第二百十六話:帰還、そして庭に植えた「ただの種」
馬車の車輪が、懐かしい土の感触を拾い始めた。
王都の、あの精緻に磨き上げられ、隙間なく敷き詰められた石畳とは違う。ゴツゴツとした石が混じり、雨が降れば泥濘んで足を取られる、無骨で、けれどどこまでも温かい、我が家へと続くリーフ村の土の道だ。
窓の外から流れ込んでくる風には、牛舎の牧歌的な匂いや、昼下がりの炊事の煙、そして誰かの家で煮込んでいる塩辛い豆スープの香りが混じっている。
「……帰ってきた。本当に、帰ってきたんだな」
俺、ルークス・グルトは、馬車の荷台から身を乗り出し、深く、肺の奥までその空気を吸い込んだ。
数億のポイントを費やして王都を黄金の光で塗り潰したあの奇跡も、国王や貴族たちからの耳が痛くなるほどの英雄としての賛辞も、今の俺にとっては、まるで遠い異国の、数十年前に見た夢のように非現実的なものに感じられる。
村の入り口では、村長のハンスが相変わらずの不機嫌そうな顔で、腰に手を当てて俺たちを待っていた。
「おい、ルークス! 辺境伯様から連絡は受けていたが、随分と長旅だったじゃないか。王都の華やかさに当てられて、クワの振り方まで忘れたわけじゃあるまいな? あんたがいない間、北側の畑の雑草がえらいことになってるんだぞ!」
「そんなわけないですよ、村長。……ただいま、ハンスさん。こっちはむしろ、早く土を弄りたくてウズウズしてたくらいです」
「ふん、口だけは達者だな。……まあ、いい。マーサ婆さんが、あんたのために焼き立てのアップルパイを冷まして待ってるぞ。冷めちまう前に顔を見せてやりな」
ハンスの小言さえ、今の俺には天上の調べのように心地よく聞こえる。
ブラック企業のオフィスで、上司の罵声を「ただのホワイトノイズ」として聞き流し、魂を削っていたあの頃とは大違いだ。ここにあるのは、俺を「救国の聖農」という大層な名前で呼ぶ者など一人もいない、ただの「少しだけ知識のある農家のせがれ」として扱う、平穏で、何よりも守りたかった日常だった。
家に戻ると、見慣れた我が家の畑が夕日に照らされて広がっていた。
俺の不在の間、父アルフレッドが丹精込めて手入れをしてくれていたおかげで、トマトの苗は力強く茎を伸ばし、瑞々しい青い実をいくつも鈴なりにつけている。
俺は荷解きもそこそこに、王都で着せられた窮屈な礼服を脱ぎ捨て、泥汚れの馴染んだ農作業着へと着替えた。そして、そのまま自分の部屋のベッドに、泥のように沈み込む。
「……ふぅ。やっぱり、自分の家の、この少し硬いベッドが一番だ」
『主よ、同感だ。王宮のあの沈み込みすぎる寝床は、かえって腰が落ち着かぬ。やはりこの、干し草の匂いがする場所が、魔獣としての本能に響くぞ』
フェンも、子犬の姿になって俺の腹の上に乗ってくる。王都では常に周囲を警戒し、伝説の魔獣としての気配を殺すことに腐心していたフェンも、今は完全に野生を失った飼い犬のように目を細めていた。
俺はふと、脱ぎ捨てた服のポケットに、奇妙な重みが残っているのを感じた。
「……ああ、そうだ。これ」
取り出したのは、王都を脱出する際にいつの間にか紛れ込んでいた、淡い翠色の光を放つ不思議な種だ。
手のひらの上で、それはまるで微かな熱を帯びているかのように、ゆっくりと鼓動を打つようなリズムで明滅している。
「これ、結局なんの種だろうな。王都で『環境保全プロトコル』を走らせた時に、システム上のバグというか、副産物で発生した新種の野菜の種か何かかな。見たこともないくらい透き通ってて綺麗だけど」
『……主よ。警告しておくが、私にはそれがただの野菜には見えん。……何か、こう、神話の時代から続く太古の森の深淵、そこから漏れ出した、根源的な魔力の塊のような気配がするのだが』
フェンが、種に向かって鼻を鳴らし、低く「グルル」と喉を鳴らす。
だが、俺の脳内の「農民センサー」は、その致命的な警告を、自分に都合の良い形へと即座に変換して受け取っていた。
(この瑞々しい輝き、そして生命力……。これは、間違いなく『高栄養・超多収』、あるいは『一度植えれば一生収穫できる』タイプの究極の野菜フラグだ。もしかしたら、王都の莫大な魔力を肥料にして進化した、伝説のジャガイモの種か何かかもしれない)
俺は「鑑定」ウィンドウを開いた。だが、表示されたのはノイズだらけの文字列だった。
[アイテム:■■■の種子(解析不能)]
[状態:極めて活性。……聖■■■■との高同期。]
[注記:不適切な土壌管理は、世界の理に重大な■■を及ぼす恐れがあります。]
文字化けがひどい。だが、ブラック企業で「締切直前に送られてきた、壊れたエンコードの仕様書」を何度も強引に読み解いてきた俺には、これがどういう状況か、すぐに察しがついた。
「なるほど。王都の管理システムから離れすぎて、同期が追いついてないんだな。やっぱり田舎は電波(魔力)の入りが悪い。……まあ、いいや。どんな味がするのか気になるし、とりあえず実験用の隔離畑に植えてみるか。肥料は、王都で稼いだポイントを使って、リンと窒素を極限まで高めた特製のやつを調合すればいいしな」
『主よ! 待て! 私の話を……ぐ、ぐえっ!?』
