言ってないよね?
自宅に帰り着いた頃には佐也香の体調も回復していたが、大事を取って休ませる事にした。
倒れるなんて初めての経験だから本人も不安だろう。
佐也香をベッドに寝かせて、俺と佐奈は彼女の部屋を出た。
「……それでどうするの。天毒血でも飲ませておく?」
「その名を口にするな」
ちなみに、天毒血は栄養剤である。貧血に効果抜群な医薬部外品として売れている。
その酷いネーミングの割に効果が高いことからネット上で話題を呼び、急速に広まった俺の発明品だ。
「とりあえずアレを使うには及ばない。ちゃんと食事を採ればそれでいい」
「別にアレなんて言わなくても良いでしょ。天毒血はエンジェーー」
「やぁめぇぇろぉぉぉ!」
俺の悲痛な声を楽しむように佐奈はニヤニヤと笑っていた。
くそっ。楽しんでやがる。
佐也香の部屋の前で騒いでいては邪魔になるので、佐奈にいじられながらも一階に降りてリビングに入った。
ソファーに座る佐奈にお茶を出し、幼なじみ故の気安さで隣に座る。
お茶を一口飲んで俺は口を開いた。
「実際、佐也香が人に囲まれないように配慮する必要はあるな」
佐奈が無言で頷きを返した。
彼女は両手で持った湯呑みを無意味に回している。
「ファンクラブのこと聞いた?」
「あぁ。意外と早く馴染めそうだと期待したんだが、落とし穴があったな」
向こうにも悪気はないだろうし、ファンクラブの会長にでも渡りをつけて活動を控えてもらうか。
佐也香が倒れたことが広まれば活動を自粛してくれる気もするが、腫れ物に障るような扱いになっても困る。佐也香は人混みに慣れていないだけで病弱ではないのだから。
「佐奈はファンクラブの会長が誰かわかるか?」
佐也香を囲んだ連中に混ざっている可能性が高いと思い、水を向けると佐奈は渋い顔をして首を横に振った。
明後日の登校日に探し出すしかないようだ。
「宗也こそ、ファンクラブに囲まれなかったの?」
佐奈が何故か睨みながら聞いてくる。
俺は校長と一緒に仲良く正座して説教を食らっていた事を伝える。
「……初日から楽しそうでよかったね」
楽しいものか。夜叉か般若か分からない婆さんが顔だけ笑って延々と説教してくるのだ。今夜の夢に見そうで恐ろしい。
「『逝くが良い混濁する世界の果てへ』でも使いなさいよ」
だから止めろってんだ。
名前どころか文になっているのは安眠枕の商品名である。既にタンスの中に封印済みだ。解き放つつもりはない。
いや、佐也香に渡しておくのは良いかもしれない。不安な時は嫌な夢を見るものだ。
立ち上がった俺に佐奈がクスクスと笑う。
「本当に過保護ね。佐也香が生まれる前の宗也からは想像もつかない」
「何を言う。俺は昔から優しい天才発明家だ」
「はいはい。私は佐也香の寝顔でも見て帰るよ」
より一層笑いを深めながら佐奈は佐也香の部屋に入っていった。
俺は自室の扉を開けてタンスを漁る。
隣接する佐也香の部屋から話し声が聞こえてきた。あの二人は仲が良いようだが、どんな話をしているのだろうか。
タンスの奥に封じられていた枕を取り出す。
相変わらず癖になる感触だ。青地に頭だけの黒ウサギが乱舞している柄なのが残念な気持ちを誘う。佐奈の趣味はよくわからん。黒ウサギの頭だけって、これじゃあ死んでるだろ。
うん? 枕だから良いのか?
……とりあえず佐也香の好みに任せよう。嫌がったら枕カバーだけ変えればいい。
この柔らかく適度な温度を維持し、鎮静作用を有する香りを発する枕の誘惑に勝てるはずはない。頭を乗せた瞬間に夢の世界に住民票を移す事になるだろうさ。
「くっくっくっ。逝くが良い混濁する世界の果てへ」
いかん。こっちの封印も解かれた。静まれ俺。
大きく深呼吸し、再封印を施した俺は件の枕を持って佐也香の部屋に向かい、ドアを開ける。
「佐也香。枕、持ってきーー」
最後まで言い切る事が出来なかったのは俺の顔に佐也香が使っている低反発枕が飛んできたからだ。
当たった俺が思わず仰け反るほどの速度と威力だった。
運動エネルギーを失った枕は床に落下を開始する直前、何者かの蹴りによって再びエネルギーを与えられ、俺ごと廊下に弾き出された。
「着替え中よ、外に出てなさい!」
壁にもたれて座り込む俺に佐奈の声が降ってきたかと思うとドアが乱暴に閉められる。
そういえば、佐也香は制服のままだった。パジャマにでも着替えているのだろう。
ちっ、見逃した。
着替えイベント、お約束のはずだろう。何で見えなかったんだ。本気で悔しい。このままでは殴られ損ではないか!
