#29
分かり合うことはできない。
結局他人なのだから。
触れ合うことはできない。
その頬は自分のものではないのだから。
見つめ合うことはできない。
彼女は、逃げたのだから。
#29
「わかりました」
戸頭間と照らし合わせた「一年前の記憶」とやらを簡潔に話し終えた丹羽に、彼女はテーブルのボイスレコーダーを見つめたままゆっくりと頷いた。
「では話をまとめると」
「……」
「一年前、突然名波他さんがこのホテルに来た、と」
頷く。
「事前にサトルから”名波他がいなくなった、そちらに来るかもしれない”と武家山に連絡があったので、約束通りここの全員が自室に退避して無人に」
頷く。
「ところが名波他はホテルのガラスを蹴り破って侵入。階段を上がって、バーに来た上に、カケルの部屋にまで押しかけてきた」
「そうそう。ここ少し古いからさ。簡単に押し入られちゃってね」
戸頭間はそう言うと席を立ち、棚の上においてあった茶封筒を持ってテーブルに放おった。
「それ、請求書。業者入れて修理したから」
丹羽は黙ってそれを見る。
中身は割ったバーの窓の代金だ。やたら高かったが、この「真実」とやらには見合った金額だった。
請求書を見ていたハルカがちらりと視線を上げ、戸頭間を見る。
「……修理代、としか書いていないけれど?」
「修理代だからね」
「……」
「僕らに理解のある人を頼ってたから、謝礼金を加味した金額に設定してもらったんだ。戸頭間の三男として恥ずかしくない振る舞いでしょう?」
戸頭間がにこりと笑う。
上っ面で微笑み合うの親子を横目で見ていると、ややあってから二人して同時に丹羽を見た。
「ね? 丹羽さん」
「本当ですか? 丹羽さん」
「……修理代、だ」
辟易しながらも答える丹羽の嘘偽りのない真実に、ハルカは納得したように引き下がる。
「わかりました。では、名波他がここに入ってきてからの出来事ですが──」
「あいつは無理やり連れ出そうとして、それを阻止しようとしたら警棒で殴りかかってきたから仕方なく」
「撃った、と」
ハルカにとっとと帰ってもらいたい丹羽は「ああ」と答える。
さっきから戸頭間の視線がうるさい。
「──そうしたら、彼は消えたのですか?」
侵入者だったのか、と聞かれているのはわかっているので、答える。
「ああ。消えた。綺麗なほど一瞬で」
嘘ではない。
視界から、海の向こうへと消えた。
サトルに綺麗に飛ばされ、戸頭間に文字通り「消された」のだ。
「……そうですか。わかりました。どうして黙っていたのかは」
「おたくの息子に聞いてくれ。俺は何も関知しちゃいない」
「母さん」
戸頭間は穏やかに母を呼ぶ。
「黙っていたのは僕の独断です」
「……カケル」
「兄さんにも知らせなかった。名波他が行方不明になっていると聞いても、そんなのは知らないと黙っていました。なぜかは、聡明な母さんならわかっていただけると思いますが」
「ええ。私にはわかるわね。でもこれを聞く者たちにもわかるように言ってもらえると助かるわ」
ハルカの穏やかな物言いに不穏なものを感じた戸頭間は、肩をすくめておどけてみせた。
ぐっと前のめりになって、ボイスレコーダーに向かって話しかける。
「──名波他が侵入者だったということは、僕と丹羽さんしか知らないほうがいいと思いました。何故なら、彼はとても恨みを買っていた。人からもこちら側からも。侵入者を見つけるために、怪しいやつにはすぐ殴りかかる。無抵抗の者の頭を吹っ飛ばすためにいつも拳銃を携帯していました。人にも暴力を構わず振るって”確かめる”彼の行動を警察も咎めることができず、そのせいで彼はいつも方方威張り散らしていた。そんな彼が、実は侵入者だってって知られたら……困るのは人であり、こちら側でもあるでしょう。人は今まで名波他を重用していたことを恥じ、こちら側は管理下に置くべき侵入者に人の真似事をさせていることに気づかなかったことを公表しなければならない。どちらも憐れだ」
滑らかな嘘が出るその口が、にこりと笑う。
「カケル」
「はい、母さん」
「最後の一言は余計です」
「では言い直しを──名波他が侵入者だったことは」
「もう結構。記録を終えます」
ハルカがボイスレコーダーに手を伸ばし、止めた。
同時に大きなため息を吐き、耳に触れる。
ああ。
丹羽は笑いたくなった。
彼女も嘘だとわかっているのだ。
「時間を取らせたわね」
「ん? いいよ」
「おまえじゃなく……」
そこまで言って、彼女は一瞬だけ間を置いた。
「そちらの丹羽さんよ」
「ああ、なんだビックリした。あんまりにも自然に話しかけるから」
「……カケル。私相手に駆け引きをしたいの? 本気で?」
ハルカが右手をそっとテーブルの上にかざす。
隣の戸頭間がやや身を引いた。
知っているのだ。その手から何が出てくるのかを。
「やだなあ。冗談だよ」
「冗談にしては面白くないわ」
「母さん、僕母さんにお願いがあってさあ」
戸頭間はゆっくりと立ち上がる。
彼の無邪気さが恐ろしい。丹羽は黙って視線をバルコニーに向けた。今日もいい天気だ。
「……何ですか」
「丹羽さんのことだけど。うちの協定にはまだ入って欲しくないんだよねー」
丹羽は海を見つめる。
キラキラと輝くさまを、いつか彼女は「宇宙のようね」と笑って言った。
随分遠い記憶だ。
「なぜです?」
「それがね。協定に入っていないって色々と便利なの」
「今それを言うの?」
「今だからそれを言うんだよ」
二人が黙って睨み合う。
やはり身を引いたのはハルカだった。
「本当の理由を簡潔に」
「脅しやすい。以上」
「わかったわ、どうにかしてみます──ではカケル」
「はい」
「席を外しなさい。丹羽さんと話をさせてちょうだい」
丹羽がぴくりと反応する。
戸頭間はまるでわかっていたように、そのまま部屋から出て行った。
残された丹羽は、じっと目の前の女を睨む。
──最初に来た侵入者の兄妹を知ってる?
戸頭間の声を頭から追い出す。
「……久しぶりだな。ところで君はいつから俺の妹になったんだ?」
丹羽が妻に向けてそう言うと、彼女は昔のように微笑んだ。




