#30
愛がどこにあるのかは知らないが、ここにないことは確かだ。
彼女の目がそう言っている。
#30
ハルカはにこりと微笑むと、クラッチバッグから煙草を取り出した。
ゆっくりと立ち上がってバルコニーへ向かう。
観葉植物でひしめき合うそこに、黒い影がそっと立つ。灰色の帯を追いかけるように行けば、彼女は自分の煙草を咥え、シガレットケースを丹羽に向けて寄越した。
一本もらい、代わりに火を渡すために銀のジッポを取り出すと、彼女は酷く驚いたように目を丸め、それからくしゃりと少女のように表情を曇らせた。
丹羽は手のひらのそれを慈しむように転がす。
一年前、名波他を消すときに共犯にさせられたライターだが、あの日からずっとサトルから預けられているままだった。
「……あなたが持ってたのね」
聞かれ、答える。
「ああ」
「そう。なんの因果かしら」
「”戸頭間”って?」
丹羽は火を灯しながら尋ねる。煙草を咥えた彼女の口元へ。
火が燃え移るのを見ていると、あれから三十年近くが経っているとは思えない陶器のような肌が目に入った。
その口元が笑う。
「彼を覚えてないの?」
「……は?」
「海野さんのところにいたのよ。新正とよく一緒にいたわ。戸頭間ミツル」
丹羽は自分の煙草に火をつけ、肺を満たすと煙を吐き出した。
「……覚えてねえな」
「そういう人よね」
「新正とは会ってるのか」
「いいえ。彼が鬼不田の組長になってからは全く。結局足を洗えないままだった……一番堅気に戻りたがっていたっていうのに。まだ二十代だったあの子が懐かしいわ。あなたは会ってないの?」
「伝言を預かってはいる」
「会ってあげるつもりがないのね。可哀想に」
彼女の声に憐れみが浮かぶ。
その声を聞くと、いつも居心地が悪くなった。思わず煙草を噛む。
「鬼不田の若様が死んだときにカケルが関わったと聞いて連絡は入れた時、新正からあなたの名前を聞いて驚いた──生きてたのね」
「悪かったな、死んでなくて」
丹羽が吐き捨てると、ハルカは三十数年前と一切変わらない若い女の姿のまま笑った。
これは呆れているときの笑い方だ。一気に時間が巻き戻る中、彼女は煙草を吸いながら海を見て続ける。
「あなた、カケルが”戸頭間”だから一緒にいるんじゃなかったのね」
「妻の駆け落ち相手の名前なんざいちいち覚えてられるか」
「……さっきから何? 私はあなたの妻ではないわよ」
「今はな」
ハルカは驚いたように目をまん丸くして、それから小さく吹き出した。
「フッ! 嫌だわ、私あなたに愛されてたの? それは知らなかった」
「俺から逃げるまでは」
「寝言は寝て言ってよ。私は逃げてなんていないわ。逃げたのはあなたよ」
丹羽は黙り込む。
こういう不毛な言い争いが続いて、ある日彼女は彼女に反対しない男と出て行ったのだ。
ある意味懐かしい。
「……懐かしいわね」
「……言っとくが」
「はいはい、何?」
「俺は自分から関わってはいないからな」
「カケルの話?」
彼女が小さく頷きながら「そうらしいわね」と言い、目を細めて笑う。
「さっきのあなたったら。びっくりしてるんですもの。面白かったあ」
「……」
「カケルは享楽主義でね。振り回されているのはきっとあなたでしょう。ふふ。サトルの負担が軽くなるはずだわ」
軽やかに笑う彼女の横顔は、すっかり自分の知らない女の顔だ。
丹羽は黙ってライターを見た。
ハルカが頷く。
「息子のものよ。次男のイツル」
「……」
「持っていたのはサトルのずだけど──まあいいわ」
やはり、彼女はすべて見通していて、息子たちの嘘に嘘に付き合ってくれているのだ。
丹羽はライターをポケットに入れた。それを見た彼女が微笑む。
「ありがとう」
「なんのことだか」
「私があなたに礼を言っているのよ。受け取りなさいよ」
肘でぐっと押され、丹羽はよろめいた。
「……兄妹って、なんだあれは」
「子どもたちにバツイチって知られたくないんだもの。仕方ないでしょ」
「気づいてるぞ」
「カケルでしょ? 元夫婦だなんてところまでは気づかないわよ。大丈夫大丈夫」
「俺が言うとは思わんのか」
自分で言いながら、何を言っているんだろう、と丹羽は遠くを見た。
地平線はいつもと変わらず──ここへ来たときと変わらずに輝いている。
「はあ? 思わないわよ。あなたそんな人じゃないもの。だから一年も放っておいてあげたのよ。あなたはカケルが私の息子と知っても知らなくても、危害は加えない。むしろ面倒見のいいあなたに任せたほうが安全だわ。カケルを止められる力を持つ人は少ないの」
「つまり俺に丸投げする、と」
「そうなるわね!」
ハルカがおおらかに笑う。
侵入者に秩序と結束をもたらして管理するべきだ、と言っていた彼女の鬼気迫る顔しか覚えていないことが、今更虚しくなった。
丹羽は紫煙を吐く。
今となってはどうでもいいことだ。
「あなたって変わらないのね」
ハルカが苦笑する。
「戸頭間と一緒になったことも、子供が三人いることも、協定を作って侵入者を管理していることも──何も聞いてこない。何もしていないあなたに名波他のことについて全責任を持ってもらおうとしていることも、わかっているくせに。本当に、昔と変わらず全てに無関心ね」
「……じゃあそちらの三男にも無関心になってもいいよなあ」
「それとこれとは話は別よ」
屈託なく笑うハルカは、また「懐かしいわ」と呟いた。
「変わってなくてよかった」
そう微笑む彼女に、丹羽は眩しそうに目を細めた。
ハルカはまた笑う。
昔はそうして「愛してるわ」と言ってくれたが、それはもう遠い昔の話だった。




