星の花屋と月の神の忌み子、番犬と魔獣
ぞくりとするような甘い声に、全身の器官が警鐘を鳴らす。
逃げないと、今すぐ!
扉を勢いよく開けた。すると運悪く結界をすり抜けた風が襲う。結界は花の芽を損なわない程度の微風ならば、生育に欠かせない要素として妨げない。だがささやかな風であっても、勢いよく飛び出そうとした私の帽子を吹き飛ばすに威力は十分だった。時の流れが止まったかのように、ゆっくりと帽子が床に落ちる。昼でありながら薄暗い世界で顕わになったのは、白金色の髪――――。
「白金色だ、こいつ忌み子だぞ!」
「皆触るなっ、呪われる!」
どうして、何もしていないわ。私はただ箱庭のような世界に飽いて違う景色が見たかっただけなの!
あれは私が十歳のころ、はじめて街に降りたときのことだ。ライラは子供達に訳のわからないまま石を投げつけられ、血塗れの状態で街から追い払われた。肌を伝う血の感覚が今でも生々しい。
記憶とともになぜか痛みまでよみがえって、あの日と同じように叫んだ。
「許して、殺さないで!」
恐怖に膝から崩れ落ちた私の口がはくはくと空気を求める。
幻のように、突き放すような母の声まで聞こえてきた。
「これで自分が呪われた存在と理解できたでしょう。命を奪われなかっただけマシです。月の神と民の慈悲に感謝しなさい」
どうして私ばかりがこんな目に……そう思ったときだ。開きかけていた扉が風によって勢いよく閉じる。バタンと音を立てて閉まる扉の音が私を現実へと引き戻した。
視界の先に呆然としたギルさんの顔がはっきりと見えた。
「その、髪の色は……」
「見ないで!」
またあの日の出来事が繰り返される。ライラは髪を隠すように頭を抱えて床へと這いつくばった。
そうよ、生きていられるだけで幸せ。愛されなくてもいい、生きてさえいられたらそれでいいの。
――――あなたは誰からも愛されることのない存在と理解しなさい。
ちゃんと理解しているわ。だからお願い、もう許して。
たまらなくなって、ライラは静かに啜り泣いた。
紺色の作業着が視界の端を横切って、ギルさんの手が伸びる。殴られるか、蹴られるか。怯えと恐怖から、震えるライラの傍にギルさんは膝をついた
「落ち着いて、大丈夫だから」
胸元に引き寄せてライラの体を包み込んだ。理解できなくて、そのままの体勢で固まる。彼の手は私の背中をトントンと軽やかに叩いて一定のリズムを刻んでいた。どうしてだろう痛くない、それどころかとても心地よい。
とても温かいわ。人の手とは、こんなにも温かいものなのね。
人の手がこわくないものだということを、このときはじめて知った。すがりつくように、ライラは服の端を掴んだ。
「お願い、誰にも言わないで……内緒にして?」
「もちろん、約束する」
ギルさんの声はどこまでも穏やかだった。でも私の声はつたなくて、まるで子供みたいだ。目の前に帽子が差し出されたのを、ひったくるようにして奪った。そして急いで髪を隠す。彼の手が離れて、ようやくギルさんは目線を合わせた。
「落ち着いた?」
「はい」
「つらい過去を思い出させたようだ、申し訳ない」
そして静かに頭を垂れたのだ。思いもよらない彼の態度にライラは呆然とする。
「私をどうするつもりなのです?」
「どうもしない。君が望むように秘密を守る。それだけだ」
慎重に言葉を選ぶ彼の指先が私のほつれた髪をすくい、慎重な手つきで髪を帽子の内側に隠した。まるで守ろうとするみたい。触れた指先から優しさのようなものが伝わってくる。
「どうして探るような真似を?」
「私が知る限り、君だけが黄金のサレチュリアを育てることができる。その理由が何に由来するものなのかを確認したかった」
たとえば性別。それがサレチュリアを金に染める要素のひとつかもしれないと。そういえば、はじめに彼が身上書のような質問を寄せたときには答えていなかったわね。
それにしても、なぜ私が女性だと気がついたのだろう。これまで何十組と視察を受け入れてきたけれど、気づいたのは彼がはじめてだった。
「倒れそうな君を支えたときに、あまりの軽さと細さに違和感を持ったのがはじまりだ決定的だったのは先ほど会話を交わしたときの声。繊細で、とても耳触りのよい声だ。男性の骨格であんな優しい声は出ない。だから、まさか君がもっと重大な秘密を隠していたなんて、思いもしなかった」
よく見ているわ。
ライラの知る研究者というものは清々しいほどに黄金のサレチュリア以外のものには興味がない。私に接触するのは変異種を育てる生産者であるからであって、私自身には欠片も興味はなさそうだった。それなのに同じ研究者であるはずの彼の熱い眼差しは、いまだそらされることなく私に注がれている。
なんでこんなにも熱心に見つめられているのかしら?
