第二百九話:包囲された夕暮れ亭と、薔薇の覚醒
王都の下町に、重苦しい空気が垂れ込めていた。
アベル王子の屋敷から帰還して数日。
俺たち『夕暮れ亭』への直接的な攻撃はない。刺客も来ないし、窓ガラスが割られることもない。
だが、事態はもっと深刻な方向へと進んでいた。
「……クソッ! やってられねぇぞ!」
早朝、店に飛び込んできたロベルトが、帽子を床に叩きつけた。
彼の顔は怒りで真っ赤だが、その奥には隠しきれない焦燥が見える。
「どうした、ロベルト。また半グレに絡まれたか?」
「いや、もっとタチが悪い。『衛兵隊』だ。……俺の馬車がすべて押収された」
「押収……だと?」
「『整備不良の疑いがある』だとさ! 車軸にひびが入っている可能性があるから、詳細な検査が終わるまで運行禁止だと言われた。……ふざけんな、俺は毎日整備してる! あんなのただの難癖だ!」
ロベルトが叫ぶ。
野菜の輸送手段が絶たれた。これでは、どんなに新鮮な野菜を作っても、貴族街へ届けることができない。
だが、悪い報告はそれだけではなかった。
「旦那様……資材屋の連中が、荷物を下ろしてくれねぇんです」
スラムの若者が、泣きそうな顔で駆け込んでくる。
「炭も、砂利も、樽も……。『お前らに売る在庫はない』って。ギルドから圧力がかかってるみたいで……」
俺は奥歯を噛み締めた。
炭と砂利がなければ、『物理濾過装置』のメンテナンスができない。フィルターが詰まれば、また地下からヘドロが溢れ出し、農園は全滅する。
ポイントで代用素材を買うことはできるが、それは一時しのぎに過ぎず、俺の資産を確実に削り取っていく。
直接手を出せば「王室御用達」への反逆になる。だから王子は、俺の「手足」である協力者たちを、法と権力という名の真綿で締め上げているのだ。
兵糧攻め。
陰湿だが、これ以上ないほど効果的な一手だ。
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そして昼過ぎ。トドメとばかりに「奴ら」が現れた。
「失礼する。王都衛生局と、国税局の者だ」
店に入ってきたのは、無機質な顔をした役人の集団だった。
彼らは令状を突きつけ、店の中を荒らし回った。
「厨房の隅に埃があるな。衛生基準法違反の疑いがある」
「帳簿のこの数字……不自然ですね。脱税の疑いがあるため、調査終了まで資産の一部を凍結させていただきます」
「な、なんだと!? 埃なんて毎日掃除してるぞ! 帳簿だってルークスがきっちりつけてる!」
ゲイルさんが食って掛かるが、役人たちは冷ややかな目で鼻で笑うだけだ。
「異議があるなら、所定の手続きを経て裁判所に申し立てなさい。……もっとも、審理が始まるのは半年後になるでしょうがね」
営業停止命令こそ出なかったが、彼らは「調査中」という札を店の入り口に貼り付けた。
これでは客も寄り付かない。
店には閑古鳥が鳴き、スラムの住人たちは不安そうに俺を見ている。
「……俺のせいだ」
俺は拳を握りしめた。爪が食い込み、血が滲む。
俺が王子の誘いを断ったから。俺が「自由」なんてものに固執したせいで、ゲイルさんの店も、ロベルトの商売も、スラムのみんなの生活も……すべてが壊されようとしている。
「ごめん、みんな。俺が……」
謝罪の言葉を口にしようとした、その時だった。
(……主よ、客だぞ。だが、いつものむさ苦しい連中じゃない)
足元でフェンが耳を立てた。
深夜の路地裏。営業停止中の店の扉を、叩く音がした。
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扉を開けると、そこに立っていたのは、深くまでフードを被った小柄な人物だった。
背負っているのは、貴族には似つかわしくない大きな革袋。
フードの下から現れた顔を見て、俺は息を呑んだ。
「……エレナ、様?」
そこにいたのは、辺境伯令嬢エレナ・ランドール。
だが、いつもの煌びやかなドレスではない。動きやすい平民風のチュニックとズボンを身にまとい、その長い髪は……無造作に束ねられていた。
何より違うのは、その瞳だ。
かつて俺に守られていた、儚げな少女の瞳ではない。燃えるような決意を宿した、戦士の目をしていた。
「……夜分に申し訳ありません。入れていただけますか?」
店の中に招き入れると、エレナ様は背負っていた革袋をテーブルに置き、中身をぶちまけた。
ジャラララッ……!
