第二十三話 風の異世界人
勝敗は、すでに決していた。
ルーシェ皇国軍は国境へ向けて退却を続けている。
皇帝ヴァレンティン九世を乗せた本隊は、すでに国境の彼方へ退いていた。
だが、その後方ではなお戦いが続いている。
アレクセイ・ドラゴミロフが指揮する殿軍が隊列を保ちながら後退し、それをヴァルデン王国軍が執拗に追撃していた。
ルドルフ四世は重騎兵の先頭で馬を駆る。
勝敗は決したとはいえ、このまま敵を逃がすつもりはなかった。
一兵でも多く討ち取れば、それだけ皇国は立ち直りに時間を要する。
国境地帯の平和も、より長く保たれる。
勝者だからこそ、最後まで手を緩めるわけにはいかなかった。
「追え!」
王の号令に応じ、ヴァルデン王国の重騎兵が速度を上げる。
皇国軍もまた、ただ逃げるだけではない。
後衛部隊が時折反転し、矢と魔術で追撃を牽制する。
その隙に主力は隊列を乱さぬまま国境の奥へと距離を稼いでいく。
双方が幾度も刃を交えながら進む、長い退却戦となっていた。
一方――。
街道脇の深い窪地。
人の気配はない。
いや、正確には見えていないだけだった。
「そのままだ」
ミハイル・ヴォローニンが静かに囁く。
隣ではイワン・オルロフも杖を掲げ、魔力を流し続けていた。
二人が維持している認識阻害の魔術は、姿そのものを消しているわけではない。
人の認識をわずかに逸らし、「そこに誰もいない」と思わせる魔術だった。
広く開けた場所では効果は薄い。
だが、街道が狭まり、木々や岩肌によって視界が限定される地形では話が違う。
人は前方の敵へ意識を集中させるほど、周囲への注意が散漫になる。
その一瞬の隙を突くためだけに、この魔術は存在していた。
「ここなら、見破られない」
ミハイルが小さく笑う。
その言葉に応えるように、槍を握る騎兵たちが無言で息を潜めた。
先頭に立つのはアレクセイ。
その隣には、大剣を肩に担いだセルゲイ・ヴォルコフ。
アレクセイは街道の先を静かに見据えていた。
焦りはない。
王を誘い込むため、この街道へ追撃軍を引きつけ続けてきた。
罠は完成している。
だが、戦場に絶対はない。
戦いに勝ったときこそ、人は隙を見せる。そのことを、アレクセイは幾度となく戦場で見てきた。
だからこそ、最後の一瞬まで待つ。
あとは獲物が自ら飛び込む、その瞬間だけだった。
やがて、大地を震わせる馬蹄の音が近づく。
ヴァルデン王国の重騎兵。
その先頭には、黄金の装飾を施した王の甲冑。
ルドルフ四世。
「……来た」
アレクセイが静かに呟く。
しかし、まだ動かない。
重騎兵は認識阻害の魔術がかけられた伏兵のすぐ脇を、何事もなく駆け抜けていく。
誰一人、視線すら向けない。
術は成功していた。
アレクセイはなおも手を上げない。
もう一歩。
あと一歩。
王が完全に包囲の中央へ踏み込む、その瞬間だけを待つ。
そして、その先では――。
街道いっぱいに、大盾を構えた皇国軍歩兵が整然と隊列を組んでいた。
敵の増援である。
何重にも並んだ巨大な盾。
その隙間から突き出される無数の長槍。
敗走していたはずの皇国軍とは別働隊。
ここは、すでにルーシェ皇国の領内だった。
「……っ!」
ルドルフ四世は手綱を引く。
追撃は、そこで初めて止められた。
前方は鉄壁。
突破には時間がかかる。
その一瞬だった。
アレクセイの右手が静かに振り下ろされる。
「今だ!」
号令が谷間に響く。
街道脇から一斉に騎兵が飛び出した。
認識阻害の魔術を解いた伏兵が、王の背後へ雪崩れ込む。
「伏兵だ!」
誰かの叫びが響く。
だが、遅かった。
前方には大盾歩兵。
後方にはアレクセイ率いる騎兵。
左右には逃げ場のない斜面。
さらに、その中央へセルゲイ・ヴォルコフがゆっくりと馬を進める。
王の退路は、完全に断たれた。
アレクセイは包囲を見渡し、小さく息を吐く。
ここまでは、狙いどおりだった。
敵は王を救うため、必ず戦力を集中させる。
その焦りが陣形を乱し、こちらに好機をもたらす。
戦場では、勝利が見えた瞬間こそ最も判断を誤りやすい。
だからこそ、ここで欲を出さない。
ゆえに、彼は冷静さを失わない。
まずはヴァルデン王を討つ。
それ以外は、すべてその後でいい。
アレクセイの視線が静かにルドルフ四世を射抜く。
そしてセルゲイもまた、無言のまま大剣を構えた。
「陛下!」
ヴォルフラム・アイゼンが叫ぶ。
前方では、王が敵に包囲されている。
ヴォルフラムは剣を掲げた。
「前方の陛下を救う! 突破しろ!」
号令とともに騎兵が一斉に加速する。
ラルフ・ディートリヒ、ルーカス・ベルナーもそれに続いた。
さらに後方からは、ヴィクトル・アイゼンハルト率いる傭兵団が到着しつつあった。
しかし、その行く手を幾筋もの光が遮った。
「足を止めろ」
イワン・オルロフが静かに杖を掲げる。
直後、街道を横切るように風刃が走る。
ミハイル・ヴォローニンも間髪入れず詠唱を重ねた。
土煙が巻き上がり、閃光が視界を覆う。
さらに街道脇の地面が盛り上がり、馬の進路を塞いだ。
「くっ……!」
騎兵隊は思わず速度を緩める。
魔術そのものよりも、進路を失うことが致命的だった。
そのわずかな遅れ。
それこそがアレクセイの狙いだった。
「セルゲイ」
「ああ」
短い返事だけで十分だった。
セルゲイ・ヴォルコフがルドルフ四世の前へ馬を進める。
巨大な大剣がゆっくりと持ち上げられた。
「ヴァルデン王よ」
低く響く声。
ルドルフ四世も剣を構え直す。
「来るがいい」
次の瞬間。
大剣が唸りを上げた。
激突。
凄まじい金属音が街道に響き渡る。
王の剣がセルゲイの大剣を受け止める。
だが、その一撃だけで馬体が大きくよろめいた。
(重い……!)
