赤の狐を見送る
ムカデの巨大な体躯が横倒しになって、頭部は爆ぜて炎に包まれている様子を、ぼんやりと見やる。
その間も、数えきれない本数の足が不気味にうごめき続けるものだから、やはりこの虫は好きになれそうにない。
「ごめんなさい、ごべんなざいりょうだろぉおーん!」
仰向けに倒れた良太郎のかたわらにしゃがみ込んで、宗谷がおいおい泣き出してから、いったいどれくらい経っただろうか。
――きっと一時間目の授業は終わったな。
実のところ、大百足を倒したのは良太郎ではなく、目の前の宗谷だった。たった一撃の炎で、妖はあっという間に沈黙した。
「わっ、わ、わだじのごど、嫌いにならないでぇえー!」
「……宗谷、俺、状況が飲み込めないんだけど」
「あのっ、あのね、りょっ、りょうだろうが、ほんどうに正じく力を使えるひとかどうがを、たじかめでからじゃないど、お礼しちゃいげないって、那智がぁー」
事の顛末を説明しながら、子どものようにわんわん泣く宗谷がやっぱり可愛く思えて、彼女に対する不信感は気づけばどこかにいっていた。
それにしても、どうやらあの時の宗谷の不自然な態度には、仕掛けがあったということになる。
「那智って、稲荷神社で会った、赤い髪の、あいつか……」
カンジの悪い狐霊の姿が脳裏に浮かんだ。
「もしかして、それで俺に『金がほしいか』とか、『権力がほしいか』とか聞いてきたのか?」
「うん……人間の中にも悪い者もいるっで……」
「そりゃ、いるだろうけど」
良太郎の眉根が寄った。
一般的な高校生を悪党と疑うのはどうかと思う。
「『ニンゲンは自分勝手で欲が強くで、下等な生き物だがら……危険が迫っだら、りょうだろうも、きっど自分の命を優先ずるだろう』っで、那智がぁー」
突っ伏した宗谷の背中を、良太郎はそっとなでた。
この少女を恨む気にはなれなかったけれど、あの赤毛の男――那智とやらには一発お見舞いしてやらなければ、気が済まない。
「てことは、俺がどんな人間か試してたのかよ」
「ごっ、ごべんなざいぃーいっばいひどいごどいっで、ごべんなざいー」
「じゃあ、あの黒い妖や大百足を仕向けたのも、その那智か?」
宗谷が首を横に振る。
鼻をスンスンすする仕草が、いちいち愛らしい。
「あれは、りょうだろうの強い霊気に寄せられで、入り込んだのだど、おぼう……」
「え――俺の、霊気で?」
「でぼ、わだしが異層を通ってぎだのが原因だどおぼうけど……」
ぼう然と宗谷を見つめるその背後で、すでに意気消沈したと思われたムカデの身体が、突如ぐにゃりとよじれた。
頭部を失った妖が、ふたたび鎌首を持ち上げたのだ。
振り返った良太郎と宗谷をめがけて、巨躯がゆらりと傾く。
満身創痍の良太郎と、目を腫らしてしゃがみ込む宗谷に、避ける時間は、ない。
「ウソだろ――」
宗谷が小さく悲鳴をあげた。
良太郎の心臓は今までにないほど、強く、早く鼓動を打つ。
小柄な彼女の肩をぎゅっと抱いて、その身を、盾にした。
直後、花火の炸裂音に似た爆発と閃光が、良太郎の五感をほんのひととき奪っていった。
強烈な振動が体中を駆けめぐる。
ゆっくり目を見開けば、数えきれない火の玉が、空からバチバチ音をたてて降っている。それは、細かく散った肉片の燃える、おぞましくも神秘的な光景だった。
「宗谷、無事か……?」
「だいじょうぶ、大百足は……?」
無傷の宗谷に安心したのだろうか、疲れが高波のようにどっと押し寄せた。
「わかんねぇ……どう、なってんだ……?」
「お怪我はありませんか、当主」
冷静沈着という言葉がぴったりの声に、良太郎の肩がびくっと跳ねる。
ふたりの背後から、黒髪の少年――狐霊が音もなく、歩み寄った。
黒髪に黒装束、腰に差した日本刀、当然、赤毛の尻尾がついてる。その射るような赤い――火色の視線を、良太郎は覚えていた。
それは青陵高校の裏手にある、旭日展望台へ続く山道。
「お前、あのときの――裏山に……」
彼は赤い目をさっと良太郎に向けて、不快なものを見てしまったと言わんばかりに、チッと舌を打った。
「あっ、サキ! りょうだろうに失礼なごとをしてはだめっ!」
「……申し訳ございません、当主。つい」
「あんたが、大百足を仕留めたのか」
舌打ちに対する腹立たしさを懸命に抑えて、良太郎は黒髪の狐霊に問いかけた。もちろん、答えを聞くまでもなかったけれど、あれほどの妖を一撃で仕留めたのだから、聞かずにいられなかったのだ。
「りょうだろう、こちらは九稲黒佐紀というの」
「クスイコク……佐紀?」
「佐紀は、稲荷守……つまりわたしの護衛をしている那智のご子息、次期稲荷守なのよ!」
ほんわか笑う宗谷と、冷ややかに良太郎を見据える黒髪の狐霊――佐紀。
