#21
必要なのは真実ではない。
真実に似た何かだ。
#21
「ねえ、覚えてる?」
戸頭間は潮風に髪を撫でられながら丹羽に向かって囁く。
「──僕が、あの男に聞いたとき、誰を見たか」
恐れに目を剥いた情けない顔が、本能が、記憶が、誰を示していたのか。
「丹羽さんを見てたよね?」
「覚えてない」
帰ってきた声の温度には、隠しきれない「絶対に話さない」という意思が見えていた。
戸頭間は笑う。
自分の兄を轢き殺した嫉妬に狂った無様な男が、放心する鳴の腕を取り、彼女が道路に残った兄の服にしがみつくように倒れたところを髪を掴んで引き摺ろうとした場面を想像する。彼女から聞いた話によると、誰かが名波他を蹴り倒したことは覚えているらしいが、それが誰だったかは一切記憶にないらしかった。
「鳴さんが覚えているのは、名波他の車のライトに照らされて影になった男だけ」
「……」
「その男が、名波他に何かを向けていて、名波他は恐れをなして車に乗り込んで逃げていったらしいんだよね」
戸頭間はハンドルから左手を離して、銃を模して丹羽に向ける。
「ね。何を向けたんだろうね?」
「……」
「言わないかあ」
言うとは思っていないけど、と戸頭間は丹羽を許してあげた。
「別に、知りたいわけじゃないんだよ。ありがとうって言いたいわけでもない」
「……じゃあなんなんだ」
「さあね。ただ、その事実は彼を守ることになるよ、ってことを彼に教えてあげたいだけかな」
「……は?」
「おっと、もう少し大事なことがあった。続きを話そうか」
「戸頭間くん」
丹羽が止めるのも構わず、戸頭間は記憶を手繰り寄せる。
記憶を鮮明にしなければ。
「そうそう──武家山さんが僕を止めたんだよね」
▶
「駄目です」
名波他の前に武家山が立つ。
「手を出すことは許しません」
「誰に向かって言ってるの」
戸頭間がにこりと笑えば、武家山の右腕がゆっくりと変化した。
「……あんたこそ、誰の前で人を殺そうとしてんのよ」
「んー。それ、人じゃなくて悪魔だよ?」
「生物的に人でしょうが。馬鹿なの?」
武家山が本気で止める気なのはわかったが、戸頭間も本気だ。
「兄さん、時間は残りどれくらい?」
「あと二十分で定期連絡の時間だ」
「正確な位置は?」
「電話を取ったときにおおよその範囲がわかるくらいだな」
名波他が「勝った」と言わんばかりに顔を引き攣らせたので、戸頭間は武家山の足を避けるように名波他を蹴りつける。
サトルが首根っこを掴んだままのなので、無様に身体をよじらせて悲鳴を漏らし、武家山の足の後ろに隠れようとした。気持ち悪そうにそれを見た武家山は、しかしそこを退かない。
「カケル。上に戻りな」
「絢乃のお願いは随分前に聞いて大人しく部屋に戻ってあげたでしょう?」
「今回も部屋に戻りたいよね?」
「じゃあ代わりに殺してくれるわけ?」
「──鬱陶しい」
低い呟きに戸頭間はハッとして武家山の肩を掴むと、自分の後ろへと隠した。長い脚が素早く伸びてきて名波他の胴体を蹴り倒す。
この足癖の悪さは。
「……丹羽さん? もう少し周りを見てから蹴ろうか」
「すまんね、鬱陶しいもんで。殺すなら殺す、帰すなら帰す、さっさと決めたほうがいいんじゃねえかな」
「!」
明らかに丹羽にビクつく名波他は、バッと腕をクロスして頭を守る。その動作に、戸頭間は奇妙なものを見るように見つめた。
「びっくりするね……自分は殺しておいて、殺されるのは嫌なんだ」
「そういうもんだろうよ」
丹羽の無感情な声に、戸頭間は「ふうん」と返す。
戸頭間の後ろに隠された武家山が再び名波他の前に立つ前に、丹羽はぼそりと呟いた。
「俺がやってもいいが。それで気が済むのか?」
サトルが眉をぴくりと動かし、武家山が足を止める。
この場で人に手を出すのなら、丹羽しかいない。
戸頭間とてそれはわかっていた。
「ふふ。うん、そうだよね。一番無難だよねー」
「時間がないんだろ」
「そうそう。兄さんってば二時間に一回の所在報告が義務なわけ。可哀想でしょ」
「あと十五分だぞ」
「丹羽さんがするならそれでもいいけど……その場合、銃を使うの?」
戸頭間が場違いなほど明るく尋ねる。
丹羽はそこで渋い顔をした。
「……散らかるか」
「そうそう、散らかっちゃうよね。人ってさ、血とか肉とか残っちゃうじゃん」
名波他が「ヒイッ」と声を漏らす。
「僕の城を名波他なんかで汚したくないしなあ」
「車のトランクに詰めて外に出るか」
「時間がねー」
「ああ……時間がな」
「兄さん。これ、置いてもう外に出なよ。途中で女に会いに行って戻ってこないとかなんとか言っておいて」
戸頭間がひらひらと手を降ると、サトルは仕方なさそうに手を離した。
どさっと落ちた名波他が、床を這って逃げようとする。愚かなことに、それは上に向かう階段で、逃げ場はないので放って置く。
「そんな残念そうな顔しないでよ。ちゃんと僕が気が晴れるようにやるからさ」
「そうじゃない。お前を抑えられるのは俺だけだろう。絢乃はなんだかんだでお前に甘い」
「……そんなことありません」
三人が顔を見合わせて昔なじみのような会話をしている中、丹羽だけが這う名波他を目で追っていた。
その目が、徐々に見開かれる。
「……戸頭間くん」
その声に硬質なものを感じ取った戸頭間が見たときには、階段にひらりと赤い裾が見えていた。
ひらり、ひらりと、
まるで新婦が式場に入ってくるように優雅に、その人は降りてきていた。
右手に、アイスピックを握って。