尋常ではない。
まるで巨大な鉄塊そのものを振り下ろされているようだった。
護衛の騎士が横合いから斬りかかる。
セルゲイは振り向きもしない。
大剣を横薙ぎに払う。
鈍く、重い一撃。
それだけだった。
しかし、護衛の胸甲は紙のように裂け、そのまま馬上から崩れ落ちる。
「なっ……!」
ラルフが息を呑んだ。
グランフェルトでも見た光景だった。
禍々しいあの魔剣。
鎧ごと人を断ち切る、常識外れの斬撃。
理由は誰にも分からない。
ただ一つ分かるのは、まともに受ければ終わりだということだけだった。
セルゲイは再び王へ向き直る。
重い一撃。
二撃。
三撃。
受けるたびにルドルフ四世の腕が痺れる。
ついに体勢を崩した。
その隙を逃さず、魔剣が胸元をかすめる。
「ぐっ……!」
鮮血が甲冑を染める。
深手ではない。
だが、傷口から血が止まらない。
王は馬上で眉をひそめた。
(浅い……はずだ……)
それでも血だけが流れ続ける。
魔剣の呪いなのか。
それとも別の力なのか。
誰にも分からない。
「陛下!」
ヴォルフラムたちはなおも突破を試みる。
しかし、魔術師たちの妨害は激しさを増すばかりだった。
風刃が走る。
土壁がせり上がる。
閃光が視界を焼く。
あと数十歩。
その数十歩が、どうしても届かない。
その時だった。
「風の付与が使える奴はいないか!」
後方から黒田健太郎の大声が響いた。
「誰でもいい! 俺に風を乗せてくれ!」
傭兵たちが顔を見合わせる。
「エーファ!」
ヴィクトルが振り向く。
「クロダ殿に付与魔術をかけてやれ」
その声に応え、一人の若い女が馬を進めた。
「あたしの出番かな」
長い栗色の髪を後ろで束ねた、美しい女剣士だった。
鎧越しにも分かる均整の取れた体つき。
細身の剣を佩き、腰には短杖を下げている。
エーファは肩をすくめて笑う。
「やっぱ、あたしか」
ヴィクトルは黒田へ親指を向ける。
「安心してくれ」
「彼女は若いが、うちのエースだ」
エーファは苦笑しながら短杖を抜いた。
「紹介はあとね。すぐにかけるから」
「高度な魔術は無理だけど、付与くらいならできるし」
エーファは短杖を軽く回しながら黒田を見た。
「ちゃんと制御してよ。振り回されても責任持たないから」
「死ぬよりマシだ」
黒田は迷わず槍を構える。
エーファの口元がにやりと吊り上がった。
「そういう返事、嫌いじゃない」
短杖を握る手に魔力が集まる。
風が渦を巻き始めた。
翠色の光が黒田の身体を包み込む。
風属性の魔力が身体へ流れ込む。
筋肉が熱を帯びる。
骨の奥まで力が満ちていく。
ここまでは、付与魔術としては珍しくない。
だが、そのまま終わらなかった。
風がなおも黒田の身体へ流れ込み続ける。
エーファの眉がわずかに動く。
付与が止まらない。
まるで黒田の身体が、魔力を吸い込んでいるかのようだった。
黒田の全身を、さらなる風が駆け抜ける。
髪が逆立つ。
血液そのものが加速したような感覚。
視界が一気に研ぎ澄まされる。
心臓が力強く鼓動する。
(……来た)
何度も経験した感覚だった。
異世界人として召喚された黒田の肉体は、流れ込む風属性の魔力を異様なまでに受け入れていく。
その加護は、常人なら身体が耐えられないほどにまで高まっていた。
「行くぞォッ!!」
地面を蹴る。
馬が矢のように飛び出した。
いや、飛んだようにすら見えた。
風が背中を押し続ける。
その加速に、後続の騎兵たちが一瞬置き去りにされる。
「速っ!?」
エーファが思わず目を丸くした。
「何あれ……」
ヴィクトルも思わず苦笑する。
「付与が乗りすぎてやがる」
「普通なら身体が先に壊れる」
エーファは呆れたように黒田の背中を見送った。
「……死なないでよ」
誰にも聞こえないほど小さな声。
「せっかく面白そうな奴なんだから」
その頃、セルゲイはなおもルドルフ四世へ大剣を振るっていた。
一撃。
二撃。
三撃。
王は傷を負いながらも懸命に耐える。
