第二百三十六話:帰郷、そして新たなる開拓地『海』へ
王都がまだ深い朝霧と静寂に包まれている、早朝四時。
『リーフ横丁』の赤提灯が消え、昨夜の狂乱が嘘のように静まり返っている刻限。
石畳の路地には、夜露に濡れた冷たい空気が漂い、遠くで早起きのパン屋が釜に火を入れる微かな香りが混じっている。
俺、ルークス・グルトは、誰にも見送られることなく(特にあの暑苦しい公爵に見つかると、また涙ながらに引き止められるため)、荷馬車の手綱を握り、愛馬に無言の合図を送っていた。
荷台には、王都での売上の一部と、これから始まるスローライフのための土産物が積まれている。
「……ふぅ。よし、誰もいないな。今のうちに脱出だ」
俺が安堵の息を漏らし、馬車を動かそうとした、まさにその時だった。
「……ルークス殿。まさか、挨拶もなく発たれるおつもりか?」
背後から、地の底から響くような声がした。
ギクリとして振り返ると、そこには寝間着の上に分厚い毛皮のコートを羽織り、目の下にクマを作ったガルド・フォン・エピキュリア公爵が、亡霊のように立ちはだかっていた。その目は、完全に「飼い主に行かないでくれと縋る、捨てられた大型犬」のそれだ。
「……公爵。あんた、寝てなかったんですか? 昨夜あんなに飲んでたのに」
「眠れるわけがないだろう! 貴殿がいなくなったら、醤油の供給はどうなる? 新メニューの開発は? クレーマー貴族の対応は? 私は……私は不安で、枕を濡らしていたのだぞ!」
公爵が馬車の車輪にしがみつかんばかりの勢いで迫ってくる。
俺は苦笑しながら、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
「安心してください、公爵。ここに追加の『季節限定メニュー案』と『クレーマー対応マニュアル(改訂版)』を書いておきました。料理人たちも『カツ丼千本ノック』で死ぬ気で鍛え上げましたから、味の再現度は完璧です。あとはあんたがオーナーとして、彼らを信じてやるだけですよ」
「こ、これは……! 『冷やし中華はじめました』……? なんだこの魅力的な呪文は……!」
公爵が羊皮紙を食い入るように見つめる隙に、俺は手綱を引いた。
「それじゃ、頼みましたよ。……もし何かあったら、伝書鳩でも飛ばしてください。ただし、俺はここにはいませんが、醤油と味噌の樽は毎月届きます。……それが止まるのが嫌なら、死ぬ気で店と味を守ってくださいね?」
「……むぅ。分かった。貴殿の作ったこの『聖地(横丁)』は、エピキュリア家の家宝として、末代まで守り抜こう。……達者でな、魔王殿。売上の振込は、毎月きっちり行うと誓おう」
「ええ。期待してますよ」
俺は軽く手を振り、馬車を出した。
カポッ、カポッ、と石畳を叩く蹄の音が、自由へのファンファーレのように朝の王都に響き渡る。
背後で遠ざかる王都の巨大な城壁を見上げながら、俺は大きく、肺の空気をすべて入れ替えるように伸びをした。
「……ああ、やっとあの喧騒から解放される。やっぱり俺には、ネオン(提灯)よりも太陽と土が似合ってるよ。……さらば、労働の日々。こんにちは、不労所得」
◇
数日後。
王都から続く街道を抜け、山を越え、ようやく見慣れた景色が広がった。
懐かしい土の香りが、風に乗って鼻をくすぐる。リーフ村への帰還だ。
村の入り口では、農作業中のロベルトや、洗濯物を干していた母リリアたちが、俺の馬車を見つけて駆け寄ってきた。
「おーい! ルークスが帰ってきたぞ! 英雄のお帰りだ!」
「ルークス! 王都で変な女に騙されてないかい!?」
賑やかな声に包まれながら、俺は荷台から王都で仕入れた流行りの菓子や、珍しい布地を土産として配った。
ひとしきり挨拶を終えた後、俺は真っ先に自宅の裏にある畑へと向かった。
