第九十二話:深き森の監視者、見えざる境界線
ランドールを出発した俺たちの旅は、前回とは違う、張り詰めた空気に包まれていた。
隣を駆けるギデオンは、いつもの鉄仮面をさらに硬くし、周囲への警戒を怠らない。俺の懐にいるフェンも、故郷に近づくにつれて落ち着きをなくし、時折、喉の奥で低く唸るようになっていた。
(……ただ事じゃないな)
フェンは、伝説の魔獣ブラックフェンリルの幼体だ。その鋭敏な感覚は、人間には感じ取れない微細な魔力の乱れや、悪意の気配を敏感に察知する [cite: 238]。彼がこれほど警戒するということは、森で起きている異変が、単なる獣の縄張り争いなどではない証拠だった。
俺は、懐のポケットの上から、あの『古代の遺物』の感触を確かめた。
冷たい金属片。だが、リーフ村の方角へ進むたびに、それが微かに熱を帯びていくような、奇妙な感覚があった。まるで、何かに呼びかけられているかのように。
◇
二日後。俺たちはリーフ村に到着した。
村の様子は、表面的には以前と変わらなかった。井戸からは水が汲み上げられ、『陽だまりの家』では夏野菜の準備が進められている。
だが、村全体を覆う空気は、明らかに重苦しかった。村人たちの笑顔はどこか引きつり、森の方角を見る目は怯えに満ちていた。
「……よく戻ってきてくれた、ルークス」
出迎えてくれた父アルフレッドの顔には、深い疲労の色が滲んでいた。
村長の家で開かれた緊急の話し合いには、村の熟練の狩人たちも顔を揃えていたが、皆一様に青ざめた顔で押し黙っている。
「……それで、森の様子は?」
俺が切り出すと、狩人の頭領である古老が、重い口を開いた。
「……今まで、あんな森は見たことがねえ。鳥の声一つしねえんだ。風もねえのに、枝葉がざわざわと揺れる。そして、何より……」
彼は、声を震わせた。
「『視線』だ。森に入った瞬間から、何百もの目で見られているような気がする。獲物を探すどころじゃねえ。俺たちが、いつ『獲物』になるか分からねえような、そんな殺気だ」
歴戦の狩人が震えるほどの気配。
俺は、ギデオンと視線を交わした。彼の目も、ある種の確信を告げていた。
「……高度な隠密技術、あるいは魔法による結界か。いずれにせよ、普通の相手ではない」
「……俺が、行って確かめてきます」
俺が立ち上がると、父さんも同時に立ち上がった。
「俺も行く。お前一人を行かせられん」
「ダメだよ、父さん。相手が何者であれ、人数が多いと刺激してしまうかもしれない。俺と、ギデオンさん、それにフェンだけで行く」
父さんは渋ったが、最終的には俺の目を見て、折れてくれた。
「……分かった。だが、無理はするな。危ないと思ったら、すぐに引き返すんだぞ」
◇
翌朝。俺たちは、張り詰めた空気の中、森へと足を踏み入れた。
村から少し離れただけで、周囲の空気は一変した。
いつもなら聞こえるはずの鳥のさえずりも、虫の音も、全く聞こえない。完全な静寂。ただ、俺たちの足が落ち葉を踏む乾いた音だけが、不気味に響き渡る。
森全体が、息を潜めて俺たちを監視しているような、そんな錯覚に陥る。
「……来るぞ」
ギデオンが、剣の柄に手をかけた。
フェンが、全身の毛を逆立て、前方の茂みに向かって鋭く吠えた。
「ワオンッ!!」
その瞬間。
ヒュッ、という鋭い風切り音と共に、俺の足元の地面に、一本の矢が突き立った。
それは、見たこともないほど美しい、緑色の羽根飾りがついた矢だった。
『――立ち去れ、人の子よ』
頭の中に直接響いてくるような、透き通った、しかし氷のように冷たい声。あたりを見回しても、声の主の姿はどこにもない。ただ、木々のざわめきが、その声を運んでくるようだった。
「……姿が見えない!? どこだ!」
ギデオンが周囲を警戒するが、敵の姿は影すら掴めない。
俺の懐で、あの『古代の金属片』が、カッと熱くなった。まるで、この見えざる監視者の放つ魔力に反応したかのように。
『警告は一度だけだ。この森は、今より我らが管理する。……その懐にある“穢れた遺物”と共に、早々に立ち去るがいい』
(……遺物のことを、知っているのか!?)
姿も見せず、俺の懐の中身まで見透かす相手。これが、伝説の種族エルフの力なのか。
圧倒的な実力差。交渉の余地など、最初からなかったのだ。
「……退きましょう、ルークス」
ギデオンが、悔しげに、しかし冷静に判断を下した。
「姿も見せずにこれだけの芸当ができる相手だ。今の我々では、手も足も出ん」
俺は、ギリリと奥歯を噛みしめた。
故郷の森が、理不尽に奪われようとしている。だが、ここで強行突破しようとすれば、確実に命を落とす。
「……分かりました」
俺は、見えない相手に向かって、深々と一礼した。
「……忠告、感謝します。今は、退きます」
俺たちは、逃げるように森を後にした。
背中に、冷たい視線が突き刺さるのを感じながら。
村に戻った俺は、父さんたちにありのままを伝えた。
当面の間、森へ入ることはできない。狩りも、薪拾いも、制限されることになるだろう。
村人たちの顔に、不安の色が広がる。
「……大丈夫です」
俺は、努めて明るく言った。
「森がダメなら、畑があります。『陽だまりの家』の野菜も順調だし、俺が新しい作物の育て方も教えます。森に頼らなくても、村のみんなが食べていけるように、俺が全力を尽くします!」
俺の言葉に、父さんが力強く頷いた。
「ああ。息子の言う通りだ。俺たちは農民だ。土さえあれば、生きていける!」
村人たちの目に、再び力が戻る。
森の異変は解決していない。だが、俺たちは、新たな覚悟と共に、前を向くことを選んだ。
俺は、ランドールの方角を見つめた。
この謎を解く鍵は、きっと、あの『古代の遺物』にある。
そして、それを知るためには、もっと力が必要だ。
(……帰ろう。俺たちの戦場へ)
俺は、新たな決意を胸に、再びランドールへの帰路についた。
まだ見ぬ世界の深淵が、少しだけ、その口を開いた気がした。
【読者へのメッセージ】
第九十二話、お読みいただきありがとうございました!
姿なき監視者からの警告、そして古代遺物との関連。謎が深まる展開となりましたが、いかがでしたでしょうか。
設定資料集に基づき、エルフの本格登場は温存しつつ、その強大な力の片鱗を描写しました。
「姿が見えない方が怖い!」「遺物、やっぱりヤバいものなのか…」「村のみんな、逞しくなった!」など、皆さんの感想や応援が、ルークスの次なる成長の糧になります。下の評価(☆)やブックマークも、ぜひよろしくお願いいたします!
故郷の危機を(一応の)回避し、再びランドールへ。次はいよいよ、あの『ひまわり油』が新たな展開を見せます!どうぞお見逃しなく!




