第二百十四話:英雄の帰還と、最高級のバタートースト
黄金の光が収まった王都は、かつてないほどの静寂に包まれていた。
空を埋め尽くしていた『アビス・ローカスト』の金属質な羽音は跡形もなく消え去り、代わりに聞こえてくるのは、再生した街路樹の葉が風に擦れるカサカサという乾いた音と、どこか遠くで、まるで今の奇跡を祝福するかのように鳴き始めた小鳥のさえずりだけだ。
俺、ルークス・グルトは、王都の象徴である時計塔の屋上、その鋭く突き出した縁にどっかと腰を下ろし、天を仰いで深く、長く溜息をついた。
「……やりすぎた。完全に、やりすぎたぞ、これは」
自分の手元で淡く光るシステムウィンドウ。そこには『大規模環境アップデート完了』という無機質なログと、三億ポイントという天文学的な対価を支払った後の、少しばかり寂しくなった残高が表示されている。
前世の俺――ブラック企業の底辺で喘いでいた佐藤拓也なら、三億ポイント分のアマゾンギフト券がメンテナンスミスで消滅したような衝撃を受け、その場で泡を吹いて卒倒していただろう。だが、今の俺を襲っているのは、そんなポイント的な後悔よりも、もっと切実で、もっと恐ろしい感情だった。
「フェン……。これ、絶対怒られるよな。父さんたちにも、辺境伯様にも。あと、あんなに地面に額を擦り付けてるロベルトの奴……。俺、ただの農民なんだぞ?」
俺の足元で、同じく魔力を使い果たして子犬ほどのサイズにまで縮小した相棒、ブラックフェンリルのフェンが、面倒くさそうに緋色の片目を開けた。
『何を今更。王都全土に黄金の雨を降らせ、死に絶えた大地を瞬時に緑へ書き換えておいて、「たまたま新種の肥料を撒きすぎただけです」などという言い訳が、この世界の住人に通じると思っているのか? 主よ、お前の厚顔無恥さには、伝説の魔獣である俺も呆れるばかりだぞ』
「通すんだよ、力技で。……『ポイントシステムの不具合で、一時的にエフェクト表示が過剰になりました』とかさ。それっぽい単語を並べれば、煙に巻けるはずだ」
『それはこの世界の住民には一文字も通じぬ呪文だな。……だが、安心しろ。お前の顔が今、英雄というよりは、三徹明けの社畜のような、死んだ魚の目をしていることだけは俺が保証してやる』
フェンの辛辣な、だが確かな信頼を感じさせる言葉に、俺は力なく笑った。
時計塔の下を見れば、王都の騎士団や着飾った貴族たちが、蜘蛛の子を散らすような勢いでこちらに向かって駆け寄ってくるのが見える。先頭を走るのは、辺境伯レオナルド様だ。彼の顔は、国を救われた感謝と、それ以上に「この子供は一体何者なんだ」という、本能的な戦慄に満ちている。
(……逃げよう。今の俺に必要なのは、王家からの勲章でも、貴族からの賛辞でもない。静かな場所と、温かい飯。それだけだ)
俺は最後に残ったわずかなポイントを絞り出し、未取得だった『気配察知Lv.3』と『隠密行動Lv.2』を並行起動させた。システムウィンドウの文字が青く点滅し、俺の存在感が周囲の風景に溶け込んでいく。
「フェン、撤退だ! ここで捕まったら最後、王宮の晩餐会という名の『無期限拘束業務』が待ってるぞ!」
『心得た。主の「定時退社」への執念、しかと見届けよう!』
俺たちは黄金の粒子の余韻に紛れ、時計塔の裏側から音もなく飛び降りた。
再生した王都の空気は、驚くほど清浄だった。俺が『環境保全プロトコル』で調整した土壌は、一歩踏み出すごとに微かな大地の香りと、生命の息吹を感じさせる温もりを放っている。
混乱する大通りを避け、ゴミ一つ落ちていない清潔な裏路地を縫うようにして、俺たちは家族が待つ辺境伯邸の別棟へと急いだ。
別棟の扉の前に立った時、俺の心臓は、ジルヴァと対峙していた時よりも激しく鼓動していた。
全身は泥とイナゴの体液で汚れ、服はあちこちが裂けてボロボロ。魔力は空っぽで、膝が笑っている。
だが、扉の隙間からは、俺がこの世界で、そして前世のあの寒々しい深夜のオフィスで、死ぬほど焦がれ続けた「匂い」が漂ってきていた。
ギィ、と古びた扉が開く。
「……ただいま。腹減ったよ」
俺のその、英雄らしからぬ情けない一言に、室内で固唾を飲んで待っていた家族たちが一斉に弾かれたように動き出した。
「ルークス!」
一番に飛び込んできたのは、妹のマキナだった。彼女は俺の腰に全力でしがみつき、ボロボロの服を汚すのも厭わずに顔を埋めた。
「お兄ちゃん、おかえり! すごかったよ、空がキラキラして、イナゴさんがみんな光になって消えちゃった! マキナ、怖くなかったよ。だってお兄ちゃんが守ってくれるって、ずっと信じてたもん!」
「ああ、マキナ。……ごめんな、心配かけて」
マキナの柔らかい髪を撫でながら顔を上げると、そこには母のリリアが、目に大粒の涙を浮かべながら、それでもいつものように厳しい、だが深い慈愛に満ちた表情で立っていた。
「……ルークス。あんた、また無茶をして。……でも、無事でよかった。本当に……本当によかったわ」
父のアルフレッドは、言葉少なげに俺の肩を一度だけ、強く、痛いほどに叩いた。その手の震えが、彼がどれほどの恐怖に耐え、息子を信じようとしていたかを物語っていた。
「……リリア。こいつへの説教は後にしよう。……まずは、こいつが今一番欲しがっているものを」
「そうね。……ルークス、座りなさい。今、ちょうど最高に焼けたところよ」