「護衛……じゃあつまり、さいしょから宗谷のそばにいたってことかよ」
良太郎の質問には、あくまでも無視を貫く構えらしい。
「もう、じゅうぶん彼が人間の中ではマシだということがわかったでしょう。なので、今日のところはお戻りになってください、当主」
「ええーっ、わたし、もっとりょうたろうといっしょにいたいのだけれど」
「人間とかかわることは、宇迦之御魂神様から禁じられているでしょう」
「いいでしょう? それに、那智だって年に一度、奥方様に会いに来ているもの」
ふくれっ面の宗谷をなだめるその表情は、良太郎に向けるそれよりも、ずいぶんおだやかに見える。
「……わかりました。狩野良太郎への礼は、またの機会にできるよう、父上に頼んでみます」
「ほんとう? ありがとう、佐紀!」
良太郎はあたりに散った火の粉を瞳に映して、ぽつりとつぶやく。
「なあ、どうして俺の苗字まで、あんたが知ってるんだ」
彼はぴくりとも動かずに、火色の目だけを良太郎へ向けた。
「どうしてあんただけ、宗谷とちがって……実体があるんだ」
「それは、佐紀は狐霊とヒトとの混血だから、ふつうの人間にも見えてしまうの。いつもはこちら側で人間として――」
「宗谷様!」
語気を強めて、九稲黒佐紀がさえぎった。
「そろそろ参りましょう」
ピリピリとした空気をまとって、黒髪をさっとひるがえす。宗谷は慌ててそれにつづいた。
そう。
彼は、ふつうの人間には見えないはずの宗谷と違って、良太郎はもちろん、だれの目にもその姿が見える――つまるところ、実体が存在している。
――人間の気配と、狐霊の気配……。
梅ノ木稲荷神社の石柱まで進んだとき、振り返った宗谷がぱっと頭を下げた。もっとも深い謝罪の角度だった。
「りょうたろう、今日はごめんなさい」
「べつに、いいよ」
そろりと顔を上げる宗谷の上目づかいに、遠目からでも胸が高鳴る。
「つぎはちゃんと、お礼をするから……だから、また来てもよい?」
男心をくすぐる顔でお願いをされれば、むろんダメとは言えない。
そんな自分にあきれつつ、良太郎はお返しに手を振った。
「いつでも来いよ」
「ありがとう!」
キャッキャッと飛び跳ねる様子を見ていると、つい先ほどまで大泣きしていたことがうそのよう。そんな彼女に、九稲黒佐紀は世話の焼ける妹だと言わんばかりの苦笑を浮かべた。
「りょうたろう、またこんどね!」
やっとあちら側へ向かいだした背中を、良太郎は決然とした表情で見つめる。
そして、確信をもって息を吸う。
「――稲瀬」
その呼びかけに、黒髪の狐霊は一瞬足が止まった。
「また、あとで、教室でな」
だが、彼は少しも振り返ることなく、良太郎がまばたきをする刹那に、宗谷もろとも姿を消した。
それは、幻のごとく。
直後、膝の力が一気に抜けて、頭の中の色々なものがふっと遠くなっていった。
人事不省という四文字熟語が、脳裏をかすめる――。
良太郎がぼんやりまぶたをもちあげたとき、すでにあたりは夕陽に染まりはじめていた。草むらから勢いよく上体を起こす。
「うっそ、俺マジで気絶?」
きょろきょろ視線をさまよわせてみたけれど下校中の生徒の姿すら見あたらない。
腕時計を確認すれば、針は午後五時を示していた。
「マジかぁ……サボったことになんじゃん……あーあ、迷子を助けたお返しが、無断欠席と全身打撲かよ」
しかも、先週に引き続きの打撲である。
「いてて……どっか骨折れてたらどうしよ……」
それにしては腕も足も動くし、どこか腫れたりもしていない。これは、本当に母に感謝をするべきだろう。
そんなことを考えているうちに、空はすっかり茜色に姿を変えていた。どこまでも広がる赤を眺めていると、同じ色の尻尾を持つ、彼らの姿が目に浮かんだ。
それにしても、とため息がこぼれた。
「……ったく、どうなってんだよ」
どうやら、大百足が神社の境内に入り込んだとき、偶然現れたかと思われたクラスメイトは、そうではなかったということになる。
「俺を試すために、わざと通りかかったのか」
宗谷はそのクラスメイトの正体を知っていたことになる。知っていて、あえて「ニンゲン」と呼んだ。
そして、良太郎を試したのだ。
「あーくそー! 妙なのとかかわるなって、じいちゃんとの約束破るんじゃなかった!」
だが、言葉とは裏腹に、「まあ悪くないか」と思う自分がいる。
宗谷の笑顔が心に焼きついたままだった。
それに、また会えることにもわずかながら、心が踊る。
そしてなにより、一人のクラスメイトに興味がわいた。
「明日、ちょっとだけ稲瀬佐紀に話しかけてみっかな」
口元をふっとゆるめて、良太郎は火色に燃える夕日を、眺めた――。