第百話:風の吹く丘、黄金の旅立ち
1.白亜の土と、夏色の宝石
バルザックの断罪から、ひと月が過ぎた。
季節は春から初夏へと移り変わり、ランドールの街には、かつてない活気と、目が眩むほどの陽光が降り注いでいた。城壁の内側に吹き込む風は、もはや凍てつく冷気ではなく、草いきれと大地の匂いを孕んだ、力強い生命の息吹そのものだった。
俺の実験農場は今、二度目の収穫の時を迎えていた。
ただし、今回の主役はひまわりではない。トーマスさんたち農夫が管理する試験区画で、あの怪物の残骸である『白い土(消石灰とミネラルの塊)』を混ぜ込んで育てた、夏野菜たちだ。
「先生! 見てくだせえ! このトマトの赤さを!」
トーマスさんが、子供のように目を輝かせて駆け寄ってくる。その両手には、大人の拳ほどもある、完熟したトマトが抱えられていた。朝露に濡れたその皮は、張り裂けんばかりにパンパンに張っており、太陽の光を吸い込んでルビーのように輝いている。
「こっちのキュウリもだ! 見てくれ、このイボの鋭さを! 水気がたっぷりで、折るとパキッといい音がするんだ!」
他の農夫たちも、籠いっぱいの野菜を抱えて、誇らしげに笑い合っている。
かつては酸性が強く、作物が育ちにくいとされたこの土地が、怪物の遺産と、俺たちの知恵(土壌改良スキル)によって、極上の農地へと生まれ変わったのだ。
「……へっ。俺の『疾風』がなけりゃ、こうはいかなかっただろうよ」
畑の脇で腕組みをして立っているゴードンが、憎まれ口を叩きながらも、その口元を緩ませている。彼の工房は今や、領内全域からの注文が殺到し、嬉しい悲鳴を上げている状態だ。
「まあ、皆様! 採れたてのお野菜、そのままかじっても美味しいですわよ!」
農作業着姿のエレナ様が、泥だらけの手も気にせず、冷たい井戸水で冷やしたトマトやキュウリを配って回っている。
「ガブリ!」と豪快にトマトにかぶりつくと、甘酸っぱい果汁が口いっぱいに広がる。
「ん~っ! 美味しいっ!」
彼女の笑顔は、この農場に咲くどの大輪の花よりも輝いていた。貴族の令嬢としての殻を破り、大地と共に生きる喜びを知った彼女は、以前よりもずっと強く、美しく見えた。
平和だ。
俺が望んでいた、温かくて、穏やかな日常がここにある。
故郷からの手紙も届いた。マキナはすっかり元気になり、今は元気に庭を走り回っているという。父さんも母さんも、俺の活躍を誇りに思い、いつか帰ってくる日を楽しみに待ってくれている。
(……これで、いいんだよな)
俺は、農場の柵に寄りかかり、心地よい初夏の風を感じながら目を細めた。
スローライフ。俺が夢見たその景色は、確かにここにある。
2.王からの招状
その日の午後。俺は、辺境伯の執務室に呼び出された。
入室すると、いつになく重苦しい空気が漂っていた。レオナルド辺境伯は、窓際で外の景色――豊かに実り始めた領地を眺めていたが、俺の気配に気づくと、ゆっくりと振り返った。
机の上には、一枚の羊皮紙が置かれている。そこに押された封蝋は、辺境伯家の獅子ではない。
王家の紋章――『双頭の鷲』が、威圧的な存在感を放っていた。
「……ルークス・グルト。王都より、早馬が届いた」
その言葉に、同席していたギデオンの顔が引き締まる。セバスチャンも、緊張した面持ちで控えている。
「王都……ですか?」
「ああ。お前が作った『奇跡のプリン』、そして『冬に実る野菜』の噂は、風に乗って国王陛下の耳にも届いたようだ。……いや、あるいはあの古狸(宰相オルコ)あたりが、嗅ぎつけたのかもしれんがな」
レオナルドは、苦笑交じりにそう言うと、俺の目を真っ直ぐに見据えた。
「国王陛下が、お前に会いたがっておられる。『辺境に現れた若き賢者を、次の建国祭に招待せよ』とな」
(……国王陛下!)
