星の花屋と白昼夢のような
彼ーーーーギルバート・コーエン、今はギルさんと呼んでいる。
彼との出会いはライラにとって白昼夢のような出来事だった。
「こちらが例のサレチュリア畑ですわ」
少し離れた場所からシエルさんの声がする。いつものように、彼女の横には作業着に身を包んだ視察希望者が立っていた。途切れ途切れにしか会話は聞こえないけれど、肥料の割合、株の成長具合や黄金のサレチュリアが採取された場所との差を熱心に確認しているようだ。
視察というのは生産業者が外部の人間を受け入れる実地の勉強会のようなもの。同じ植物を育てる生産業者であれば他者の技術を学ぶ機会となるだろうし、貴族などの富裕層は地場産業を発展させるための参考にするのだとか。
薄茶の髪に、淡い茶の瞳。彼は想像よりもずっと若い男性だった。研究について話すときは少し饒舌になったものの、それ以外にはあまり関心がない人のようだった。強さすらにじませた彼の瞳は、ただひたすらにサレチュリアへと注がれている。真面目で研究熱心な人という第一印象と大きく違いはなさそうだ。
研究熱心の度合いが過ぎて、あんなことまで聞いてきたのかしら?
ライラは彼の質問を思い出して首をかしげた。あれは事前に質問したい内容を紙に書いて送ってもらったときのこと。質問内容には生産者の身長、体重、性別に関する内容が記載されていた。そのうえ嗜好品や、趣味まで……?
あのときは、まるで身上調査みたいだと驚いたのよね。
一瞬、宛先を間違えて送られてきたのかと思ったライラはシエルさんに確認したのだ。すると内容を聞いたシエルさんも通信用魔道具の受話器の前で言葉を失っていた。
「……あのバカ、お見合いと勘違いしてる?」
そしてあわてて問い合わせてくれた結果、これは間違いではなく本物だということがわかった。生産者の性差や行動、嗜好が植物の生育に影響を与える可能性があるかを調べたいという、なんとなく納得できるような、そうでもないような理由。
何をどこまで話すべきなのだろう。自分のことなのに、自分のことが一番よくわからない。
ザッと強く風が吹いて、サレチュリアの花びらが舞った。
っといけない、作業しないと。軽く首を振ると気合を入れ直して作業に集中する。畑に水をやり、雑草を抜いて。いつものように無心になって畑の手入れをしていると、まるで警戒を促すように、サレチュリアの葉が擦れるような音を立てた。
視界の端を作業着のようなものが掠める。集中していたために気づくのが遅れたらしい。心臓が激しく音を立てた。思いのほか近い場所に人の気配がある。被った帽子を深く被り直し、横目で二人の様子を探った。
……うん、大丈夫。たぶん私の存在など気にもとめていないわ。
邪魔にならないよう、さりげなく距離をとろうと立ち上がる。ところがあわてたせいか、何もないところなのに足元がふらついた。転びそうになった私の身体をとっさに差し出された誰かの腕が支える。
「足元がおぼつかないようだが、大丈夫か?」
聞き覚えのない低音は男性の声であることの証。手を出されたのは支えるためだということは理解できたけれど、驚いて肩が跳ねる。彼は私の動揺に気がついて腰を支えた手を引いた。心臓がバクバクと嫌な音を立て、緊張のために口元が小刻みに震えた。
「どうした、気分が悪いのか?」
い、いけない。不審に思われる前に何か答えないと!
焦るけれど言葉が出てこなかった。震えるだけで反応できない私をいぶかしく思ったのか、彼が眉をひそめる。
「顔色が悪い。少し休んできたらどうだ?」
重ねられた言葉は私を気遣うもので。表情からはわかりにくいけれど優しい人らしい。
「……あ、ありがとうございます」
震える声でお礼を言うとあわてて背を向けた。すると彼は何かに気がついた様子で手を伸ばす。
「君、ちょっと待ちなさい」
危険なものを感じて、とっさにその手を振り払った。無言のまま踵を返せば背中に彼の視線を強く感じる。鼓動がこんなにもうるさく響くのはなぜだろう。熱を帯びたような体が、さらにふらりと揺れた。
……なんだろう、とにかく気持ちが悪い。
ここ半年ほど軽い風邪を引いたような症状が続いているのと何か関係があるのだろうか。季節の変わり目のせいか、それとも途切れることなく続く視察の緊張のためかしら?
