#45
足りない。
物足りない。
どれだけ欲しても、理想は追いつく前に更に遠く遠くへと勝手に走っていく。
何をしてるのかわからなくなるほど、走り続ける。
何を追っているのかわからなくなるほど、目を閉じて駆ける。
立ち止まることも忘れる。
もう魂は身体を追い越した。
そんな気がした。
#45
最初にサトルが言ったのは「ようやく止まったか」という一言だった。
戸頭間が倒れた翌朝に武家山が電話をしたときの話だ。
丹羽に代わるように言われたらしく、武家山が部屋にズカズカと入ってきて耳に電話を押し当ててきた。
寝ぼけた丹羽が黙っていると、サトルは何を勘違いしたのか気遣うように続けた。
──気にするな。疲れるまでやらせただけだ。そうでなければ何をしでかすかわかったもんじゃない。あいつは神経が高ぶると本能のままに暴れるから消耗させるしかないんだよ。
丹羽は電話口のサトルの「ああもう疲れた」と言わんばかりの声を聞きながら、ようやく目を覚ました。
どうにか「……そーですか」と呆れながら言うと、サトルは察したらしく「とりあえず一週間の休みだ」と言って切ったのだった。
あれから二ヶ月。
一階とは明らかに違って手入れが行き届いたビルの中を井田口の後ろをついて歩く。
リノリウムの床が天井の白い明かりをうねうねと反射している不気味な病院のような空間を、不気味な男と歩く。そんな丹羽の手には、黒いうねった髪のカツラが握られていた。
まるで生首を持って歩いているような光景だが、人目など気にしない。このビルの中には、丹羽と井田口と──サトルしかいないからだ。
目的の部屋は最上階。どうしてこの兄弟は高いところが好きなのだろうか、と内心で毒づく。
先に階段を上りはじめた井田口は、楽しそうだった。鼻歌まで歌っているが、丹羽の知らない若者らしい歌だ。
井田口は無駄話をしないし、丹羽を「サトルの道具」として見ているので生き物として扱わない。
その距離感がちょうどよかった。
二人分の足音が響く中、丹羽は井田口の背中を見上げた。
公僕らしい雰囲気をまとった男。長髪はそれらしくないが、彼は許されているらしかった。
持つ雰囲気と出で立ちのアンバランスさが、彼の不気味さを際立たせている。
先に最上階に到達した井田口が安っぽいドアを開ける。
開けてすぐもう一枚のドアがあり、井田口は解錠するために暗証番号を入れると、大きくドアを開けた。
「先輩、ただ今戻りました」
明るい声のあとに丹羽も続くと、先程までの廃ビルの雰囲気が一切消し去られた──重厚なホテルの一室のような空間が広がっていた。
窓も光が一切漏れないように潰されているので薄暗い。
その中央の革張りの黒いソファにはサトルが座り、ノートパソコンを見ていた。
「ご苦労。周囲の監視カメラとセンサーを厳重警戒状態にしておく。井田口は休め」
「はい。ありがとうございます。先輩も無理なさらず」
「……ああ」
親しくもないが絶対的な信頼があるような視線を一度だけ交わした二人は、次の瞬間には他人になったように互いから関心を切り離す。サトルはノートパソコンへ視線を戻し、井田口は自分の割り振られた部屋に戻って行った。
ある種の組織に従属する者同士が持つ独特の空気がほんの少し残っている。
戸頭間家の協定とは違い、忠誠心ではなく、いわば利益と安定の上に成り立つ軽薄で裏切りようのない関係に丹羽には見えた。
つまるところ、あの井田口という男が後々裏切り者になるような可能性はない。そもそもサトルが運転手をさせていたのだから、そういう心配は皆無なのだろう。
丹羽はサトルの対面に座る。
「で、なんだ」
いつもならば「ふたりとも休め」というところだが、井田口だけを引っ込ませたということは話があるらしい。
丹羽は持っていたカツラをローテーブルの上に投げた。
ノートパソコンから視線を上げたサトルが、それを見て笑う。
「なんだ。まだ不満なのか」
「二ヶ月経っても不満だよ」
「似ているのだからそれを生かさない手はないだろう。カケルが使えないならお前を使うまでだ」
事も無げに言うサトルは、パソコンを閉じると膝から下ろして隣に放った。
「見つからん」
「……お前が無理なら、相当巧妙に姿を隠してるってことだなあ」
少々苛ついたサトルを笑えば、サトルは意外そうに丹羽を見た。ライターで煙草に火をつけている丹羽に手のひらを向ける。
煙草と銀のライターをローテーブルの上に重ねて置けば、サトルは緩慢な動きで煙草をくわえた。イツルのライターを一度手で転がしてから火をつけ、それをじっと見下ろす。
「あいつがいればな」
珍しく感傷的なサトルに触れぬようにして、互いに煙を吐く。
二ヶ月経ってわかる。
サトルはハルカによく似ていた。
戸頭間の目が覚めないとわかったのは一週間が過ぎてからだ。
丹羽は夜中に武家山に文字通り叩き起こされた。何事かと思えば「カケルを運ぶ。あなたがここに残っていたら怪しまれるから急いで」と修羅のような顔で言われ、丹羽はベッドサイドの眼鏡と煙草とライターだけを鷲掴んだのだった。
ホテルのエントランス前には車が二台すでに停まっており、最初の一台目のワンボックスカーは武家山が担いだ戸頭間と乗り込んだ途端に出ていき、次の車が丹羽の前に止まった。
それを運転していたのが井田口で、助手席に乗っていたサトルが、窓を開けて言った。
「状況が変わった。乗れ」
丹羽は大きな息を吐いてその車に乗り込んだ。
状況が変わったのなら仕方がない。




