#13
昔を懐かしんだ。
一瞬だけだ。
あのブルースハープが懐かしい。そう思って、彼の伏せたまつげを思い出した。
何故かそれがひどく痛くて、弦を強く弾いた。
彼はどこへ行ったのだろう。
#13
「丹羽さん」
戸頭間が隣りに座る。
武家山と一瞬アイコンタクトをし、彼女は黙って客室へと戻るように階段へ向かった。
数河は戸頭間の前にグラスを置くと、労うように琥珀色の液体を恭しく注ぐ。
その横で、ゆっくりと赤い人魚が立ち上がった。頭や肩がきらきらと光っているのは、割れたグラスの破片らしい。数河がそっと優しく落とす。
「ありがとう」
彼女はそう微笑むと、丹羽をちらりと見た。
「一美さん、こっち側の人だったのね」
「……かずみ、さん?」
反応したのは戸頭間だ。何かを言いたげに下からしげしげと見られるが、丹羽は無視を決め込んで、鳴に向かって頷く。
「まあ、そうなるな」
「ふふ。他にどうなるの? でも──ありがとう、助かったわ」
「鳴さん、怪我は」
「……めい、さん?」
またまた戸頭間が横から「ふうん、へえ?」と丹羽を観察するように視線で責めてくる。鳴は「怪我はないわ」と囁いて、綺麗ににこりと笑った。丹羽も目を伏せて笑う。
そのままグラスを取ろうとしたが、それは隣から伸びてきた手によって取り上げられた。
「……戸頭間くん」
「丹羽さん、僕がいない間にこのホテルのセイレーンを口説いてたわけだ?」
「……」
「僕が兄さんに怒られてる間に」
「あら、お兄様に叱られていたの?」
鳴がくすくすと笑えば、戸頭間は軽く頷いて丹羽のグラスの酒を飲み干した。空のグラスが返される。
「そう。何言ってるのかなあって思いながら聞いてはいたんだけど、解放された後で連絡があってようやくわかったよ。厄介なところに手を出しちゃったって」
「何があったのかは一美さんから聞いたけれど……色々と不運だったみたいね」
「あっちも、こっちも、ね」
そう溜息混じりに言う戸頭間は、数河にちょいちょいと自分のグラスを指さす。戸頭間のグラスだけに、酒がゆっくりと注がれた。
「まさか、狐刀さんが副業で対侵入者用の暗殺を請け負ってるなんて知らなかったしさ──丹羽さんを拾ってなければ危なかったよねー」
どこがだ。
丹羽は空のグラスを揺らしながら心の中で一人笑う。
あの状況でも、戸頭間なら制圧できただろう。それはもう綺麗に畳んで追い返したに違いない。バットを振るわずとも、火を操らなくとも、彼ならばそれが出来る。
そう思って、丹羽はある種の信頼を戸頭間に感じていることに自嘲した。
彼がそれをしなかった理由は、一つだけだ。
「なに笑ってるの、丹羽さん」
「……いや、ご苦労さん」
「なんのこと?」
とぼけてはいるが、きちんと伝わったらしい。
丹羽が何者で、何を扱い、その力は誰の物なのか──それを周りにきちんと知らしめてくれた親切な青年に、丹羽は感謝を口にする。
「どうもありがとう」
「嫌みったらしいねー」
「あ、り、が、と、う」
「ふふ。本当面白いね、丹羽さんは」
舟正を真似る丹羽に、戸頭間は「ふふ」と笑い、丹羽の右手を見た。
「で? せいぜい一つしか出せないはずなのに、どうして三つも出せるわけ? それも──左手にも」
「……」
「すぐ黙るんだから」
「練習すればできるようになるんだよ」
問い詰めてこようとする雰囲気を察して、丹羽は適当に口にした。
戸頭間かは鼻で笑われる。
「ふうん。練習。すごい力だよね?」
「火を扱える君に比べれば、力なんかないに等しいよ」
「そう? 銃器を扱えるのを見たのは初めてだけど」
まだ黙る丹羽を、戸頭間は許すように見る。あまりにも純粋な目だ。
「ま。いいや──追々聞いていくから」
「俺は君の犬なわけね」
「えっ。どこが?」
心外と書いた顔で、大げさに驚く。
何故か鳴はくすくすと楽しそうに見守っているが、丹羽にしてみればさっさとこの場をあとにしたかった。行く場所などないが。
「どちらかというと、僕のほうが犬だったでしょ。ねえ?」
「ええ、そうね」
鳴が同意するので、今度は丹羽が心外と顔に書く。
美しい赤い唇が弧を描いた。
「さっさと片付けろって感じで火を渡すんだもの。あなたのほうが若様を使ってるように見えたわよ」
「そうさせたかったのは戸頭間くんだよ」
「えー、なんのことかな」
わかりやすくとぼけてた戸頭間が、丹羽の前に自分のグラスを置く。ほんの少し残ったその酒が、はちみつのように輝いた。丹羽が預けた眼鏡が、これ見よがしに戸頭間の手のひらの中で転がされる。
「……」
丹羽は黙ってグラスを手にすると、躊躇うことなく煽った。
満足したような戸頭間が眼鏡を返す。
「よろしくね、相棒」
「……どうも」
そう言って眼鏡を受け取った丹羽に、鳴が微笑む。
「バディ結成記念日ね。なにか歌いましょうか?」
「……」
なんとも言えない記念日が作られたことに丹羽が反応する前に、戸頭間が立ち上がった。
「いいね。セッションしようよ」
「あら嬉しい。久しぶりね」
「ほら、丹羽さんも」
数河に脱いだジャケットを渡した戸頭間に腕を引かれる。なすすべもなく、バーの奥にあるステージに連れて行かれ、丹羽はウッドベースの前に立たされた。
戸頭間はドラムスティックを手にして座る。
「……なんで」
「車で、ウッドベースの音に合わせて指が動いてたよ」
お見通しさ、と戸頭間が笑う。
「鳴さん、死神とブルースね」
ピアノで返事をする鳴は「好きなときに混ざって」と言いたげに小さな音で演奏を始めた。
転がるピアノの音色が、まだかまだかと手を引いている。
先に走って飛び込んだのは戸頭間だ。ざらりとスネアドラムを撫で、上品にリズムを刻む。
丹羽は大きなその身体を抱き寄せるように、ウッドベースに手を伸ばす。
瞬間、音が一つの塊になり、弾けた。
◇
「──丹羽さん」
呼ばれ、振り返る。
黒いハイネック、上等な灰色のジャケットに、揃いのスラックス。眼鏡は真新しいもので、長めの白髪は耳にかけられ──右手には、サイレンサーのついたベレッタが握られていた。
路地裏には、戸頭間と丹羽の二人のみ。
足元には数名分の衣服が落ち、空には青く霧散した者たちの残骸が漂う。
戸頭間は金属バットで手を叩きながら「終わった?」と聞いてきた。
「終わったよ。全員」
丹羽が、ライターに火を付ける。
──死神とブルース.──