このところ熱っぽくて身体が不安定に揺れることがあった。やはり少しだけ休憩しようと家に向かって歩き出した、そのときだった。
目視でも確認できるくらいに、はっきりと家屋が振動している。
一瞬見間違いかと思ったほどだ。この家を引き継いで以来、はじめての出来事。そして停止した脳を必死に動かして、ようやく繰り返し母が口にしていた大事なことを思い出した。
「家屋の激しい揺れは畑を守護する結界に想定を越える負荷が掛かっている証拠です」
家屋を起点とした結界は一帯に広がるサレチュリアを保護するためにあるもの。この結界が壊れてしまえば、サレチュリアがダメになってしまう。目を凝らすと、大小さまざまな大きさの石や木片だけでなく普段は見られないような大量の土砂が結界に当たって砕けていく様子が見えた。
もしかして強い風が吹いているのかしら?
強い風は花を散らし、若芽を傷める。雨ではないとすれば、思い当たる原因はそれくらいだ。とにかく急いで家に戻ろう。走り出したとしたところで、シエルさんが通信用の魔道具越しに話している声が聞こえた。珍しく焦っている。耳を澄ませば彼女の声がもう一段大きくなった。
「こんなときに通信障害、ちょっと聞こえないわ! えっ、竜巻がこの地点を通過するって、それはいつ……ええ、もうすぐって⁉︎」
彼女の視線がライラに向いた。時間がない、とにかく一刻でも長く結界を維持しなければ。ライラは勢いよく扉を開けて部屋に駆け込んだ。この結界が壊れたら、自分の命すらも奪われてしまう。偶然、この場に居合わせただけのシエルさんやギルさんの命も危うい。
ライラは部屋に駆け込むと制御装置に手をかざした。竜石を加工した結界の制御装置は頑丈な石組の一部に埋め込まれている。竜石とは地中深くに眠る輝石が長い年月をかけて結晶化したもの。大量の魔力を貯めることができ、特定の魔法を刻めば魔力の続く限り発動し続ける優秀な媒体となるものだ。その石が負荷に耐えかねているように、小刻みに揺れている。
「嘘でしょう」
結界を維持するための魔力が空に近いくらいまで失われていた。朝、いつものように満杯にした魔力がこれほどの速度で消費されることなんてはじめてのことだ。
「……この竜石は結界の要です。制御自体は竜石に組み込まれた回路を通じて自動的に行われます。ですが、それを動かす力となるのは全て魔力。貯めた魔力が空になると最悪の場合、竜石自体が割れてしまいます。そして一度割れてしまえば修復は不可能です。残量には十分に注意しなくてはなりません」
それが繰り返し教えられた約束事のうちのひとつ。あわてて竜石に手をかざし魔力を流した。だが石はわずかにその保有量を増やしただけで、流したはずの魔力が別の場所に吸い込まれてしまっているかのように消えていく。
おかしい、いつもと同じ手順を踏んだのになぜ貯まらないの⁉︎
原因を確かめたくとも、その間に魔力の残量が足りなくなくなれば結界自体が壊れてしまう。このまま魔力を足せばいいか、それとも不具合がないか調べるべきか。
経験したことのない事態にどちらが正しいか判断がつかない。途方に暮れたライラは不安に駆られて、思わず魔石にかざした手を離してしまいそうになった。
そのときだ、ふわりと背後の空気が動いて温かい何かが私の背に触れる。
「そのままで大丈夫だ。君が注いだ魔力は問題なく回路に流れているよ。ただ結界の維持が優先された結果、備蓄に回すことができないだけだ」
自分以外の誰かが家の中にいる。そう思った途端、身体が硬直して竜石から手が外れかけた。その手を一回り大きな手が軽く上から押さえつける。呆然としたライラの視界に紺の作業着が映った。
「いきなり触れてすまない。でも緊急事態だからね」
彼はそのまま私を囲うようにして反対側の壁に手を突いた。意図せず彼の懐に包まれるという体勢になった私は、衝撃のあまり頭が真っ白になる。彼の手に包まれたまま私の手が、さらに強く竜石へと押しつけられる。
「手が離れそうだ」
「……!」
「肩に力をいれずとも問題はないよ。ゆっくりと呼吸して……それから呼吸に合わせて魔力を注ぐ」
いいえ、問題はこの体勢なのよ!