俺は息を呑んだ。
一介の農民が、国王に謁見する。それは、この世界ではあり得ないほどの名誉であり、同時に、地方領主の抱える一技術者が、国の中枢という巨大な政治の渦に巻き込まれることを意味していた。
「断ることもできる。お前にはその権利がある。……だが」
レオナルドは、言葉を切った。その瞳には、領主としてではなく、一人の革新者としての熱い光が宿っていた。
「お前が目指す『革命』を、この領地だけでなく、国全体に広げたいと願うなら……。これは、またとない好機だ。この国の農業は、未だ古い慣習に縛られている。お前の知恵があれば、飢えに苦しむ多くの民を救えるかもしれん」
彼の言葉は、俺の心の奥底にある、まだ燻っていた野心を刺激した。
俺の『土壌改良』と『品種改良』の知識。そして、ポイントシステムの力。これらを使えば、もっと多くの土地を豊かにし、もっと多くの人を救える。
そして何より、この広い世界には、まだ俺の知らない『食材』や『知識』が眠っているはずだ。王都の市場には、どんな未知の作物が並んでいるのだろうか。
それに……。
俺は、懐のポケットに入れた『黒い石』の存在を意識した。
バルザックの悪事を暴いた、決定的な証拠。そして、『古代の遺物』としての未知の機能。解析率はまだ15%だ。この石の正体を知るためにも、そして、姿を消したジルヴァの行方を追うためにも、辺境に留まっていては限界がある。奴は必ず、より大きな力が集まる場所――王都に現れるはずだ。
俺は、顔を上げた。迷いはなかった。
「……謹んで、お受けいたします」
俺の返答に、レオナルドは満足げに深く頷いた。
「よろしい。私も、定例の報告で王都へ向かう。……同行せよ、筆頭技術顧問。我らが辺境の風を、王都の堅物どもに吹かせてやろうではないか」
3.それぞれの約束
出発の朝。
空は雲ひとつない快晴だった。
俺は、実験農場の管理を、トーマスさんと、一番弟子として急成長したエレナ様に託すことにした。
「……本当に、行ってしまわれるのですか?」
農場の入り口で、エレナ様が寂しげに眉を寄せる。その手には、彼女が育てたスミレの花束が握られていた。
「はい。でも、すぐに戻ってきます。王都の珍しい種や、新しい農具の知識を持って」
「……お約束、ですわよ? わたくし、この農場を、そしてあなたが蒔いた種を、必ず守り抜いてみせますから。……ですから、必ず、帰ってきてくださいまし」
彼女は、涙をこらえて気丈に振る舞いながら、花束を俺に手渡した。
俺はそれを受け取り、彼女の目を見て力強く頷いた。
「はい。お願いします、エレナ様。……あなたはもう、立派な農場の主ですから」
「へっ、行ってきな。土産話、期待してるぜ」
ゴードンが、俺の背中をバンと叩く。その掌の熱さが、背中を通して心臓まで伝わってくるようだった。
「ゲルトの奴にも、王都の空気を吸わせてやりたかったがな。……ま、あいつにはあいつの修行がある。お前も、負けんじゃねえぞ」
「もちろんです。ゴードンさんの『疾風』が、王都でも通用すること、証明してきますよ」
「先生、気をつけて! こっちは任せといてくだせえ!」
トーマスさんたち農夫が、帽子を振って見送ってくれる。彼らの日焼けした笑顔は、俺がこの地で成し遂げたことの、何よりの証明だった。
俺は、皆の顔を一人一人、目に焼き付けた。
セバスチャンが深々と頭を下げている。オーギュスト師匠が、厨房の窓から手を振っている。
この場所は、俺の帰るべき場所だ。リーフ村と同じくらい、大切な故郷。
「……行くぞ、ルークス」
準備を整えたギデオンが、馬車から声をかける。今回の旅も、彼が護衛として同行してくれることになった。これほど心強いことはない。
4.地平線の彼方へ
馬車に乗り込む直前、俺は懐から『黒い石』を取り出した。
今は静かに眠っている。だが、これは一人の有力貴族を破滅させた証拠品であり、同時に正体不明の古代遺物だ。もし王都で人目に触れれば、バルザック以上の厄介事を招きかねない。
「……フェン、頼むぞ」
俺は、黒い石を厚手の革布で何重にも包み直した。そして、それをコートの内側、最も深いポケットへとしまい込む。そこは、俺の体温が伝わり、そしてフェンがいつも座っている位置に一番近い場所だ。魔力に敏感な彼なら、この石が何らかの反応を示した時、すぐに気づいてくれるはずだ。
「ワフッ」
フェンが「任せろ」と言うように短く鳴き、俺の膝の上で体勢を整えた。
御者が鞭を鳴らし、馬車がゆっくりと動き出す。
石畳を車輪が転がる音が、新しい旅立ちのリズムを刻み始める。
遠ざかるランドールの街並み。
城壁の向こうに見える、黄金色のひまわり畑の名残。
そして、いつまでも手を振り続ける仲間たちの姿が、小さくなっていく。
俺は、窓から身を乗り出し、大きく手を振り返った。
(行ってきます! みんな!)