そうだ。ドア一枚向こうで女の子が着替えている。例え顔が俺に似ていようが関係ない。これは男の問題なのだ。
「……立ち上がれ、俺」
体を壁から離しゆらりと四肢に力を入れる。
この天才の頭脳を持ってすれば女の着替え姿の一つや二つ、簡単に拝めるのだよ。
くっくっくっ。佐奈よ。貴様は大変な物を盗んでいった。それは俺のプライドだ。取り戻さねばならん。
完全に立ち上がった俺は力強い一歩を踏みしめる。そして夢の世界を隔てるドアノブを掴むために手を伸ばした。
しかし、夢溢るるそのノブは何者の策略によるものか、部屋の中へと引き込まれていく。
つまり、扉が開いたのだ。それは着替えが終わった事を示しているわけでーー
「ーー宗也、入っても良いよ」
「何故だ!?」
夢敗れて叫んだ俺に佐奈が困惑する。
「何故って言われても……。」
「佐奈はいつもそうだ! 期待も希望もあっさりと踏みにじる。振り絞った勇気も覚悟もにこやかに叩き潰す。同じ人間のする事かよ……。お前の遺伝子は何対だ!?」
佐奈が俺を廊下に蹴り出さなければ、こんな事にはならなかった。俺がプライドを失う事もなく、お約束という大義名分の下に制裁を受けて八方丸く収まったというのにーー
「佐奈、お前はなんて事を……。」
涙声を残し床に膝を突く俺に佐奈は混乱している。
何が起きたのか全く理解できていないのだろう。ある意味仕方が無い。
そんな佐奈の背中ごしに佐也香が顔を覗かせた。
「お二人とも、何を?」
「……。何かノリで馬鹿げたことをしていた気がする。それはそうと佐也香に俺の発明品たるこの枕をやろう。安眠熟睡を約束する」
何事もなかったかのように立ち上がり黒ウサギの頭が乱舞する柄の枕を佐也香に手渡す。
彼女は首を傾げつつ、枕の感触が気に入ったのか両手でムニムニと揉んでいる。
いつも無表情な彼女の口元が少しばかり柔らかくなっていた。
「喜んでくれたようで良かった。何か問題があれば改良するから何時でも言えよ」
「はい。ところで佐奈さんがお怒りのようです」
「柄が気持ち悪いなら枕カバーだけ変えても良い」
「はい。それより佐奈さんがお怒りのようですが?」
「そのパジャマも可愛いな。猫を模してるのか」
「はい。ときに佐奈さんが大変お怒りのようです」
三回も言われた。しかも、最後だけ『大変』なんて言葉が付いてる。
怖くて横を見れない。
「私は帰るけど、宗也、見送ってくれるよね? 佐也香の部屋を汚したくないのよ」
……何で外を汚す気だ?
俺は肩に食い込んだ佐奈の右手に逃げることも叶わず、外へと引きずられる。
佐也香が「野辺送り?」と呟いた。俺は「お見送り」に逝くだけだ。我が人生の。
「佐也香は寝てなさい」
佐奈が振り返って佐也香を指差し、念を押すように言った。見送りに出る気だったらしい佐也香が悩む素振りを見せるので俺からも大人しく寝ているように言っておく。
「分かりました」
表情を変えずに頭を下げて佐也香は部屋に引っ込んだ。
無言で廊下を進む佐奈に連れられて玄関を出る。
彼女は外から佐也香の部屋の窓を見て何かを確認すると俺に向き直った。
「宗也にちょっと話があるのよ」
「そんな事だろうと思った」
本気で俺を血祭りに挙げるなら場所を選ばずやる女だ、こいつは。
わざわざ俺を外に引っ張ってきたのは佐也香に聞かれたくない話をするからだろう。そう思って先程も話を合わせた。
「それで、何の話だ?」
聞く姿勢を作ると佐奈は珍しく考えながら話し始めた。
「まさかと思うけど、佐也香に不良品とか失敗作とか言ってないよね?」
なんだそれ。
「俺がそんな事言うわけないだろ」
つい、不機嫌な声が出てしまい、片手を突きだして待ったを掛ける。
「……悪い。とにかく、言ってない。何でそんなことを聞くんだ?」
「今日、佐也香が倒れたでしょ。それで迷惑かけたってあの子が気にしてるのよ」
「そんなこと気にしてるのか」
律儀というか何というか。
そもそも何故、佐奈に相談するんだ。直接言えばいいだろう。
「そうか、教えてくれてありがとな。明日は休みだし、あいつに何か手伝わせて自信をつけさせるとしよう」
「そうしてあげて。私じゃ相談に乗るしかできないから」
そう言って、佐奈は帰っていった。「頑張れ、お兄ちゃん」とからかい半分の励ましを残して。