店内に、眩い音が響き渡る。
こぼれ落ちたのは、金貨、宝石、ネックレス、指輪……。
小さな城なら買えるほどの、莫大な財宝の山だった。
「こ、これは……!?」
「私の私財のすべてですわ。ドレスも、宝石も、母の形見以外はすべて売り払って換金してきました」
「なっ……何をしてるんですか! そんなことしたら、貴族としての立場が……!」
「捨てました」
エレナ様は、きっぱりと言い放った。
「父には置手紙をしてきました。『アベル王子に嫁ぐくらいなら、勘当されて平民になります』と」
家出。
貴族令嬢にとって、それは社会的死を意味する。地位も、名誉も、将来もすべて投げ打つ行為だ。
彼女はまっすぐに俺を見つめた。
「父から聞きました。アベル王子が、貴方たちの安全と引き換えに、私を差し出せと脅してきたことを。……私が貴方の弱点になっていることを」
「……ッ」
知られていたのか。俺が隠していた苦悩を。
「ルークス様。……私は、もう守られるだけの『お人形』ではありません」
彼女は一歩、俺に近づいた。その頬は紅潮しているが、声は震えていない。
「あの地下水路で貴方に救われた命。そして、このトマトを食べて知った、生きる喜び。……それを、薄汚い権力者のために売り渡すつもりはありません」
彼女はテーブルの上の「軍資金」と、もう一冊の分厚いノートを俺に差し出した。
「これは資金。そしてこのノートは、私が独自に集めた『貴族街の裏情報』です。どこの貴族が誰と繋がっているか、アベル王子がどの商会から賄賂を受け取っているか……お茶会で集めた噂のすべてが書いてあります」
「エレナ、様……」
「ルークス様。私を、貴方の農園の『共同経営者』にしてくださいますか? ……もう、守られるのはごめんです。貴方の背中を追いかけるのではなく、隣で一緒に戦いたいのです!」
その言葉は、俺の胸に突き刺さった。
俺は今まで、彼女を「守るべき対象」としてしか見ていなかった。彼女を蚊帳の外に置き、一人で背負い込もうとしていた。
だが、彼女は自分の足で立ち、全てを捨ててここまで駆けてきたのだ。
俺は……なんて傲慢だったんだ。
俺は深く息を吸い込み、そしてニヤリと笑った。
不安も、迷いも、すべて吹き飛んでいた。
「……最高だ。あんた、最高のパートナーだよ」
俺は彼女の手を取り、力強く握り返した。
その手は、かつてのような冷たい手ではない。熱く、脈打つ、仲間の手だ。
「ロベルト、聞いたか? 資金はある。情報もある」
「へっ、ああ! こんだけの金がありゃ、新しい馬車どころか、傭兵団だって雇えるぜ!」
ロベルトが口笛を吹く。ゲイルさんも、涙ぐみながら包丁を磨き始めた。
「よし。反撃開始だ」
俺はテーブルに広げられた地図――王都の全図を指差した。
「王子様が『法』と『権力』で来るなら、こっちは『経済』と『世論』……そして、農民特有の『害虫駆除術』で殴り返す」
深夜のボロ宿で、最強のレジスタンスが結成された。
農民、元貴族令嬢、商人、料理人、そして伝説の魔獣。
持たざる者たちの逆襲が、今ここから始まる。
「フェン、起きろ。……明日の朝刊より早く、王都中に『面白い噂』をばら撒くぞ」
(ふん。ようやく面白い顔になったな、主よ)
俺たちの目は、もう死んではいない。
王子の足元を崩す、とっておきの秘策が動き出そうとしていた。
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読者の皆様、第二百九話「包囲された夕暮れ亭と、薔薇の覚醒」をお読みいただきありがとうございました!
陰湿な兵糧攻めに対し、全てを捨てて駆けつけたエレナ様の覚悟。
守られるヒロインから、共に戦うパートナーへ。
この熱い展開に、胸が震えていただけましたでしょうか?
資金と情報を手に入れたルークスたちの反撃。
次回、第二百十話。
「王都炎上(比喩)! 暴露された王子の闇」。
アベル王子の悪事を白日の下に晒し、経済と世論で包囲網を破ります!
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