#19
手を噛まれては大変だ。
痛い上に、処置は大変で、感染症にかかってしまうと死に至る。
逆らわないように躾けなければならないが、本質はそこではない。
手を差し出す覚悟がいるのだ。
#19
名波他が口を汚く歪める。
──お前の犬を呼べ。
戸頭間の目が、ぬらりと光った。
■
「……犬を呼べ?」
丹羽が低く唸る。
戸頭間はくすくすと笑った。フロントガラスの奥には午後の健全な海辺の景色が広がり、開け放った窓からは潮風が入ってくる。BGMのラジオは、レコードのような音で「ミッシング・ジャズ」を流し続けていた。
「そうそう。あの男、僕にそう言ったの」
「……」
「もう死んでるんだから、怒らなくてもいいんだよ」
戸頭間は丹羽の苛立ちを撫でるように言う。
彼は人に犬扱いされるのを嫌う。まあ、普通はそういうものだろう。
戸頭間の周りは犬扱いを喜ぶものばかりなもので、丹羽の反応はいつも新鮮だった。
「本当、一年経っても飽きないよね」
丹羽さんは、という言葉を飲み込むが、きっと彼には正しく伝わっている。そんな確信が持てる。
なぜこんなにも信頼しているのかと聞かれれば「さあね」と答えるだろう。
つまるところ、理由はない。
「で、戸頭間くんが俺を呼びに来た覚えはないんだが?」
「あ、そうそう。僕そこでちょっとキレちゃって」
「……はぁ?」
何言ってんだ、とばかりに丹羽が呆れた声を出す。
自分のことをよく知ってくれているらしい。なぜかくすぐったい思いになった戸頭間は子供のように無邪気に笑った。
「だからね──」
▶
「今なんて言ったの?」
戸頭間が問うと、名波他が一瞬後ろへと身を捩らせた。が、後ろにはサトルが立っており、肩をぶつけて足を止める。
恐ろしいのだろう。後ろを見ることもできない名波他に、戸頭間はにっこりと微笑んだ。
「失礼な男だね、名波他さん。約束という名の協定の意義を自分から壊してまでここに来て、さらに僕と兄さんを侮辱できるなんて……すごいね」
「……と、登録、そう、登録をしていないだろう!」
見苦しい汗をかきながら、名波他が早口に喋る。
こいつは大物ぶっているが小物だ。人の間では「戸頭間家の次男を葬った根性のある若者」と一目置かれ、さらに「戸頭間家の長男を飼いならしている」と敬意と畏怖を手にして、実力に見合わない出世街道を偉ぶって歩いてきたが、中身はただ「戸頭間家」に執着する醜い男だ。
「登録って、なんの?」
戸頭間は首を傾げる。
ようやく。
ようやく、名波他は自分がいかに愚かなことをしているのかわかったらしい。
「侵入者の登録なんて、完全にこっちの善意でしょう。法律で決まってたっけ? 兄さん」
「いいや」
「誰と誰がバディを組んでいるのかは、こっちのために名簿にしているだけであって、それを見せてくださいってお願いしてるのがあなたたちだよね? どうだったっけ、兄さん」
「お前の言うように、すべて我々の善意だ」
サトルの使った「我々」という言葉に、名波他の顔がさっと青ざめる。
そうだよ、と戸頭間は語りかけるように優しく笑んだ。
兄は犬ではないし、公僕になってもずっとこちら側だ。連れて歩けばどこへ行っても安全であるという可愛らしい思い違いをしていたらしいが、傲慢な顔をして前を歩く名波他の首には首輪がついていて、その手綱は常に後ろを歩くサトルが持っていたということに気づいてくれたらしい。なんと間抜けな。
戸頭間の笑みが深くなる。
「ねえ、名波他さん、しっかりしてよ。僕達が誰のために凶暴な侵襲者を狩っているのか忘れてるのぉ?」
ガシッとサトルが肩を掴む。
逃さないというように、追撃を耳元で囁いた。
「我々を犬扱いする前に……愚かでひ弱なお前達人のために、同胞を手にかけてまでこの世界を守ってやっているのが誰なのか、きちんと思い出したほうがいいな」
「か、勝手に、こちらに入ってきたのはお前らだろう!!」
名波他が叫ぶ。ジタバタと暴れる子供のようだ。
「、三十八年前、向こうから、勝手に……!」
「おしい。三十八年と三ヶ月と九日だよー」
戸頭間はにこにこと笑う。
「だから何? ここに来てこの世界を全部もらっても良かったところを、優しい優しい最初の二人が、人の世界も守ってくれたのに。そういう言い草? 失礼しちゃうねー」
「! 出ていけ!! 悪魔!!」
戸頭間が困ったように眉をひそめたと同時に、バーに静かな声が降って響いた。
「──悪魔はお前たちの方だろう」
■
「めちゃくちゃ格好良く丹羽さん登場、っと」
うんうんと頷く戸頭間は、気まずそうに外を見る丹羽に向かって「で?」と促す。
黙り込むかと思ったが、丹羽は口を開いた。
「……鳴さんから聞いたんだよ。戸頭間くんの」
「イツル兄さんの話ね」
そう言って、自分で驚く。
随分久しぶりに口にした次兄の名前は、思いの外懐かしさと優しさで満ちている。眼の前の長閑な風景のせいかもしれないが。
「ふふ。イツル兄さん」
嬉しそうに名前を呼ぶ戸頭間は、丹羽がそれ以降イツルに関することを話さないことに感謝したくなった。
思い出をそっと撫でる時間をくれているのだろう。
▶
上から降りてきた丹羽が、バーに入り、戸頭間の方へ歩いてくる。
着崩した白いワイシャツ。やる気のないサンダル。
姿勢も目つきも悪い男に、兄であるサトルは怪訝な顔をし、名波他はどこか呆けた顔をした。
ああ。
戸頭間は察する。
鳴から聞いたのだ。
「無抵抗の者の頭を轢き潰したお前が悪魔じゃないなら、誰が悪魔になれるのかこっちが聞きたいね」
だから彼は怒っている。
鳴のために。そして、死んだ兄のために。
戸頭間は穏やかな笑みで、そっと丹羽の眼鏡を取り上げた。自分のジャケットの胸ポケットに差し込む。
「だめじゃない、丹羽さん。大人しく待っててくれないと」
「……戸頭間くん、気分が悪い。そいつをとっとと追い出してくれ」
「はいはい、待っててね」
戸頭間がそう答えるのを、名波他が凝視している。
「犬を飼うときはね、自分が飼われる覚悟がないとだめなんだよ、名波他さん」