居心地の悪さを感じて、ライラは視線をそらした。
「これ以上の謝罪は不要です。その代わり、二度とここにはこないで」
良い子でいることを求められた私の、思えばこれがはじめての抵抗だった。するとギルさんは難しい表情をして深く息を吐いた。
叱られるかも、ライラはびくりと肩を震わせる。すると先ほどまでの無表情が嘘のように彼は困ったような顔で眉を下げた。
「すまない。どうにもはがゆくて、君には嫌な態度を取ってしまうみたいだ」
「はがゆいですか?」
「君の態度を見れば周囲にどう扱われてきたのか想像がつく」
彼は一旦言葉を切った。
「君は悔しくないのか。彼らは君を忌み子と蔑むだけで何の手助けもしてくれない。そんな彼らのためになぜ君が我慢しなくてはならないのか。人と違う特徴や容姿を持つというだけで、当然の権利を奪い、人格すら否定するなど馬鹿げている。そうは思わないか?」
「でもそれは……この髪色のせいで、私は忌み子だから」
思えば、それ以外の理由をライラは持ち合わせていなかった。
月光神殿が力を持ち、満月信仰と呼ばれる教義の色濃く残るこの国でライラのような新月の色を持つ者は月の神の忌み子と呼ばれていた。ライラが極力表に出ないのは、小さいころに受けた仕打ちで、自分が疎まれる存在であることを知っているから。いるかもわからないくらいに気配を消すようになったのも、このため。
黄金色を存分に与えられた満月を月の神の化身とするならば、金色を与えられなかった新月は力の残り滓。つまり神の恩寵を与えられていないに等しい呪われた存在である、と。
ああ、なんて醜い色をした髪だこと!
母に言われたとおり、どうしても人前に出なくてはならないときは帽子をかぶるようになったのもこの髪を隠すためだった。だがギルさんは理解できないとばかりに首を振る。
「君のどこが忌み子なんだ? 黄金のサレチュリアを生み出して、職責を立派に果たす一人前の魔力排出植物生産者じゃないか」
「それは……」
「彼らは君の髪色だけでそうと決めつけている。全く関わりもしないくせに、君の一体何を知っているというのだろうね?」
「そんなこと言われたって、だって私は!」
ずっと、ずっとそう言われてきたのだから。
ライラには彼が何を言っているのか理解できなかった。けれどわからないなりに肌で感じたのだ。彼は怒りを覚えている。そしてその怒りの矛先は私ではなく、私の置かれた過酷な環境や差別する世間に向けられたものだということを……ライラの胸が痛んだ。
私のためにここまで怒りを露わにしてくれる人が、かつていただろうか?
「君は長いこと思考を支配されてきた。恐怖で逆らうことができず、幼いころから刷り込まれてきたのだろう。でもね、自分の生き方は他人が決めていいものではない。本来は君自身が決めることだ」
「で、でも急にそんなことを言われても……」
ライラの内に秘めた感情が大きく揺さぶられる。そうか、私はずっと支配されていたのか。植えつけられた恐怖によって、世間に逆らってはいけないと思い込まされてきた。そして母は恐怖を煽り、私をこの場所に縛りつけたのだ。
「世間にその醜い容姿を晒すなどもってのほかです。誰からも愛されることはない存在であることを認めなさい。そしてこの境遇を世間からの温情だと感謝し、ありがたく慈悲を受けとるべきなのです」
温情、慈悲と――――温情と慈悲がありながら、どうして貶められならなくてはならない?
