#12
一瞬だった。
一瞬、戸頭間と目があって、彼は天使のように笑んだのだ。
その笑みは、誰かを思い出させた。
自分が失ったもの。
もしかして、得ていなかったのかもしれない、なにか。
捨てられた記憶を、炎が焦がしていった。
#12
丹羽がライターの火を灯した瞬間、火はぐっと横に倒れて目の前を走っていった。
──既視感がある。
丹羽はぼんやりとした目で、龍のように細く長く伸びていく火を追いかける。
ああ、そうだ。
花火だ。海の上で、滝のように火花を散らす花火によく似ていた。最後に海の上を彩る、どこか電球の明滅にも似ている大掛かりな花火。激しく火花を散らしながら海へ落ちていく、刹那の黄金。
随分昔に見た夢のような景色だ。
戸頭間が操る火は見たものの心を連れて行くような華やかさで、舟正と狐刀の周囲に巻き付いた。
舟正の顔が下から照らされる。
「坊っちゃん、怒らんといて」
「え? 聞こえないなあ」
戸頭間はわざとらしく耳に手をやると、火を伸ばしてさらに一周巻き付かせる。熱さに身を捩った舟正がやや顔を青くした。もう一周、巻き付く。舟正と狐刀が身を寄せるように動くと、戸頭間は「情けないなあ」と言わんばかりににこにこと笑った。
舟正はちらりと狐刀を見るが、彼は首を横に振る。刀は武家山が踏みつけたままだ。
丹羽の視線に気づいた武家山は、どこか呆れたようにぼそりとこぼす。
「……酷いことをなさいますね」
「本当にねえ」
「丹羽様のことですが」
「……」
丹羽は黙って左手でグラスを持つ。武家山の腕はもとに戻っていた。もう危険はないということだろう。
しかし、刀は踏みつけたままだった。ぐっと踏まれるそれに、彼女の意思を感じる気がするのは気のせいかもしれない。
酒を一口飲み、丹羽は戸頭間を横目で見る。そろそろライターを握り続けるのも疲れてきた。
「ふふ。丹羽さんに早く終わらせろって睨まれちゃった」
戸頭間が肩をすくめて、舟正に親しげに話しかける。
「……坊っちゃん」
「おかしいなあ、やっぱり聞こえないや」
「──無礼を働いたこと、お詫び申し上げます」
「あ、やっと聞こえた。でもねえ、もっとシンプルでいいんだよ。言ってごらん、ごめんなさい、って」
優しげな声が、子供を諭すように言う。
すごいな、と丹羽は思わず感心した。
人の神経をこれほどまでに逆撫でするのも難しかろう。
数河が思わずといったように口を歪め、武家山も鼻で笑う。丹羽自身も、気づかぬうちに口の端が上がっていた。
舟正は目を見開いたまま、にいっと歯を見せる。
「ご、め、ん、な、さ、い」
戸頭間はパッと表情を明るくして、ぱちぱちと手を叩いて舟正を褒めた。
「やればできるじゃない。お兄さん、賢いねー」
「……本当、すみませんでした。手ぶらで帰られへんので、つい」
その声はどう聞いても謝罪には程遠い。殺気よりもずっと重く、怒りよりももっと激しい感情が溢れているが、彼の表情は代わってはいなかった。少し微笑み、しかしこめかみには筋が浮く。彼の理性が強くて助かったな、と丹羽はしみじみと思う。事実、戸頭間は不利だ。舟正が人である限り。
それをよく知っている舟正が大人しく戸頭間の望む謝罪を口にしたのは、彼の賢さに他ならない。もしくは本能だろう。わかるのだ。戸頭間に逆らってはいけないことが。
「そっか。手ぶらで帰ったら、お兄さんが怒られちゃうね?」
「……ええ、まあ」
「うーん、それは困った」
「心配してくれはるの? お優しいなあ」
「お兄さんのこと、気に入ったからね。じゃあ、こうしよう。手ぶらじゃなければいいってことで──」
戸頭間がぐっと火を引っ張る気配がしたかと思うと、バーの中に一瞬奇妙な声が響いた。
丹羽が見ると、狐刀の右腕に火が巻き付いていた。苦悶の表情の狐刀は、咄嗟に武家山が踏んでいる刀を見る。が、戸頭間がそれを許さない。狐刀に優しく微笑みかけた。
「手ぶらじゃなければお兄さんは無事らしいから、少し我慢してね?」
「……!」
「──戸頭間くん」
「なあに、丹羽さん」
丹羽はグラスを置き、ライターから手を離した。走っていた火は消えるが、狐刀に燃え移った火は消えそうにない。仕方なくイスから立つと、丹羽は右手からショットガンを出した。構えると左手でフォアエンドを手早く引く。
「!」
狐刀が驚愕するように目を見開いた。
ボックス席の夜津兄弟は新聞を落とし、残ったグラスを磨いていた数河の手も止まり、武家山は「……マジ?」と呟く。
「誰も動くなよ」
丹羽の言葉に、戸頭間が乾いた笑みをこぼす。その横を、爆発音がドンッと駆け抜けた。
次の瞬間、狐刀の右肩に丸く穴が空き、ドシャッと腕が落ちる。すぐに青いゲル状になり、水になったと同時に火が消え、霧散し──武家山の足の下の刀も、じゅっと煙となって消えた。
奇妙な沈黙が包む中、丹羽はショットガンを戻しながら狐刀を褒める。
「へえ……うまいね」
彼は青い顔で腕の傷を塞ぎながら丹羽を見た。
「……どうも」
「おもちゃにしては役に立つだろう?」
狐刀は笑みを作ろうとしたが、残念ながらうまくいってはいない。
丹羽は、呆然とこちらをみている舟正に何も出していない右の手のひらを見せた。
「あんたに言っとくが、俺は協定とやらとは無関係だからな」
「……は」
笑ったのか、それとも疑問を口にしたのかはわからないが、舟正は信じられないという顔で、なぜか戸頭間を見た。
戸頭間は無邪気に答える。
「野良なの。丹羽さん。だから、ここで一番危ないのはあの人だよ」
「……あれ、坊っちゃんのなん?」
「うん、そう」
「どこで拾ってきはったん」
「ちょっとそのへんで」
舟正は「ふ」と壊れたように笑いを漏らした。
「ふ、ふは、嘘やろ。ただでさえ戸頭間の名前を持った凶悪な三男が、協定を結んでいない侵入者を飼ってるとは。聞いてないわあ、そんなの」
「じゃあお知らせしておいてくれるかな。狐刀さんの右腕見せながら──このホテルにも、僕らにも、近寄るなって」
肩を丸めてくつくつと笑う舟正は、「相わかりました」と仰々しく頭を下げた。
「……ああ、ふふ。これで親父に殺されずにすみますわ。ありがとうね、坊っちゃん」
「貸し一つだよ」
「恐ろしいところに借り作ってしもうたわ」
「無知って怖いよね」
じゃあね、と手を降る戸頭間の「帰れ」は今度は正しく伝わったようで、舟正と狐刀は「やれやれ」というようにバーを出て行った。
気安い友との別れのように。
またね、と言うように。