第二百十八話:聖樹の下で、新種(?)の野菜を収穫する
翌朝、リーフ村の夜明けは、空を割って降り注ぐエメラルドグリーンの光と共に訪れた。
俺の家の庭から天を突き、雲さえも貫かんばかりにそそり立つ聖樹。その巨大な葉が朝日に透け、村全体を幻想的な深緑の海に沈めている。まるで世界そのものが巨大な宝石の中に閉じ込められたかのような光景だが、その根元で繰り広げられているのは、神話とは程遠い泥臭い「労働」の現場だった。
「……起きろ、新人。始業時間だ。農家の朝は王族の目覚めより早い。三十分の遅刻は、トマトの苗にとっては一生の不覚なんだぞ」
俺は、巨木の根元で、かつては神聖な輝きを放っていたであろう高級な法衣を泥にまみれさせ、丸まって震えていたエルフの少女、フィオナをクワの柄で軽く突いた。
「……ううっ……。非道な人間……不浄な猿め……。聖樹の守護者であるこの私を、このような湿った土の上で野宿させるなんて……。呪ってやる……末代まで、あんたの育てるトマトが全部尻腐れ病にかかる呪いをかけてやるわ……」
「呪う暇があったら腰を上げろ。ほら、今日は朝飯前に、この根元にこびりついた『魔力吸い尽くし雑草』を全部抜くのがノルマだ。これ、放置すると聖樹の養分を吸って、変な毒キノコが繁殖するからな。さっさとやるぞ」
「なっ……! この私が、この美しい指を汚して素手で草むしり!? ふざけないで! そんなの、エルフの広域殲滅魔法『エメラルド・フレア』で一瞬で――」
「魔法禁止って言っただろ! そんな高出力の魔力を使ったら、聖樹の繊細な根まで焼き尽くされるだろうが。いいか、農業は効率と丁寧さの両立だ。ブラック企業でもな、自動化できない泥臭い手作業、この『現場のひと手間』こそが、最終的な品質の差を生むんだよ。分かったらその軍手をはめろ」
俺は抵抗するフィオナの手に、リーフ村で一番頑丈な、使い古しの軍手を無理やり押し付けた。
フィオナは「汚らわしい……っ! 一生の不覚よ……!」と涙目で叫びながらも、俺の放つ「現場監督」特有の、有無を言わせぬ圧に気圧され、ブツブツと呪詛を吐きながら地面に膝をついた。
だが、その不毛な作業が始まって数十分。朝霧が晴れ始めた頃だった。
「……あ、あれは何……? 聖樹様の……枝に、何か……毒々しいほどに輝く果実が……」
フィオナが、土に汚れた震える指で頭上を指差した。
俺が昨日、ポイント交換した高濃度肥料を「これでもか」とぶっかけた聖樹の若枝。本来なら、数千年に一度、白く神々しい花を咲かせるはずのその場所に、数個の「完璧な球体」が実っていた。
それは、エメラルドの輝きを帯びながらも、その形状とツヤ、そしてヘタの形はどう見ても――。
「……トマト、だな。それも、俺が昨日植えようとしていた『超糖度ハチミツトマト』の種に、聖樹の魔力が混ざって変異したやつだ」
「馬鹿なことを言わないで! 聖樹様は世界の理を浄化する、聖なる雫を実らせるお方よ! それが、こんな……こんな赤色の、下品な水分と種が詰まっただけの、人間に食われるための野菜を産むはずが――」
「鑑定」
[名称:聖樹産・超次元糖度トマト(未登録神域変異種)]
[品質:超S級(神の食卓に並ぶレベル)]
[効能:極度の魔力回復、および精神の完全浄化。一口で十年分の寿命延命、および身体機能の最適化。]
[市場価値:金貨二、〇〇〇枚以上(ただし、独占禁止法に触れるため隠蔽推奨)]
「……よし、収穫だ。今日の朝飯のサラダのメインディッシュにする。お前が頑張って抜いた草の分の『ご褒美』だぞ、感謝しろよ」
「ちょっと、待ちなさい! 聖樹様の変異体を食べるなんて、不敬……不敬すぎるわ! それは即座に聖域へ持ち帰り、千年かけて儀式的に精査が必要な――ああっ! もう、なんの躊躇もなくもぎ取ってる!?」
俺はフィオナの絶叫をBGMに、瑞々しい黄金の輝きを帯びた、完熟のトマトを丁寧に収穫した。
