第62章:彼女を救う II
綾美は躊躇わなかった。「しっかりつかまれ!」彼女は低く唸り、鋭く方向を変えた。不安定な地面を蹴り上げ、金色のエネルギー弾の一斉射撃をかわしながら逆方向へ疾走した。
リナは接近しすぎた召喚された手下を撃ち落とすと、「ヒカル、作戦あるんでしょ!?」と叫んだ。
「これが作戦だ!」ヒカルは轟く風の音を掻き消すように叫び、膝の上の『千災』を見た。「近くに水源はあるか!?」
千災のページが狂ったように捲れ、静止した。「前方の廃神社に鏡池あり!」
綾美が前進し、鋭い視線で歪んだ風景を走査する。そして見つけた――崩れた柱の間に鎮座するきらめく水面。鏡のように静止し、穢された天空の黄金色を反射している。
「そこよ!」彼女は直進コースを取った。
イシュタルの目が細まった。「愚か者め!」彼女が手を挙げると、頭上に魔法が渦巻き天空が暗転した。
「急げ!」ヒカルの怒鳴り声。
金色の衝撃波が背後で炸裂する瞬間、綾美は跳躍した。爪を地面に深く突き立てながら水際で滑り込み、速度を落とさず水面へ突入した。
水が漣を描き、ガラスのように砕けた。
鏡面を貫通する瞬間、白光が彼らを飲み込み、鏡の世界が背後に消えた。
暗闇が濃霧のように包み込む。無重力感が身体を引き剥がす。一瞬、浮遊しているような――時間の意味を失った虚無の中を漂う感覚。
そして次々に、彼らは崩れ落ちた。
ヒカルは状況変化を認識する間もなく四肢が鉛のように重くなった。視界が滲み、叫ぶより早く意識が遠のく。
リナのスナイパーライフルが見えない地面に転がり、彼女は崩れた。半変身中の綾美は唸り声を漏らすと人間と猫の姿を点滅させ――そして陥落した。死に物狂いで綾美にしがみついていた桜でさえ、抗うことなく不自然な昏睡に引きずり込まれた。
全員――静寂に包まれ、動かない。
ただ一つの例外を除いて。
千災がヒカルの胸の上で浮遊し、ページが不規則に翻った。古書のインクが周囲の異質なエネルギーに反応して輝く。
「これは...異常だ」千災は呟いた。聞く者は誰もいない。「現実世界に戻っていない...しかし鏡の世界でもない」
周囲――存在する限られた空間を走査した。影が不自然に歪み、空気そのものが波打ち、既知の形と未知の模様の間を絶えず変化している。
「変遷の次元」千災は暗い表情で悟った。「場所と場所の狭間」
ページを焦燥気味に捲る。「早く目覚めなければ...永久に目覚めぬかもしれん」
千災が次の行動を考えるより早く、深く未知の声が歪んだ虚空に響いた。
「安らげ、小さな本よ。彼らは無事だ」
千災のページが硬直した。「どなただ?」
「ここは『ここ』でも『そこ』でもない」声が続く。「わしの領域に迷い込んだ以上、礼儀としてもてなすとしよう」
千災のインクが不安定に脈打った。「あなたの領域? 正体は?」
答えより早く、空間全体が捻じれた。歪んだ虚空が皺くちゃな紙のように収縮し――全てが静止した。
衝撃。
次の瞬間、彼らは灼熱の砂漠に放り出されていた。無限に広がる砂丘の熱気が全身を圧迫する。
ヒカルが唸り声を上げながら起き上がると、衣服に砂がこびりついていた。頭が夢から醒めたような重たさを感じる。
隣でリナが頭を押さえながら身悶えた。「ううん...ここは?」
綾美は眉を顰めながら座り直し、髪の砂を払った。「...おいヒカル、鏡の世界から出る時って山麓に着くんじゃなかったの?」
沈黙。
ヒカルの表情が暗く曇った。「ああ...予定では山の近くだ。なぜ砂漠の真ん中? ここはどこだ?」
周囲を見渡す。単なる荒野ではない――砂丘に組み込まれた隠れ砦のような閉鎖空間だった。
リナが砂に指を突き刺し、顔を顰めた。「...アラビアの感触」
誰も返答できないうちに、乾いた咳が隣室から響き、声が続いた。
「君たちはエジプトにいる」
