#14
忘れたことなどない、とは言わないが、時間は待ってくれないことを知ってしまった。
何を失っても、誰を失っても、明日はくる。
誰かが地平線の隙間から侵入してこようと、朝は光を連れてくる。
ただ、それに慣れていく。
ただ、それをそっと撫でることを覚えていく。
#14
「──終わったよ。全員」
そう言った丹羽が、ライターに火を付けた。
戸頭間はその光をぐっと自分の方に引っ張る。火がぐにゃりと曲がり、不自然に落ち、足元の衣服を包んで燃やし始めた。
それを確認した丹羽がライターの銀の蓋をカチンと閉める。足元でじわじわと水が染みるように燃えていく様子に、彼は口元だけで笑んだ。
凶悪な笑い方をする人だなあ、と戸頭間は思う。
右手に握ったサイレンサー付きのベレッタは戻されないままだ。以前、服を燃やしている最中に偶然うっかり居合わせた侵入者に反応するのが遅れて、戸頭間のスーツが汚されてからは、処理が終わるまではこうして番犬よろしく戦闘態勢のまま「待て」をしてくれるようになった。
従順というか、好戦的というか。
戸頭間は呆れながら丁寧に服を燃やしていく。
趣味の悪い柄シャツ。
何故かあちこち破れているジーンズ。
センスがなさすぎる。かと言って、彼らに選べるスーツも思いもつかないが。
壁にもたれた丹羽をちらりと見る。
黒いハイネックに、戸頭間が選んだ灰色のジャケットとスラックス。長めのロマンスグレーの髪は耳にかけられている。銀のフレームのメガネを掛けているところも相まって、どう見ても紳士というよりは、その筋の人だった。
「それも幹部っぽい感じだよねー」
「……はあ?」
「いえいえ、僕の独り言ですよ」
戸頭間は燃やし終えると、残った靴と電子機器を見下ろした。丹羽が側に置いていアタッシュケースを開ける。中にはすでに二足のスニーカーがごろりと転がっていた。そこに、さらに四足追加だ。
戸頭間が金属バットで携帯を潰すと、それもひょいとつまみ上げてケースの中へ。
「……もう入りそうにないな」
「今日はこれで終わりだね。残念」
そう言うと、しゃがんでいた丹羽は「こいつは」という顔で見上げてくるが、心外だ。彼のほうが狂っているのに。
戸頭間は「ふふ」と笑って指先でアタッシュケースを閉めるように示した。従順な彼は、きちんと理解してケースを持って立ち上がる。歩き始めれば、ついてくる。
平日の昼間の路地裏から出てきた戸頭間と丹羽を気にする人はいない。雑踏の中、サラリーマンや着飾った女性が前を見て風を切る。一瞬、目があった人たちは戸頭間の格好を見て不思議そうにするが、後ろについている丹羽を見てアタッシュケースを見ると、すぐさま目を逸らした。
「どうみても取り立て屋っぽいよね。知ってる? 丹羽さんみたいな人をインテリヤクザって呼ぶんだって」
「何の話かな、戸頭間くん」
「ん? 見た目の話」
「あ、そう」
いつも通り気怠げに返してくる覇気の無さは、さっきまで路地裏で嬉々として銃を使っていたようには見えなかった。
車に乗り込み、エンジンをかけると、彼女は今日もご機嫌だった。初めて丹羽を乗せたときからずっとだ。
「なんから懐かしいなあ」
「……」
勘がいい彼は、戸頭間が話題を出すとそれが「良い話題」か「面倒な話題」かわかるらしい。後者のときには大抵無言で返してくる。
合間を埋めるようにラジオを付けると、明度を抑えた女の声の語りかけるような声が車内に囁きかけてきた。
『──ね、本当。最近は、朝も穏やかになってきましたよね。あれから五年、我々も普通の生活を迎えられるようになって……警備隊がいるおかげで、朝の通勤ができるようになったというこ声も頂いています。わかります。満員電車が懐かしいですよね。スクランブル交差点を平日の昼間に歩いてみたいとか、そういうメールも頂いています』
戸頭間はフロントガラスの向こうを見やる。
人々の警戒心のない顔を。
「それからたった三十四年で日常を取り戻すけどね」
「……」
「ねえ、丹羽さん、このラジオがどうなってるのか聞かないの?」
「……聞かないよ」
「彼女が拾っちゃうんだよ」
「……」
聞いてないが、という顔を返されるので、戸頭間は笑いかけて黙らせる。
「気ままな彼女がね」
指でステアリングを叩くと、ラジオのボリュームが少し上がる。
『──いつか日常が戻ることを祈って……今日も無事に夜を迎えられたことを感謝しましょう。我々の安寧はあと数時間しかありませんが──それでも、誰も侵入してこないことは安らぎに違いありません。さあ、最後の一曲を流しますね。朝が来るまで繰り返しかけます。明日の夜、またあなたが他に会えることを願って──では、どうぞ──ミッシング・ジャズ』
ヴン、と弦を弾く低い音。
アクセルを踏む戸頭間は、ふいにその音に既視感を覚えた。
「あ」
思い出してこぼすと、丹羽が運転席を見る気配がする。
「なに、どうした」
「いや、この曲さあ」
「……ああ、一年前の」
「そうそう! 僕らがバディを組んで一ヶ月になる頃、鳴さんが歌ってくれたよね」
「……散々な一日だった日ね」
「楽しかったよねー」
正反対の意見が同時にぶつかった。
戸頭間は笑い、丹羽は呆れたような息を吐く。
「そういえば、丹羽さんが僕の選んだスーツを着てくれるようになったのって、その後からだよね。心境の変化とかあっちゃった?」
「……」
でた。肯定のだんまり。
「相変わらず照れ屋だねー、丹羽さんは」
「……」
これは面倒くさい、の沈黙だ。
彼は本当にわかりやすい。
戸頭間は人波を抜け、海岸沿いを目指して灰色の道を走らせる。
三十九年前の出来事を忘れた哀れな人の残像が幽霊のようにフロントガラスをすり抜けていった。
「──ねえ、覚えてる?」
◯
ヴン、と弦を弾く低い音。
弦の上をリズミカルに動く指。まるで女性を引き寄せるような艶めかしい仕草は、年季が入っているせいか様になっていた。
戸頭間はバーのステージでひたすらウッドベースを弾く丹羽を呆れたように見る。
未だに用意したスーツは着てくれず、シャツをだらしなく着ているままだ。このバーには不似合いなはずなのに、どうしてかステージの上は湿った華やかさに満ちていた。
カウンターに肘をついて数河にちょいちょいと指先でグラスを示し、そこに注がれた酒をゆっくりと飲む。
バーの中は明るい。
大きい窓の外には何かを祝福するような晴天が広がっている。




