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第八話 ヴァルク紙幣

 王宮財務府。


 部屋の空気は重かった。


「南部街道修繕費、一部未払い」


「巡察隊装備更新、無期限延期」


「教会支援費、全面凍結」


「魔術院研究開発費、大幅削減」


 報告が続くたび、羊皮紙が机へ積み上がっていく。


 未払い。


 延期。


 凍結。


 削減。


 ヴァルデン王国の財政は、もう限界へ近付いていた。


「……召喚儀式で失われた魔石備蓄の補填も、重い負担となっております」


 財務府官僚ライナー・シャハトは続ける。


 部屋が静まり返る。


 国家戦略級魔石。


 第1級備蓄。


 それを大量消費した異世界召喚。


 隣で聞いていた安藤は、少しだけ目を伏せた。


 自分たちは、王国へ莫大な負債を背負わせた存在でもある。


 もちろん、彼らが望んだことではない。


 だが、王国の経済が疲弊し、国庫が窮乏したままでは、送還魔術の実行など不可能だ。


 元の世界に帰してもらうためにも、安藤はこの国を立て直さなければならない。


     ◇


 そんな重い空気とは対照的に、部屋の中央では、国王ルドルフ四世と財務大臣ハインリヒが、リバーシ盤を睨んでいた。


「そこは悪手ですな」


「いや、まだ分からん」


「陛下、その形では次で角を取られます」


 シャハトが思わず口を挟む。


「黙れ、見えておるわ!」


 ルドルフ四世が叫んだ。


「……何やってるんですか」


 安藤は思わず言った。


「思考訓練だ」


「絶対違うでしょう」


 ハインリヒは真顔だった。


 数日前までルールすら知らなかった男とは思えない。


「序盤は石を増やしすぎない方が強いんです」


 安藤が盤面を指差す。


「そんな馬鹿な」


 ルドルフ四世が眉を寄せた。


「石は多い方が有利だろう」


「短期的には」


「ですが、返せる場所が増えると逆に不利になる」


 ハインリヒが腕を組む。


「……不思議な遊戯ですな」


 その時だった。


「失礼します」


 別の若手官僚が入室した。


「南部街道修繕費ですが、王都商会側より“金貨支払い以外は拒否する”との回答が」


 空気が変わる。


「やはりか……」


 ハインリヒが低く言う。


「地方商人も銀貨の退蔵を始めています」


 安藤は眉を寄せた。


 金貨が止まっている。


 人も資材も存在する。


 だが、貨幣だけが流通を止め、経済全体を停滞させていた。


「待ってください」


 シャハトが口を開いた。


「王国全体の流れを整理できれば、解決策が見えるかもしれません」


 安藤が視線を向ける。


「続けて」


「穀物備蓄」


「地方貸付」


「徴税予定額」


「未払い軍需費」


「これらを別々に管理しているから、王国全体が見えなくなっています」


 シャハトは羊皮紙を広げた。


「資産」


「負債」


「未回収債権」


「未払い債務」


「全部を、一つの表へ載せるべきです」


 シャハトは熱を帯びた口調で続ける。


「……財務諸表の中の、貸借対照表か」


 安藤は数日前、財務府へ立ち寄った際、貸借対照表と損益計算書の概念について、若手官僚らを集めて説明している。


 だが、ここまで短期間で理解し、王国財政へ落とし込んでくるとは思っていなかった。


 安藤は少しだけ笑う。


「お前だけ、理解が早いな」


 シャハトは少しだけ眉を上げた。


「アンディ殿の説明が明快だっただけです」


 どの世界にも、天才はいる。


「今の王国財政は、どちらかといえば家計簿に近い」


 シャハトは続ける。


「ですが、王国というものは、もっと巨大です」


「流れ全体を把握しなければなりません」


 ハインリヒが眉を寄せる。


「単式簿記のままでは、不十分だというのだな?」


「はい」


 シャハトは頷いた。


「王国全体の資金循環が見えていません」


 そして、少しだけ声を震わせる。


「……これなら」


「王国全体の流れを、把握できます」


 シャハトの筆は、もう止まらなかった。


 まるで、今まで見えていなかった世界が、一気に繋がり始めたかのようだった。


     ◇


 盤上では、まだ勝負が続いていた。


「なにっ、全部ひっくり返された!? 優勢だったのは余であるぞ!」


「だから申し上げたでしょう!」


「ぐぬぬ……!」


 白熱した勝負を終え、しばらく盤面を睨んでいたハインリヒも、ようやく顔を上げた。


「……待て」


「さっきからお前たち、何の話をしていた?」


 安藤は呆れ半分で答える。


「王国の財政、貨幣、租税に関する話です」


「王国の財務統計に複式簿記を導入します」


「まずは貸借対照表から整備し、王国全体の資産と負債を管理する」


「それから、ヴァルデン王国の新貨幣を発行します」


「紙切れで国家が回るものか!」


 ハインリヒが叫ぶ。


 だが、ルドルフ四世は静かに笑った。


 異世界の“映像端末”で見た文明を、彼は忘れていない。


 空を飛ぶ鉄の鳥。


 夜を照らす街。


 山を貫く鉄の道。


 仕組みまでは理解できなかった。


 だが、あの小さな映像端末の中に、自分たちとは比較にならない文明が存在していることだけは分かった。