全員が凍り付いた。
声の主は近くの扉の向こうにいた。ヒカル、リナ、綾美が視線を交わし――確認すべきか否かを沈黙で問い合う。
千災の声がヒカルの脳内で軋んだ。「行け。答えが必要だ」
ヒカルが二人を見る。「君たちが行くなら」
綾美は嘲笑い、伸びをしながら立った。「子供じゃあるまいし。さっさと起きろよ」
桜が周囲を不安げに見回した。「み、みんな...本当にここどこ?」
リナが息を吐き、袖の砂を払う。「桜さん、声の主を確認しましょう。立ち尽くしてても仕方ない」
一行は慎重に隣室へ進んだ。香木と金属臭の混ざった異様な空気。壁沿いの提灯が砂に覆われた石床に長い影を落としていた。
奥の壁にもたれる男――無骨な外見に反し威厳を放っていた。縮れた黒髪が経験を刻んだ顔を縁取り、太い眉が微かに動いた。アラビアの血を濃く引く顔立ち。しかし最も目を引いたのは顔ではなかった――片手と片足を失い、精巧な魔力義肢に換えられていたことだ。呼吸マスクが顔の下半分を覆い、横たわる古びた装置にチューブが繋がっている。
男はマスク越しに機械的な呼吸音を立てつつ、鋭い視線で一行を見渡した。特にヒカルに視線を止めると、次に他者へ移した。
「さて」渇いた声で彼は言った。「わしの領域に落ちてきた君たちか」
ヒカルは男の眼光に緊張した。傷だらけの体ながら、圧倒的な存在感を放っていた。
綾美が腕組みして首を傾げた。「あなたの領域? この砂漠?」
男は呼吸マスク越しに低く笑った。「砂漠だと? ここは『狭間』だ。現実でも鏡でもない。永遠に迷い込まなかっただけ幸運と思え」
桜が唾を飲んだ。「それじゃあ...あなたが助けてくれたんですか?」
男は義腕の関節が唸る音を立てながら肩をすくめた。「助けたか、罠にかけたか。見方次第だ」鋭い視線がヒカルを捉えた。「真の疑問は――なぜお前は鏡の世界を作れる?」
一同がヒカルを見る。彼は硬直し、思考が暴走した。自分でも理由はわからない――今まで考える必要がなかった。
その時、千災のページが狂ったように捲れ、インクが形を変えながら何かを探し始めた。
ついに一頁に落ち着く。
「エンキドゥの伝説」
千災の声がヒカルの脳内に響く。
「彼は...エンキドゥその人だ」
ヒカルの胃が締め付けられた。
「何だって?」彼は本を見つめて呟いた。
綾美が身を乗り出し、ページを覗き込む。「もう一度言ってみろ?」
桜がきょとんとした表情で二人を見比べた。「え? 神話のエンキドゥ?」
呼吸マスクの男がゆっくりと息を吐き、面影に笑みを浮かべた。「覚えている者がいるようだな」
沈黙が部屋を支配した。
ヒカルは鼓動が耳朶を打つのを感じた。綾美の常套的な冷笑が消え、珍しく本気の驚愕に変わった。リナの指が武器に触れたが、引き抜かない。状況を完全に理解していない桜でさえ、世界が逆転したような表情を浮かべていた。
「冗談でしょ」ついに綾美が平坦な声で言った。「だがもし本当なら...納得だ。だからここは鏡でも現実でもない。神々が君を見つけられなかった理由も」
男はマスク越しに笑った。「はは...ここはわしが残した最後の魔法だ。かつてはギルガメシュと共に財宝を蓄えた広大な宝庫だった」
リナが目を細めた。「どうしてこんな廃墟に?」
エンキドゥはマスク越しに重い息を吐いた。「時だ。裏切りだ。戦争だ。選ぶがいい」壁によりかかり、義手を膝に載せた。「神々は我々の自由を許さなかった。全ての生物から魔法を奪う世界法則を書き換えた後...彼らはわしを殺そうとした。故にここに留まった」
「質問」綾美が言った。
エンキドゥが視線を向ける。
「あなたが魔法を奪ったというのに、ヒカルやリナ、私が使えるのはなぜ?」
エンキドゥは深淵のような目で彼女を見つめ、静かに答えた。
「......『祝福』の暴力的な力ゆえだ」
継続すること。