そこには、俺がいない間も、ロベルトたちがマニュアル通りに丁寧に世話をしてくれていた聖樹トマトが、太陽の光を浴びて真っ赤に熟れ、重たげに実っていた。
俺は一つをもぎ取り、袖で軽く土埃を拭って、そのままかじりついた。
――プチュッ。ジュワァァ……。
弾ける果皮。口の中に溢れ出す、濃厚な果汁。
強烈な甘みと、それを引き締める野生的な酸味。そして何より、土壌のエネルギーが凝縮された「味の濃さ」。
「……うん、これだ。……この酸味と、土臭いほどの生命力。王都の気取った料理にはない『生』の味だ。……やっぱり、俺の原点はここにある」
俺はトマトを咀嚼しながら、深く安堵の息を吐いた。
ここが俺の城であり、俺の職場であり、俺の寝床だ。もう二度と、面倒なコンサルタント業など御免だ。俺はただ、美味いものを食って寝たいだけなのだ。
そして、その夜。
俺の食卓には、考えうる限り、この異世界で再現可能な「完璧」な和定食が並んでいた。
土鍋で炊き上げ、蓋を開けた瞬間にカニ穴から湯気が立ち上る、銀シャリ。
自家製豆腐と、庭で採れたネギをたっぷりと入れた味噌汁。
キュウリとカブの浅漬け。
そしてメインディッシュは、村の清流で釣り上げ、化粧塩をして炭火でじっくりと焼き上げた、脂の乗った大ぶりの川魚の塩焼き。
「……完璧だ。これ以上ないほどの夕食だ」
俺は箸を取り、アユのパリパリとした皮を破り、ほくほくの白身をほぐした。そこに、完成したばかりの「醤油」を数滴垂らす。
焦げ茶色の雫が、白身に染み込み、炭火の香ばしさと混ざり合って食欲を刺激する。
一口食べる。
――ホクッ。
美味い。川魚特有の淡白で上品な旨味を、醤油のコクが引き立て、ご飯が止まらなくなる。
味噌汁を啜り、漬物を齧り、また白飯をかき込む。
幸せなループだ。誰もが羨むスローライフだ。
だが。
箸を進める俺の脳裏に、ある「違和感」……いや、埋めようのない、黒い穴のような「欠落感」が鎌首をもたげた。
醤油皿に残った、黒い液体を見つめた瞬間、俺の手が止まった。
「……違う」
俺は箸を置いた。
「……川魚も美味い。確かに美味いが……俺が求めているのは、この優しくて繊細な『土の香り』じゃない。……もっとこう、荒々しく、濃厚で……口に入れた瞬間に体温で溶け出し、舌に絡みつくような『脂』と……鼻を抜ける『潮の香り』だ!」
俺の言葉に呼応するように、脳裏に前世の記憶が走馬灯のように駆け巡る。
深紅に輝き、ねっとりとした食感を持つマグロの赤身。
霜降り牛のようにサシが入り、醤油を弾くほどに脂が乗った、冬の寒ブリの刺身。
噛めば甘みが爆発する、プリプリのホタテの貝柱。
そして、黄金色に輝き、濃厚なコクを持つウニの軍艦巻き。
醤油皿の黒い水面が、俺に訴えかけてくる。
『俺の本当の相棒は、川魚だけか? もっと脂の乗った、海の王者はいないのか? ワサビも泣いているぞ』と。
「……足りない。ワサビもある。醤油もある。極上の銀シャリもある。なのに、その上に乗せるべき『王』が不在だ! これは、画竜点睛を欠くなんてレベルじゃない。寿司桶を開けたら、カッパ巻きとお新香巻きしか入っていないような絶望だ!」
俺の悲痛な叫びに、同席していたフィオナとフェンが顔を見合わせ、呆れたようにため息をつく。
「……ルークス? 何ブツブツ言ってるの? 十分豪華じゃない。このお魚、皮まで美味しいわよ?」
『主よ。川魚も美味いが、お前はまだ何か隠し玉を持っているのか? お前の欲望は底なしだな』
俺は無言で立ち上がり、部屋の壁に貼られた大陸地図の前に立った。
指差したのは、リーフ村から東へ、険しい竜の背のような山脈を越えた先にある、広大な青い領域。
「……海だ。俺たちは、海へ行くぞ」
「はぁ!?」
フィオナが素っ頓狂な声を上げ、飲んでいたお茶を吹き出しそうになった。
彼女は青ざめた顔で地図と俺を交互に見る。
