第百七十六話:闇を穿つ牙、あるいは「平穏」という名の契約
深夜、王都の喧騒が嘘のように静まり返った『銀の蹄亭』の予備厨房。
先ほどまで室内を支配していたトリュフの官能的な芳香は、俺が発動させた【換気用・毒素中和魔導ファン(5,000pt)】の微かな回転音と共に、銀幕カーテンの結界の内側で淡く霧散していった。石壁に染み付いた僅かな焦げ醤油の匂いだけが、ここで行われた「祝祭」の余韻を留めている。
リアム王子を送り出した後の、僅かに熱を帯びた静寂。
俺――ルークス・グルトは、汚れを拭き取った冷たい石造りの調理台に腰掛け、冷徹な「リスク管理者」としての意識を極限まで研ぎ澄ませていた。
「……主よ、戻った。一匹、逃げ場を失って壁の隙間で震えておったぞ。お主の張った『網』は、なかなかどうして、小蝿を捕らえるには十分な精度だ」
音もなく、背後の影が揺らいだ。
厨房の勝手口から現れたのは、漆黒の毛並みを一筋も乱していないフェン。その足元には、全身を光を吸収する黒装束に包み、猿ぐつわを噛まされた一人の男が、まるで使い古された雑巾のように無造作に転がされていた。
【スキル:鑑定 Lv.1 発動】
【対象:王宮内通者(下級工作員)】
【状態:極度の恐怖によるパニック、右足首の複雑骨折(フェンの咬傷による)。口封じ用の自害薬はフェンにより除去済み】
【所属:宰相オルコ派閥、第二情報局・特務班】
(……オルコか。設定資料集にある、王都編の黒幕。案の定、リアム王子の『劇的な食欲回復』という異変を嗅ぎつけて、その情報源を特定しに来たか)
俺は深くため息を一つ吐き、調理台からゆっくりと降りた。
前世のブラック企業時代、俺が最も嫌いだったのは「情報の流出」と、現場の努力を台無しにする「理不尽な横槍」だった。プロジェクトを成功させようと死ぬ気で働く俺たちを、社内政治の都合だけで妨害し、手柄を掠め取ろうとする上層部。今の俺にとって、足元で震えるこの密偵は、あの頃の忌まわしい記憶の権身でしかない。
「フェン、よくやった。……さて、どうしたものかな。殺すのは簡単だが、死体はこの街において最も厄介な『バグ』になる。放置すれば腐敗し、通報されれば俺たちの足取りを露呈させる証拠に変わる」
「主の好きにするがよい。だが、この男の瞳の奥、記憶の残滓を覗き見たところ……お主の家族がいるリーフ村の地図が微かに浮かんでおった。どうやら、お主の『弱点』まで調査の手が伸びておるようだぞ。……それを知っても、なお情けをかけるか?」
フェンの低い、地響きのような声が、俺の脳内にある「怒り」のスイッチを叩いた。
家族。その二文字が出た瞬間、俺の中の農民の温かさは霧散し、冷徹なポイント亡者――佐藤拓也の意識が完全に浮上する。
「……情け? まさか。これは『契約』の書き換えだよ。僕の平穏を脅かしたコストを、彼自身の人生で支払ってもらうだけだ」
俺は無機質な手つきで空中を叩き、ポイントを消費した。
【アイテム:自白と沈黙の魔塩:4,000pt 購入】
【アイテム:記憶の部分凍結(短期的記憶処理剤):8,000pt 購入】
【保有ポイント:41,900 pt → 29,900 pt】
残高が三万を切る。だが、防衛費としてはあまりに安いものだ。
俺は、男の猿ぐつわを乱暴に外し、恐怖で引き攣ったその唇に、青白く光る「魔塩」を振りかけた。
「……ぎ、ぎいぃ……っ! お、前、ただの子供じゃ……その目は、まるで……」
「静かに。君の雇用主が誰かは知っているし、君が何を調べていたかも分かっている。……今から君には、二つの未来を選んでもらう。一つは、このまま『行方不明』として処理され、君の家族ごと宰相の失敗者リストに載って消されること。もう一つは、僕から金を貰って、『何も見つけられなかった、ただの野犬に襲われた』と報告し、明日の朝一番で王都を離れ、郊外で新しい名前でやり直すことだ」
俺は収納魔法から、以前ポイントで換金しておいた金貨二枚(約二十万円相当)を取り出し、男の目の前でチャリンと音を立てて弄んだ。