そのトマトからは、鼻をくすぐるような、濃密な太陽の光と、清涼な森の奥深くの冷気を一気に閉じ込めたような、暴力的なまでに食欲をそそる芳香が漂っている。
「……まあ、食べれば分かるさ。理屈じゃないんだ、農業は。……あ、お袋。ちょうどいいところに」
家の勝手口から、割烹着のようなエプロンを締めた母のリリアが、鼻歌を歌いながら現れた。彼女は、庭を埋め尽くす伝説の巨木や、泥だらけで泣きそうな顔をしている絶世の美少女エルフを見ても、まるで「昨日の残り物」を見るかのように眉一つ動かさなかった。
「あらあら、ルークス。新人の子、もう働かせてるの? 可哀想に、お腹が空いてるんじゃないかしら。……さあ、フィオナちゃんと言ったかしら。手をお洗いなさい。今、ルークスが採ったその美味しそうなトマトで、私の特製料理を作ってあげるから」
「あ、あの……私は聖樹の守護者で……人間が作った家畜の餌など……私の高潔な胃袋が……」
「はいはい、返事は『はい、お母さん』よ。いい? この家で一番偉いのは、クワを持ってるルークスでも、魔王を倒すフェンちゃんでもなく、包丁を持ってる私なの。分かったら、さっさと椅子に座りなさい」
「……は、はい。お母様……」
リリアの、全種族の王をも平伏させるであろう「無敵の母性」と「絶対的支配力」の前に、フィオナは蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
そのまま、彼女はズルズルと、香ばしい匂いの漂う食堂へと連行されていった。
数分後。
リーフ村のささやかな、けれど磨き抜かれた食卓に、抗い難い「匂いの暴力」が充満した。
リリアが手際よく調理したのは、聖樹産トマトを贅沢に使った『冷製カッペリーニ ~バジルの香りを添えて~』。
細いパスタには、黄金のトマトから溢れ出した濃厚な果汁と、最高級のオリーブオイル、そして庭で採れたばかりの、ルークス特製バジルが完璧な乳化を遂げて絡みついている。
トマトの鮮やかな黄金色と、バジルの深い緑が、白い皿の上で宝石のように輝いていた。
「……ふん。見た目だけは、それなりに綺麗だけれど。所詮は人間が泥を捏ねて作った、不浄な料理。聖域の湧き水と月の光だけで生きてきた私に、こんな……こんな脂ぎったものが合うはずが――」
ぐううぅぅぅぅぅぅぅ!
静寂に包まれた室内で、フィオナの腹の虫が、聖樹が風に揺れる音よりも大きく、かつ力強い音を立てた。
「……主よ。早く食べよう。私はもう、涎で前が見えない。このままではフィオナの分まで食べてしまうぞ」
フェンはすでに、自分の皿の前で尻尾を千切れんばかりにプロペラのように振り回し、瞳を爛々と輝かせている。
「……ほら、フィオナ。毒見は俺がしてやるよ。……いただきます」
俺は一口、パスタを口に運んだ。
その瞬間、脳内でビッグバンが起きた。
(……なんだ、これは。糖度なんて言葉じゃ足りない。これは、太陽の蜜をそのまま液体にしたような、究極のエネルギーだ。噛んだ瞬間に弾ける果肉から、暴力的なまでの旨味と、喉を通った後に鼻へ抜ける、水晶のように透き通った酸味が溢れ出す。……そして、後味が……信じられないほど清涼だ。魂が洗われるってのは、こういうことか)
「……フィオナ、これ、食わないとエルフの長い寿命の九割九分は、ただの無駄な時間になるぞ。悪いことは言わない、一回だけ、死んだつもりで食べてみろ」
「そ、そんな、大袈裟な……。ううっ、お母様がそんなに優しく勧めるなら……一口だけ、本当に一切れだけよ……っ!」
フィオナは震える手でフォークを握り、黄金に輝くトマトの一片を、覚悟を決めた戦士のような表情で口に含んだ。
――刹那。
フィオナの翡翠の瞳が、限界を突破して見開かれる。
その白磁の肌の頬が、一瞬で真っ赤に染まり、彼女の全身から淡い翠色の魔力が、悦びに震えるようにして奔流となって溢れ出した。