焦る私とは逆に落ち着きはらった声と、背中越しに伝わる温もり。それが他人のものだと気がついているから、余計に落ち着かない。
「上手く調節できている。魔力操作にはずいぶんと慣れているようだね」
褒められたはずなのに言葉が右から左へと抜けていく。現実から逃避するように、ライラはどうでもいいことに気がついた。
人の体温って、こんなに温かいものなのね。
どこか切ないのに安心するような。経験したことのない感覚だった。
「それにしても、この制御装置はずいぶんと複雑な仕組みだ」
彼は私の手を押さえたまま、反対の手で竜石に刻まれた回路をなぞる。
「この結界はいつも誰が管理しているのかな?」
「わ、……僕が。こ、こには、使用人が僕しかいないので……」
「僕……ああそうか、君は男の子だったな。魔力を足しているのも、やはり君だけで?」
「それ、は、その……」
あえて僕と言い直したのは、かろうじてだけれどそういう設定だと思い出したからだ。
どうしよう、どうしたらいい?
次の瞬間。彼の身体がぐいと後ろに引かれ、同時に背中の温もりも遠ざかる。ライラは竜石に手を添えたまま横を向いた。すると鬼のような形相を浮かべたシエルさんがギルさんの襟首を掴み、私から引き剥がしたところだった。
「ギルバート・コーエン、あなた初対面の人間に対してずいぶんと馴れ馴れしい態度ではなくて?」
「そうかな。この程度の触れ合い、男同士なら許容範囲だろう?」
先ほどまでと違い、ずいぶんと気安い態度だ。砕けた口調に驚いてライラは目を丸くする。
「普通の程度は人によって違うのよ。ほら、こんなに怯えてるじゃない!」
「っと、たしかに。驚かせてすまなかった、許してもらえるだろうか?」
正面から顔を見て、彼はようやく私が泣きそうな表情を浮かべていることに気がついたらしい。相変わらず愛想をどこかに忘れてきたような無表情であったが、彼はためらうことなく謝罪の言葉を口にした。
大丈夫だという言葉が出ないかわりに、ライラはゆるく首を振る。でも鼓動は早いままだ。
……今の接触で、本当に気づかれなかった?
ライラを少年として扱うのは、シエルさんの配慮から始まったことだ。か弱い女性だと舐めて不躾な態度をとるかもしれないからと。そのためライラも声でバレないように相手とは話をしないようにしているのだが、先程は緊張のためにすっかり忘れていた。
彼は男同士の触れ合いだと言っていたわ。よかった、たぶん気づいていない。
ようやく緊張がとけて深く息を吐いた。彼は少しばかり気まずそうな表情を浮かべる。
「君は極度の人見知りらしいな。すまない、未知なる魔道具を見ると興奮して周囲の状況が見えなくなってしまうしまう質なんだ」
緊急事態だと察して手伝うつもりだったのが、竜石に気をとられて思わず質問攻めにしてしまったらしい。でもあやまってくれたし、根は悪い人ではなさそうだ。好奇心が強いだけで、まともに受け答えできないライラの態度を嘲笑うこともなかった。
それに彼が手を添えてくれたからこそ、竜石へ魔力を注ぐことができた。的確な助言があったからこそ、はじめての状況でも対処することができたのだ。
「あ、あの、ありがとうございます……」
「これも仕事のうちだ、気にしないでくれ」
そっけない返答だけれど、必要以上に踏み込むこともない。安心してライラは深く息を吐いた。シエルさんはギルさんの襟首を掴んで外に引き摺り出すと、魔道具で連絡をとる。掴まれている彼は、そのままおとなしく待機していた……非常に不本意そうな表情をしていたが。
大人なのに怒られたあとの表情は子供っぽいのね。