俺は、必死に袖を引くフェンの口に、王都の晩餐会でこっそり収納しておいた『特製・骨付き熟成牛の炭火焼き』を突っ込んで黙らせた。
そのまま、庭の隅にある、最も日当たりの良い一画をクワで軽く耕す。
「よし、ここにしよう。……大きくなれよ、究極の野菜(仮)」
俺は軽い気持ちで、その翠色の種を土に埋め、ポイントで生成した『超高濃度・植物成長促進肥料(管理組合公認)』をたっぷりとかけた。
その瞬間、足元の土の中から「ドクン」という、大地そのものが脈打つような振動が伝わってきた気がしたが、俺は「おお、流石は高額ポイントの肥料だ、効きが目に見えて分かるな」と、満足げに頷いて家の中へ戻った。
久しぶりの、本当の意味で静かな夜。
窓の外から聞こえる虫の声と、風に揺れる穂の音を聞きながら、俺は深い、深い眠りに落ちた。
――そして、翌朝。
「……ん、なんだ? まだ夜明け前か? 時計の針は……もう八時すぎてるぞ?」
窓から差し込むはずの太陽の光が届かず、妙に部屋が暗いことに気づいて目を覚ました。
いや、暗いのではない。目蓋越しに感じる光の色が、根本的におかしいのだ。
通常、朝日は温かいオレンジ色か、鮮やかな白色のはずだ。だが、今、俺の寝室を満たしているのは――濃密で、息が詰まるほど鮮やかな、エメラルドグリーンの光だった。
「フェン、おい、フェン。……なんだ、この変な光……」
俺は寝ぼけ眼をこすりながら、窓のカーテンを勢いよく引き開けた。
そして、その場で、思考のすべてが凍りついた。
「……え?」
窓の外に広がっていたのは、俺の愛する整然とした畑ではなかった。
視界のすべてを埋め尽くしているのは、天を突き、雲さえも貫かんばかりに巨大な、見たこともない巨木の幹。
その太い根は、俺の家を優しく包み込むどころか、地面を盛り上げ、石垣を粉砕し、家の土台ごと持ち上げようとしている。
さらに空を見上げれば、見渡す限りの視界が、幾重にも重なり合った巨大な葉によって遮られていた。リーフ村全体が、一晩のうちに形成された巨大な緑の天蓋の下に、完全に飲み込まれていたのだ。
一晩で、俺の庭は、数千年の歳月を圧縮したかのような「深緑の原生林」へと、物理的に変貌していた。
「ル、ルークス! 起きろ! お前の家が、山になったぞ!」
「神様、助けてください! 村が森に喰われる!」
外からは、腰を抜かした村人たちの絶叫と、村長ハンスの怒鳴り声が響いてくる。
俺は、自分が昨日「種」を植えた場所を、戦慄しながら見つめた。
そこには、俺が普段愛用している『スチール製の特注クワ』が、巨木の幹の急激な成長に取り込まれ、まるでありえないオブジェのように半分埋もれて折れ曲がっていた。
チカ、チカ、と俺の網膜の裏側で、赤色のシステム通知が激しく明滅し始める。
[通知:『世界の理・再構成』による深刻な副作用が顕在化しました。]
[警告:聖樹守護領域への物理アクセスポイントが、あなたの自宅庭に確立されました。]
[管理メッセージ:森の管理者が、あなたの「不法投棄(無許可の種まき)」と「過剰な施肥(禁忌のドーピング)」に対し、最高レベルの激怒を示しています。]
「……不法投棄? 肥料のやりすぎ……? いや、これ、ただの野菜じゃないのか……?」
呆然と立ち尽くす俺の目の前で、巨木の幹が不自然に、まるで水面のように波打ち、一つの「扉」のような亀裂が形成された。
そこから漏れ出してきたのは、この世のものとは思えないほど清浄で、それでいて肌を刺すような冷たい空気。そして――。
「……いた。我が聖域の核を盗み、あまつさえこんな『肥溜め』のような土に埋めた、不届きな人間は……貴様か」
扉の向こうから現れたのは、黄金色の長い髪と、鋭い殺気を湛えた翡翠の瞳を持つ、信じられないほど美しい――そして、この世で最も怒らせてはいけない種族、「エルフ」の少女だった。
「……俺は、ただ……新種のトマトを作ろうと思っただけなのに……」
俺の、あまりにも虚しい、農民としての弁明は、巨木が揺れるザワザワという深い音に、無慈悲に飲み込まれていった。
スローライフを取り戻したはずの一日は、こうして、異世界全土の外交問題を孕んだ「新章・エルフ編」へと、強制的にアップデートされたのだった。
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**【読者へのメッセージ】**
いつもご愛読ありがとうございます!
第二百十六話、ついに物語は新章「エルフ編」へと突入いたしました!
「ただの野菜の種」だと思って植えたものが、一晩で家を飲み込む巨木へと成長。
農民としての「好奇心」と「サービス精神(大量の肥料)」が、まさかの国際問題を引き起こすという、ルークスらしい(?)開幕となりました。
家の庭がいきなり「エルフの国」への玄関口になってしまったルークス。
怒り心頭のエルフの美少女を相手に、彼はこのジャングル化した日常をどう収拾させるのでしょうか?
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次回、第二百十七話――「聖樹の管理人は、不法投棄を許さない」。お楽しみに!