魔塩の効果で、男の瞳から意志の光が急速に失われ、代わりに底なしの絶望と、それ以上に醜い「生への執着」が混ざり合う。
俺は、前世で部下の不祥事を揉み消し、他部署の部長と交わしたあの「最悪の合意」と同じ、温度のないトーンで囁きかけた。
「……君がこの金を受け取れば、君の記憶は『宿の裏で野犬に襲われ、任務を失敗した』という事実に書き換えられる。魔塩の呪印が君の舌に刻まれるから、以後、僕や王子のことを話そうとすれば、君の肺は呼吸を忘れることになる。……理解できたかな?」
男は、ガタガタと全身を震わせながら、泥にまみれた指先で金貨を掴み取った。
それが、俺という「平穏への執着」との、血の通わない一方的な契約の成立だった。
「フェン。……街の外れ、スラムのゴミ捨て場まで運んで捨ててきて。二度と、この宿の匂いを思い出せないようにね」
「承知した。……クハッ、主もなかなかに酷いことをする。死よりも重い『沈黙』という名の枷をはめるとはな」
影が再び消え、厨房に真の静寂が訪れる。
俺は、震える手で石鹸を使い、丁寧に、何度も、皮膚が赤くなるまで手を洗った。
汚い仕事を終えた後の、この胃の腑が焼けるような不快感。これもまた、スローライフという名の贅沢を守るための、必要経費なのだ。
――数時間後、夜が明け始めた。
宿屋の窓から差し込む、嘘のように清々しい朝日が、昨夜の闇を塗り替えていく。
俺は、昨日用意しておいた贈り物――【魔力付与の特製作業服】と【転移の魔石】を、丁寧に、心を込めて包み直していた。
「……父さん、母さん。マキナ……みんな、元気かな」
昨夜の冷徹な「始末人」の顔はどこへやら。ペンを握る俺の手は、リーフ村への想いで微かに震えていた。
便箋に向かい、王都での「楽しい」生活を綴っていく。
『お父さん、お母さん、マキナ。王都はすごく賑やかだよ。美味しい野菜もたくさんある。でも、やっぱりみんなと一緒に食べるおじやが一番だと思う。……これを送るから、大切に使ってね。マキナ、お兄ちゃんが帰るまで、しっかりリリアさんの手伝いをするんだよ。……約束だぞ』
ジルヴァのこと、王子のこと、昨夜の密偵のこと。
そんな「毒」は、一文字も、一滴のシミも残さない。
俺が王都で泥を啜り、ポイントを削って防衛線を張るのは、彼女たちの元へ届く手紙に、一片の影も差さないようにするためだ。
「クラウスさんの商隊に頼めば、三日後には村に届くかな。……喜んでくれるといいな」
俺は、家族への愛が詰まった小荷物を大切に抱え、朝の光が溢れる宿を出た。
その頃、王宮の最深部。
一晩で見違えるように目つきが鋭くなった第四王子リアムが、玉座を狙う兄たちを前に、初めて一歩も引かぬ毅然とした姿勢で立ち塞がっていた。
「……私は、もう逃げない。この国を、あのような『真実の温かさ』が許される場所に変えるためなら、私はどんな泥でも、どんな罵倒でも引き受けてみせる」
王子の胸に灯った「意志」という名の消えぬ火。
そして、リーフ村へと向かう「愛」という名の小さな包み。
王都編の巨大な歯車は、ルークスという一人の農民の「平穏への執着」によって、さらなる加速を始めていた。
---
【読者へのメッセージ】
第百七十六話をお読みいただき、ありがとうございます!
昨夜の密偵への冷徹な「リスク管理」と、家族を想う「純粋な祈り」。このルークスの二面性こそが、本作の物語を支える骨格です。
10万ポイントの蓄えがあったからこそ実現した、血を流さない「沈黙」の契約。
リアム王子の覚醒が、王宮の勢力図にどのような激震をもたらすのか。
次回、ルークスが市場で遭遇する、新たな「鑑定不可」のアイテム……!?
「冷徹なルークスの描写に痺れた!」「家族への手紙のシーンで目頭が熱くなった……」という方は、ぜひ評価やブックマークで応援をよろしくお願いいたします。皆様のブクマこそが、ルークスの次なる「平穏への防衛設備」をより強固なものにします!