そんなところは、なんとなくかわいらしい。あ、でも男性にかわいいは失礼かな。
「竜巻は離れた場所で消滅が確認されたわ。もう心配はないそうよ、おつかれさま!」
通信を切ったシエルさんにライラはにっこりと微笑んだ。どうやら私があれこれ動揺している間に、竜巻は遠ざかっていたらしい。今はもう竜石の振動は収まっていて、添えた私の手からは備蓄へと回すための魔力が順調に吸い取られている。
「結界の外はひどい有様だわ。木は根元から倒れているし、重さのある石もずいぶんと遠くまで飛ばされている。ライラさんはよく頑張って結界を維持したわね。それに比べてあなたときたら……手伝うどころか立っているだけで邪魔しかしないなんて、空気くらい読みなさいよ!」
「しかしだな、研究者の目のまえに未知の魔道具がぶら下がっていたら普通にそちらへ意識がいくだろう⁉︎」
「あなたの普通は普通じゃないことを自覚しなさい!」
シエルさんは、いつもはっきりとものを言う。そして二人のように思ったことを言い合える関係が羨ましいと思った。私は母の教えるように良い子でいるため全て飲み込んでいたというのに。
正しいことのはず、でも二人の姿を見ていると正しい事には思えないのはなぜだろう。ライラは一瞬浮かびかけた感情に蓋をするように、そっと視線を伏せた。
「それにしても君は、ずいぶん保有できる魔力量が多いのだな。」
人の気配を感じると、いつの間にか隣に彼が立っていた。自然と視線が合う。彼の視線を伝い、注ぎ込まれる何か。身体の奥底に脈打つものに触れるような、不思議な感覚がした。
もっと君を知りたい。
そう話すような視線はライラにとって不愉快なものでなく、むしろ気分が高揚する。まるで何かを見極めようとしているみたいだ。声なき声に応えるように、ライラは視線を受け止めて、弾いた。
誰も知らないけれど私はここにいるの!
高揚した気分のままに見返せば、パチリと弾いた感覚がして彼の瞳が驚いたように見開かれる。弾いた感触は一瞬のもので、ライラ自身に不快感を伴うものでもなかった、けれど。
それまで無表情だった彼の口角があがった。蕾のように硬い表情がほころんで、柔らかな花が開いたのだ。
ーーーーああ、ここにいたのか。
ほころんだ表情からはそんな言葉が聞こえてきそうだった。
視線越しに伝わる声なき声、得体の知れない反応。ライラは夢から覚めたように、ハッと目を見開いた。気を許してはいけない、また裏切られる。思わずぶるりと身体が震えた。
警戒していたはずなのに、なぜこんな無防備なのだろう。ライラの中にある何かが警鐘を鳴らす。原因はわからないけれど、このひとは危険だわ。すると逃げ場を塞ぐようにギルさんが一歩私に近づいた。
「あ、あの……っ、シエルさん?」
助けを求めるように声をあげる。シエルさんは外部と魔道具で連絡を取っているようだった。しかもこちらの様子には気がついていない。逃げるよう彼女の元へと歩き出した私に彼の身体が近づいた。後ずさるとたちまち壁際まで追い詰められる。
「とても大事なことを確認したい」
「な、なんですいきなり……!」
「ひとつだけでいい、教えてくれないか?」
いやだと思うのに、まるで魅入られてしまったかのようで目が離せない。怯えるライラの目の前で、彼は後ろ手に組んだまま腰を屈める。
そして目線を合わせたまま囁いた。
「君は本当に少年なのか?」
竜石は、魔石のような物です。機械の電源や発電機の一部として使われる電気の要素を持ったもので、魔力を貯めることで電池や電源になるようなイメージです。お楽しみいただけるとうれしいです