら側に置くのを徹底的に嫌っているらしくてですね。鬼不田の屋敷の中にいる限りは手を出してこないのですが……外に出ているとわかるやいなや、この調子で。困ったものです」
苛立ちが込められた声に、丹羽は思わず大きなため息を吐きながら頭を掻いた。
「つまりこうなるとわかってて呼び出したのか」
「はい」
狐刀が軽々と頷く。そのあまりの純粋な返事に、井田口が「ヤバ」ともっともな感想を漏らしてくれた。留飲が下がる。
「いえいえ、でもね、実際に見てもらわないとわからないじゃないですか。電話口で狙われてるなどと情けないことは言えないですし。本当ならば戸頭間くんに来てほしかったんですけど」
含みを持たせてきた狐刀に、丹羽は「それはすみませんね」と流したが、それ以上聞いてこなかった。
どうやら真夜中に本家に強制連行されたという話だけで、戸頭間の身にキツイ監視がついていると思われているらしい。狐刀はこれ以上は丹羽から情報は出てこないと諦めたのか、話を戻す。
「まあ、瀬世がこちら側にいるとまずいらしくてですね。瀬世を殺そうと人を差し向けるんですよ。ほら、我々は手が出せないもので。全て舟正が処理してくれているのですが」
「泥臭いことからは離れていたので身体がなまって大変やったわぁ」
「まあ昔は馬鹿みたいに動けていましたよね」
付き合いが古いのか、二人はどこか懐かしそうにろくでもない話で笑い合う。井田口はげんなりとした顔で黙ったままだ。ヤクザの車に乗って事件現場から逃げているのも、井田口にとっては意に沿わないことに違いない。
舟正が殺したのは一人だけだ。
井田口に手錠をかけられた男も、舟正と瀬世に手を踏まれて磔にされた男も、狐刀が「誰の命令で動いているのか」と尋問しようとした途端に口に含んでいた何かを噛んだらしく、自害した。
今はあの事務所に、三つの死体がきれいに並べられ、その上にコーヒーカップまで置かれている。
次にあの事務所に乗り込んできた者はあの異様な光景を見て気味悪がることだろう。
舟正いわく、その誰かとは、また別の暗殺者だろうとのことだった。
「絶えず送り込まれてくるのですが……ここで一つ引っかかることがありますよね?」
狐刀が丹羽に尋ねるように目をさらに細める。
「瀬世が狙われるということは、瀬世がそいつが知られたらまずいことを知っているということ。ところが、本人は何がまずいのかわからないそうなんです。ただ、喋ることは迷惑をかけることだとはわかっていたそうで、随分長い間沈黙をしていましたけど」
「いやあ、あれはついてくるのに必死で喋る暇がなかったんやないですか?」
舟正が笑う。
小さくなっていた瀬世は、控えめな声で話し始めた。
「……見知らぬ者が死んだとわかってすぐ、そばにいた者たちは逃げました。見知らぬ者は〝戸頭間家〟の協定を結んだ者に甘いことを囁いていたそうです。こちらにくれば、人をすべて消してここを永遠の楽園にする、と」
永遠の楽園。
その気色悪いフレーズに、丹羽は無関心を装う。頭の片隅には穏やかに笑う紫と景の顔が浮かんでいたが、それをどうにか追いやるように視線を窓の外に向けた。
平和な午後の風景に、高ぶった何かが醒めていく。
「でも、それだけです。彼らの世話をしてくれた人が誰なのかなんて、聞いていません。ただ、可哀想な男であるとだけ」
「……可哀想?」
丹羽が思わず聞くと、瀬世は驚いたように丹羽を見てそれから静かに目を逸らした。
「可哀想な男は、妻が元夫をまだ愛しているのではないかと──いつもそう怯えていると、彼は言っていました」
丹羽が何かに気づきそうになったとき、ふと信号が目に入った。赤。当然のように舟正がブレーキを踏み、停止する。
が、次の瞬間、バックミラーを見ていた舟正がバッとシフトレバーを手にした。叫ぶ。
「──襲撃!」
ドン、と背後を何かで殴られたような衝撃。
飛び出そうとする身体が強くシートベルトに抑えつけられる中、凄まじい音が周囲に響き──耳鳴りの音だけが、真っ暗な視界の中で残った。