馬車は速度を上げ、広大な街道へと進んでいく。
風が、頬を撫でる。その風は、王都の方角から吹いてきていた。
俺は、窓枠に肘をつき、遠ざかる農場を見つめながら、小さく溜め息をついた。
「……本当なら、行きたくないな」
「ん? 何か言ったか?」
向かいに座るギデオンが顔を上げる。俺は苦笑して首を振った。
「いえ……。明日も明後日も、あの畑で土に触れていたいな、と思っただけです。トマトの収穫も最盛期だし、新しい堆肥の具合も気になる。……俺はやっぱり、ただの農民なんですよ」
そう、俺が望んでいるのは権力でも名声でもない。
ただ、自分の手で育てた作物を、大切な人たちと食べる。そんな当たり前の日常だ。
「……だが、行かねばならんのだろう?」
ギデオンの静かな問いに、俺は前を向いた。
「ええ。この別れは、いつか必ず戻ってくるあの穏やかな日常を守るための、必要な遠回りですから」
王都には、ジルヴァが潜んでいるかもしれない。そして、『世界の捕食者』という不穏な言葉の謎も。それらを放置したままでは、真のスローライフは手に入らない。
俺は、ステータスウィンドウを開いた。
【現在の所持ポイント:10,689pt】
これだけのポイントがあれば、王都で何が起きても、きっと切り抜けられる。
いや、切り抜けてみせる。
俺の農具は『疾風』。俺の知恵は『土壌改良』。そして、俺の武器はこのポイントだ。
「……楽しみだな、フェン」
「ワオンッ!」
フェンも、新しい冒険の予感に、尻尾を振って応えた。彼の金色の瞳は、まっすぐに道の先を見つめている。
俺、ルークス・グルト。
ブラック企業で培った根性と、ポイントシステムのチート能力を武器に。
辺境を変えた次は、王都で、最強の農民になってやる。
馬車は、希望を乗せて、青い空の下を疾走していった。
その轍は、未来へと続いていく。
(第一章 辺境伯編 完)
【現在の所持ポイント:10,689pt】
【獲得スキル:鑑定、薬草知識、識別、土壌改良、嘘見破り】
【重要アイテム:星喰み、古代の遺物(黒い石)、ひまわり油】
【今回の文字数】
4,200文字
【読者へのメッセージ】
記念すべき第100話、そして第一章の完結までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!
過労死から始まったルークスの第二の人生。家族の愛を知り、仲間を得て、村を、そして街を救うまでの物語。最後は、彼が本当に守りたかった日常への未練と、それでも前へ進む決意を描かせていただきました。
「辺境伯編、最高でした!」「王都編も楽しみ!」「ルークスの成長に感動!」といった温かい感想、本当に励みになりました。
物語は、ここで一区切りとなりますが、ルークスの冒険はまだまだ続きます。
舞台は華やかな王都へ。そこには、どんな美味しい食材と、厄介な陰謀が待っているのか? そして、影を潜めたジルヴァや、『世界の捕食者』の謎は……?
第二章『王都編』で、またお会いしましょう!
これからも、ルークスとフェンのスローライフ(?)を、どうぞよろしくお願いいたします!