 あの世界の知識が本物ならば、この男たちは、本当に王国を変えるのかもしれなかった。


「余には細かい理屈は分からん」


 王は笑う。


「だが、お前たちは、この国を前へ進めようとしているのであろう。して、新貨幣の名は?」


 少しだけ沈黙。


「ヴァルク」


 安藤は静かに言った。


「ヴァルデンの、新しい貨幣です」


 シャハトが、その名を小さく反芻した。


「ヴァルク紙幣か……」


 硬貨とは異なる、軽やかな響きだった。


 だが、その名には、不思議と未来を感じさせる力があった。


「貨幣とは、金銀のことだ。含有量で価値や信用が決まる」


 ハインリヒが低く言う。


「ええ、それは間違っていません」


 安藤は頷いた。


「金属貨幣は長期間保存でき、持ち運びもしやすかった」


「だから広く普及したのでしょう」


「貨幣には、大きく三つの役割があります」


「物と交換できること」


「価値を測れること」


「そして、価値を保存できることです」


 ハインリヒは腕を組んだまま聞いている。


「ですが商取引が拡大すると、大量の金貨を運ぶのは危険で非効率になります」


「そこで生まれたのが、“預かり証”です」


「預けた金の代わりに紙を持ち歩く」


「その仕組みが、信用貨幣の原型になりました」


「……なるほど」


 ハインリヒが低く唸る。


「これまでも王家は、商人へ証文を発行していましたよね」


「借用証書だ」


 ハインリヒが頷く。


「遠征費や軍需では珍しくない」


「それを譲渡可能にするんです」


「王家の証文を、誰でも売買できるようにする」


 部屋の空気が変わる。


「そもそも貨幣とは、譲渡が可能な債権です」


「言わば、王国の信用と徴税権を担保にした証文」


「それが、ヴァルク紙幣です」


 シャハトが息を呑む。


「……だから支出が先、徴税は後なのか」


 安藤が頷く。


「そう」


「まず王国が、ヴァルク紙幣で支出する」


「公共事業」


「教育」


「教会支援」


「兵士給与」


「それによって市場へ流通させる」


「支出が先、徴税は後」


「それが貨幣流通の始まりになる」


 シャハトは途中から完全に無言になっていた。


 羊皮紙へ、凄まじい速度で何かを書き込んでいる。


「資金循環表です」


 誰も聞いていないのに答えた。


「ヴァルク発行後、貨幣が王国内をどう循環するか整理しています」


 安藤は少し笑った。


 この男、もう止まらない。


 そのやり取りを、部屋の隅で静かに聞いていたアーデルが、ゆっくりと口を開いた。


「……面白い」


 低い声が響く。


「だが、紙切れへ価値を持たせるには“信用”が必要です」


「領民が、それを王国の金と信じねばならない」


「地方商人どもは反発するでしょうな」


 ハインリヒは言い放った。


「金貨以外は認めぬ、と騒ぐ者も出る」


「辺境の領主連中もだ」


「徴税権に王家が踏み込んだと考える者もおります」


 だが、マティアス王子は、静かに羊皮紙を持ち上げた。


 一瞬、空気が止まる。


「ならば、余の名を使えばよい」


「余のことは誰もが知っておる」


 王子は静かに言った。


「余の名が、この国の未来を支えるのであれば」


「王家は、その責を負おう」


 それは、単なる署名ではなかった。


 王家そのものが、未来へ信用を差し出すという意味だった。


     ◇


 その夜。


 王宮地下工房。


 机の上には、三種類のヴァルク紙幣が並んでいた。


 青銀色の特殊インク。


 ヴァルクを現す、巨大なV紋。


 意匠を凝らした王家の紋章。


 精巧な透かし。


 さらに光へかざすと、角度によって魔力紋が淡く揺らいだ。


「偽造防止術式を刻印」


 アーデルが静かに魔力を流す。


「破損防止術式も組み込みます」


「水濡れ、裂傷、経年劣化へ耐性付与」


 さらに、マティアスが、自らの血をわずかに垂らした。


 王家の魔力署名。


 王国信用の象徴。


 そして、安藤が膨大な魔力を流し込む。


 紙が震えた。


 紋様が浮かび上がる。


 誰も言葉を発しなかった。


 ただ、青い魔力紋だけが、静かに揺れていた。


「これが……」


 シャハトが呟く。


「ヴァルク紙幣……」


 それは、ただの紙切れではなかった。


 ヴァルデン王国最高技術の結晶だった。


     ◇


 数日後。


 王都。


「給金がヴァルク払いになったぞ」


「今年から納税もヴァルクらしい」


「なんだこれ……?」


 兵士は恐る恐る紙幣へ触れた。


「軽い……」


 だが、青い魔力紋は、確かな存在感を放っていた。


「税で納められるなら、本物なんだろ」


 商人が呟く。


 国家が税で受け取る。


 それが、貨幣へ価値を与える。


 少しずつ。


 ゆっくりと。


 ヴァルク紙幣は、王国へ広がり始めていた。


 ルドルフ四世は、ゆっくりと椅子へ背を預けた。


「……面白い」


「時代が動く時とは、いつもこういうものか」


 安藤は窓の外を見る。


 ヴァルク紙幣は、まだ始まりにすぎない。


 だが王都の外では既に、ヴァルクを拒絶する領主たちが、静かに動き始めていた。

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