俺は、吸い寄せられるように、いつもの見慣れた木製の食卓へと向かった。
そこには、三億ポイントの奇跡でも、管理組合の力でも決して作り出せない、至高の情景が広がっていた。
皿の上に鎮座しているのは、王都の老舗ベーカリーから取り寄せた、選び抜かれた小麦粉を使ってリリアが焼き上げた厚切りの山型トーストだ。
そしてその上には、昨日俺が「いつかこの戦いが終わったら、最高のご褒美として食べよう」と、自分への報酬として奮発してポイント交換しておいた『幻の黄金バター・極』が、これでもかとばかりに乗せられている。
じゅわっ、パチパチという微かな音が聞こえてきそうなほどに、熱々のトーストの上でバターが激しく溶け出していた。
トーストの表面は、まるで黄金の砂を散りばめたような完璧な狐色に焼き上げられ、熱によって液体化したバターが、パンの気泡の奥深くへと黄金の川を作って、じっくりと、芯まで染み込んでいく。
立ち上る香りは、香ばしい小麦の香りと、熟成された最高級生クリームのような濃厚なコクが混ざり合い、空腹で悲鳴を上げていた俺の胃壁を激しく揺さぶった。
「いただきます……」
俺は震える手で、まだ熱いトーストを掴み、大きく一口、夢中で齧り付いた。
――サクッ。
心地よい、乾いた音が脳の芯まで響き渡る。
外側は驚くほど軽やかに焼き上げられ、歯を通した瞬間に弾けるような食感。しかし内側は、溶けたバターの海をたっぷりと吸い込んで、驚くほどしっとりと、まるでお餅のようにモチモチとしている。
噛みしめるたびに、上質なバターの芳醇な塩気と、小麦の持つ野性的な甘みが口いっぱいに広がり、疲弊しきって枯れ果てていた俺の細胞一つ一つに「幸福」という名の最高純度の燃料が注ぎ込まれていく。
(……ああ。生きてる。俺、本当に、異世界で生きてるんだな)
ブラック企業のオフィスで、成分表示も分からない毒々しい色のエナジードリンクを胃に流し込んでいたあの地獄の夜、俺が魂の底から欲していたのは、この「サクッ」という音だった。
施設で一緒に、ひもじさを紛らわすために「いつか、自分たちで育てた野菜で、世界一の朝飯を食べよう」と約束した、あの後輩の笑顔。その夢の続きが、今、俺の口の中で完成していた。
「……美味しい。母さん、これ、これ以上のものは、この世界に存在しないよ」
「当たり前でしょ。あんたが命懸けで守った王都の小麦だもの。私が一番美味しくしてあげなくてどうするのよ」
リリアが照れ隠しにふんぞり返るが、その目はまだ赤いままだ。
隣ではフェンが、俺が分け与えたバタートーストを、伝説の魔獣としてのプライドをかなぐり捨て、無我夢中で咀嚼していた。
『……主よ。これは、いかんな。三億ポイントの奇跡など、この一切れのパンの幸福感の前では無価値だ。……おかわりだ。今すぐ、この黄金の油の塊をもう一枚要求する!』
「分かってるって。……マキナ、そんなに口いっぱいに詰め込むな。逃げないからさ」
家族の笑い声。カチャカチャという食器の触れ合う音。
窓の外から差し込む、浄化された王都の柔らかな朝の光が、食卓を黄金色に縁取っていく。
俺は、バタートーストの最後の一片を口に運び、飲み込むのが惜しいほどにゆっくりと味わいながら、心の中でシステムウィンドウの片隅を操作した。
大規模環境アップデート。その莫大な演算のログ。
通常なら無視して消去するはずのシステム通知が、一瞬だけ俺の網膜の裏側をかすめた。
[未知の干渉波を検知:聖樹守護領域より、大規模同期ノイズ。]
[ステータス:解析不能。……管理者権限による確認を推奨します。]
(……エルフ、か。あいつら、森に引きこもっているくせに、俺のアップデートに気づいたのかよ)
不穏な予感。だが、俺はそっと、そのウィンドウを右から左へスワイプして消し去った。
「……今は、いいや。解析なんて、後にしよう。……今は、このバターの余韻を、一秒でも長く守りたいんだからさ」
俺は、家族にバレないように小さくあくびをした。
英雄としての仕事は、定時で終わった。
ここからは、ただの農民としての、贅沢で怠惰な二度寝の時間が始まる。
王都を救った救世主。
世界の理を書き換えた魔術師。
人々がどれほど大層な名前で俺を呼ぼうとも、俺の真の名は、ただの「農民」だ。
俺は、部屋いっぱいに広がる香ばしいバターの香りに包まれながら、深い、深い眠りの淵へと、心地よく身を沈めていった。
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**【読者へのメッセージ】**
いつもご愛読ありがとうございます!
第二百十四話、ついに王都編の激闘を終え、ルークスが「いつもの場所」に帰ってきました。
神の力を振るった直後、彼が求めたのは、一枚のトースト。
バターの溶ける描写に全力を注ぎましたが、皆様の食欲を刺激できていれば幸いです。
平和な朝食の裏側で、システムに表示された「エルフからのノイズ」……。
これが次なる物語への大きな鍵となります。
「トーストが食べたくなった!」「ルークス、お疲れ様!」と思ってくださった方は、ぜひ【評価・感想・ブックマーク】をお願いします!
皆様の声こそが、作者にとっての最高のご馳走です!
次回、第二百十五話――「英雄、事後処理から全力逃走する」。お楽しみに!