そうだ、我慢することなんてない。
視線を感じて顔を上げるとギルさんの瞳が真っ直ぐにこちらを見つめている。
「今ならまだ間に合う。君は自分の置かれた境遇を不当なものだと抗うことができるだろう。さあ、本当はどうしたい?」
もうだめだ、昔の従順な自分には戻れない。私をここまで追い詰めた国のために、これ以上尽くすなんて冗談じゃないわ。逃げよう、その考えがストンと胸に落ちた。
「ここにはもう、いたくないです」
まるで夢から覚めたみたいだ。もっと以前にそうしてもよかった。今まで何に遠慮していたのかしら。一瞬、脳裏に母の顔が浮かんだけれど軽く頭を振って追い払う。あの人だって私を置いて出て行ったのだ。連絡先も知らないし、もはや他人と同じ。
黄金のサレチュリアのおかげで、それなりに資金はあるもの。あとは逃げる先と、逃げた先で何ができるかという問題だけ。
それに逃げるのなら、できればサレチュリアと一緒がいい。彼らは私に残された唯一の家族だから。視線の先でギルさんの口角があがる。
「よければ手助けしよう。きっと私なら役に立てる」
まるで悪魔の囁きだ。でも彼の目的は黄金のサレチュリアの栽培方法だとはっきりしている。利害が一致しているから少なくとも命の危険はないはずだ。
「私をこの国から逃してください。できればサレチュリアも一緒に」
「わかった、協力しよう」
ライラは深く息を吐いた。はじめて会った相手にこんなことを頼むなんてどうかしている。でも、この機会を逃せば次はないと、なぜかそう思った。
「あなたへの見返りは黄金のサレチュリアが育ったらそれを渡せばいいのかしら?」
「対価はサレチュリアそのものというよりも、実験を通じて花が金に染まる根拠を私に教えてくれたらそれでいい」
「そんな曖昧なものでいいのですか?」
「かまわないよ。実物よりも知識を得るほうが何倍も役に立つ」
ライラの与えた知識で黄金のサレチュリアを量産する気なのか。意外に欲張りな人だ。
「逃げるのは、準備が整ってからだ。サレチュリアを連れて行きたいのなら、土壌や生育環境など受け入れる側の準備が必要だ。それまでは視察などに備えて、植え付け面積を減らしながらも普通どおりに過ごす。そのほうが周囲にも気づかれにくい」
「わかりました、よろしくお願いします」
彼の差し出した手をライラは握り返した。悪魔の囁きにのせられた気分だ、でも悪くない。だって私は忌み子なのでしょう、かまうものですか!
「どうやってここから逃げますか?」
「私に考えがある、そこは任せてほしい」
それにしても、とギルさんは首をかしげた。
「君はずいぶんと歪な環境で育ったようだね。いまだに根強く残っているけれど、地域によってはそこまで忌み子に対する偏見は酷くはない。少なくとも我々のような研究者は君達を忌み子とは呼ばないよ」
「どういうことですか?」
忌み子でなければ、私は何者なのだろう?
口を開きかけたところで、いきなり扉が開いた。
「ちょっと二人とも、床に膝をついて何しているの?」
「ええと、話を……」
あ、シエルさんのことを忘れていたわ!
困惑したような私の声をさえぎって、シエルさんの呆れたような声が聞こえた。
「話って、その格好で?」
「見たままだ、床に座って話をしていただけだよ」
椅子があるのに床に座って話すなんて普通はしないだろう。私の固い表情にシエルさんは眉を跳ね上げた。
「ねえ、何を話していたの?」
「ちょうどいい、確認したいことがある」
「何を?」
「話してみたけれど、この子はずいぶんと知識が偏っているね。それは君がわざとそうなるように仕向けたの?」
どことなく悪意を匂わせる言葉に、シエルさんは目を見開いて顔色を変えた。
「ちがうわ、養育したのは別の人間よ!」
「ならばこの子はもっと学ばなくてはならない。大切な知識が欠けているからだ」
「え?」
「近いうちに一度、私をここへ連れてきて欲しい」
面倒なことになったいう顔でシエルさんは首を振った。
「何を言い出すかと思えば……! それはできないわ。黄金のサレチュリアに興味を持つ研究所や研究者はたくさんいるの。あなただけを特別扱いするわけにはいかないのよ。それにもし知識が足りていないというのなら、ライラさんには公的な教育機関を紹介するわ」
「えっ⁉︎」
「学校へ通うほうが同年代の友人もできて楽しいはずよ! あなたもそう思うでしょう?」
キラキラした眼差しが、言外に厚意からくる言葉だということを語っている。でもシエルさんは私の髪のことを知らない。学校に通ったとすれば、常に帽子をかぶって髪を隠すわけにはいかないだろう。逃げる覚悟を決めたはずなのに、不特定多数の視線にさらされると思うと体が震える。そんな私の背をギルさんは軽く叩いた。
大丈夫だよ、と。
「彼女の不足する知識は学習面じゃない。このままでは命に関わる」
「こんな面倒なことになるなら、あなたを連れて来なければよかっ……え、それはどういうこと?」
「私の予想が当たっていれば将来的にそうなるだろう」
命に関わるとは。一体、どういう意味なのだろう?
これからは毎日一話づつ更新になります(いつものようにストックが切れるまでです)。お楽しみいただけるとうれしいです。