「な……っ!? これ……何!? 甘い……いえ、深い! 大地の記憶が……聖樹様がこれまで数千年の時をかけて吸い上げてきた純粋な魔力が、この一切れに『旨味』として凝縮されている……! 魔力が、涸れ果てていた私の魔力回路が、一瞬で……ああっ、満たされていく……おいしいいぃぃぃ!」
フィオナは、気高いエルフの作法も矜持も、どこかの肥溜めに放り投げ、夢中でパスタを口に運び始めた。
フォークを巻く手が止まらない。頬張るたびに、彼女の長い耳がピクピクと幸せそうに揺れる。
「くっ……殺せ……! なんで、なんで人間の男が『肥料』しただけの野菜が、聖域のどの果実より美味しいのよぉぉぉ! こんなの、こんなの不公平だわ!」
涙を流しながら、皿の底に残った最後の一滴のソースまで、パンの欠片で拭い取って舐めとらんばかりの勢いで完食したフィオナ。
彼女の翡翠の瞳には、もはや俺に対する殺気など一塵も残っていなかった。代わりに宿っているのは、逃れられない「胃袋の支配」に対する、屈辱と悦楽が入り混じった、白旗を揚げた敗北の光だ。
「……ふぅ。……御馳走様……でした。……お、お母様、おかわりは……ありますか?」
「あらあら、いい食べっぷりねえ。でもね、おかわりが食べたければ、明日もルークスの手伝いをして、この美味しいトマトをもっとたくさん実らせてあげないとね」
リリアの、慈悲深くも冷徹な追い打ち。
フィオナは、満足感でとろとろになった顔のまま、俺をチラリと、上目遣いに見た。
「……あ、明日も……これを食べさせてくれるなら……。ま、まあ、聖樹様の『異常成長の監視』と『浄化状況の記録』という、私にしかできない崇高な任務のために、不本意ながら……本当に不本意ながら! この肥溜めで、明日も働いてあげなくもないわ……。これは、あくまで仕事なんだからね!」
「そうか。じゃあ明日からは、聖樹をさらに活性化させるための『特製・完熟堆肥作り』だ。森の落ち葉と家畜の糞の黄金比率、エルフの知識でアドバイスしろよ」
「た、堆肥……!? 腐った……あの……鼻が曲がるやつ!? 嫌よ、そんなの死んでも嫌だわ!」
「いいのか? 堆肥の熟成が甘ければ、明日のトマトの『コク』が落ちるぞ。あの、脳を痺れさせるような旨味がなくなるんだぞ?」
「……っ! ううっ……分かったわよ! 最高の……世界一の堆肥を練り上げてやるわよ! その代わり、明日はこのトマトで『ふわふわのオムレツ』を作ってちょうだいね!」
「よし、契約成立だ。……新人、明日は三時半起きだ。遅刻したら、朝飯抜きだからな」
こうして、聖域の守護者であった高位エルフ・フィオナは、リーフ村の「住み込み従業員」として、後戻りできない第一歩を踏み出した。
庭の聖樹が、満足げにその巨大な葉をサワサワと揺らし、ルークスの勝利を祝うように翠色の光を振りまく。
その光景を眺めながら、俺は、スローライフという名の「高難度人材育成」が、いよいよ本格的に始まったことを確信し、満足げにクワを担ぎ直した。
---
**【読者へのメッセージ】**
いつもご愛読ありがとうございます!
第二百十八話、いかがでしたでしょうか?
聖域の矜持を、トマトパスタ一皿で見事に売り払ってしまったフィオナ。
「くっ……殺せ!」から「おかわり!」への華麗なる転身は、まさに本作の黄金パターン。
リリアの母性と、ルークスの「肥料の暴力」にかかれば、エルフの数千年の伝統も、ただの『隠し味』にすぎません。
果たして、フィオナは明日の「堆肥作り(クソまみれ)」に耐えられるのか?
そして、聖樹が次に見せる「さらなる変異」とは……。
「フィオナ、チョロ可愛い(笑)」「このトマトを商品化してくれ!」と思ってくださった方は、ぜひ【評価・感想・ブックマーク】をお願いします!
皆様の声こそが、作者の執筆意欲を「加速」させる最高の肥料です!
次回、第二百十九話――「堆肥の香りは、エルフを狂わせる」。お楽しみに!