「正気!? 東の海は『魔の海域』よ! 沿岸には『水龍』の眷属がうようよしてて、近づく船はすべて海の藻屑になるって言われてるのよ!? この国の漁師だって、命が惜しいから誰も近づかない『死の海』よ!」
「水龍……? つまり、脂の乗ったデカいウナギか? それともハモか?」
「は? ウナギ? 聞いてるの? 船ごと飲み込む怪物よ!」
「それとも、クラーケンとかいう巨大イカか? ……いいか、フィオナ。海というのはな、ただの水たまりじゃない。あれは『塩味のスープで満たされた、手つかずの巨大な生簀』なんだ」
俺の目には、恐ろしい魔物の姿など映っていない。
映っているのは、極太の足が香ばしく醤油で焼かれた「イカ焼き」や、脂の乗った「ウナギの蒲焼」、そして丼からはみ出るほどの「海鮮丼」の幻影だ。
「水龍がいれば、極上の白身魚の刺身が食える。クラーケンがいれば、イカ刺しとゲソ焼きが一生分食い放題だ。……行くぞ。これは魔物討伐じゃない。命がけの『食材確保』だ。醤油とワサビを持ってこい!」
◇
翌朝。
村の広場には、平和な農村には似つかわしくない、異様な集団が形成されていた。
俺と、渋々ついてきたフィオナ、そして興味津々のフェン。
さらに、俺が徹夜でポイント交換と錬金術を駆使して、既存の農業用ゴーレムを魔改造した、三体の鋼鉄の巨人が並んでいた。
通常の丸みを帯びた農業用とは違い、その腕には対魔獣用の巨大なネットランチャーや、銛を撃ち出す射出機。そして背中には、不釣り合いなほど巨大な「銀色の箱」が背負わされている。
「……主よ。これはなんだ? 戦車か? それとも隣国への侵略兵器か?」
フェンが、ゴーレムの右腕に装着された、ワイヤー巻き上げ式の超高トルクウインチを見て、呆れた声を出す。
「いいや、漁船だ。名付けて『水陸両用・対海獣自動捕獲ゴーレム・マークⅠ(漁師君一号)』。背中の箱は、氷魔法の魔石を組み込み、常にマイナス20度を保つ『鮮度保持コンテナ』だ。これで、獲れたてのマグロだろうが水龍だろうが、鮮度抜群のまま、死後硬直が始まる前に村へ持ち帰れる」
「……あんた、その情熱と技術力を、少しは世界平和とかに向けなさいよ……。なんで魚を冷やすためだけに、国家予算レベルの魔石を使ってるのよ……」
フィオナが頭を抱え、深い溜息をつく。だが、その腰のポーチには、ちゃっかりと「My醤油瓶」と「おろし金」が入っているのを俺は見逃さなかった。彼女もまた、昨夜の俺のプレゼン(海鮮丼の絵)に心を奪われた共犯者なのだ。
「よし、出発だ! 目指すは東の山脈を越えた先、魔の海域! 待ってろよ、まだ見ぬ海の幸たち。……俺の醤油とワサビが、火を噴くぜ!」
俺の号令と共に、ゴーレムたちが「ゴォォォォ……」と重厚な駆動音を響かせて歩き出す。
山脈の向こう、まだ誰も味わったことのない「青き未踏の地」へ。
陸を制した農家・ルークスの、飽くなき食欲の旅が、今、新たなステージへと突入した。
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**【読者へのメッセージ】**
いつもご愛読ありがとうございます!
第二百三十六話、いかがでしたでしょうか?
米と醤油があるのに、刺身がない。
日本人にとって、これほど残酷で、魂を削るような状況はありません。
「魔の海域」だろうが「水龍」だろうが、醤油を持ったルークスにとっては、ただの「特大の食材」に過ぎません。
いよいよ始まる「海洋編」。
果たしてルークスは、クラーケンを醤油焼きにできるのか?
「海鮮丼食べたい!」「ゴーレムが漁船扱いで笑った」と思ってくださった方は、ぜひ【評価・感想・ブックマーク】をお願いします!
皆様の応援が、ルークスの漁獲量を増やします!
次回、第二百三十七話――「遭遇、クラーケン。それは『巨大なイカ焼き』の予感」。お楽しみに!