そこへ。
「どけぇぇぇッ!!」
怒号とともに、一筋の風が街道を駆け抜けた。
セルゲイの視線が動く。
さきほどまで後方にいた黒髪の異世界人。
槍を構えた彼が、信じ難い速度で突っ込んできていた。
「……速い」
思わず漏れた一言。
直後、槍と魔剣が激突した。
甲高い金属音が谷間に響き渡る。
黒田は歯を食いしばり、そのままセルゲイを押し返した。
馬が半歩、後ろへずれる。
セルゲイの眉が、わずかに動いた。
(この速度……)
ただ魔術の付与を受けただけではない。
あの一瞬で間合いを詰め、魔剣の軌道を読み切った。
身体能力が、先ほどまでとは別物だった。
セルゲイは口元をわずかに緩める。
「面白い」
その視線は、もはやルドルフ四世だけを見てはいなかった。
眼前の異世界人を、一人の武人として見据えていた。
セルゲイは押し切るつもりだった。
グランフェルトで戦った時、この異世界人は体格こそ優れていたが、技量では相手にならなかった。
それは事実だった。
だから、受け止められることはあっても、押し返されることはない。
そう思っていた。
「……っ!」
押された。
魔剣を受け止めた槍が、そのまま大剣を弾き返す。
セルゲイの馬が半歩後退した。
(何だ、この力は)
間髪入れず、黒田の槍が突き出される。
速い。
しかも重い。
セルゲイは大剣で受け流す。
しかし次の一撃がもう来る。
右。
左。
踏み込みながらの突き。
圧倒的な速度が、槍の長い間合いをさらに凶悪なものに変えていた。
(前とは別人か)
以前の黒田は、恵まれた体格だけで押してくる男だった。
戦い方は変わらない。
変わったのは、その身体能力だ。
異常な風魔術の付与により、筋力も反応も踏み込みも、常人の域をはるかに超えていた。
セルゲイは槍の軌道を見切りながら、小さく息を吐く。
(なるほど)
(これが風の異世界人か)
先に現れた土の異世界人は、国の在り方そのものを変える男。
ならば目の前の男は違う。
純粋な武によって戦場を切り開く存在だった。
セルゲイの口元が、わずかに吊り上がる。
「面白い」
魔剣が唸る。
黒田は槍を返し、その斬撃を紙一重で逸らした。
地面が大きく抉れる。
もし直撃していれば、鎧ごと両断されていただろう。
それでも黒田は怯まない。
「まだだァッ!!」
再び踏み込む。
槍の石突で大剣を押し上げ、そのまま穂先をセルゲイの喉元へ滑らせた。
セルゲイは首をわずかに傾ける。
穂先が頬をかすめた。
一筋の血が流れる。
静まり返る一瞬。
セルゲイは指で血をぬぐい、それを見つめた。
(俺が……傷を負った)
技量ではなお自分が上だ。
それでも押し込めない。
純粋な膂力。
異様な瞬発力。
そして恐れることなく踏み込んでくる胆力。
この男は、一瞬だけ自分と同じ領域へ踏み込んできていた。
その間にも、ヴォルフラムたちは王のもとへ到達する。
「陛下!」
ヴォルフラムが馬を寄せる。
ルドルフ四世は大量に出血していたが、まだ意識はあった。
「すまぬ……ヴォルフラム」
「お言葉は後です」
ヴォルフラムは王を自らの馬へ移した。
「撤退だ!」
ラルフとルーカスが左右を固める。
騎兵たちは即座に馬首を返した。
セルゲイは追おうとする。
しかし、その前に黒田が槍を構えて立ちはだかった。
「行かせねぇ」
短い一言。
その背後では、王を乗せた騎兵隊が国境へ向かって走り始めていた。
セルゲイは大剣を構え直す。
黒田も槍を低く構える。
二人の間に、張り詰めた静寂が落ちた。
先に動いたのはセルゲイだった。
魔剣が唸りを上げる。
黒田は踏み込まず、槍で受け流す。
衝撃が腕を貫いた。
(重い……!)
風の付与を受けた今でさえ、この一撃だ。
身体の奥まで震えが伝わる。
まともに受け続ければ、いずれ槍ごと押し潰される。
だから黒田は止めない。
流す。
逸らす。
踏み込ませない。
それだけに徹した。
セルゲイも理解する。
(時間稼ぎか)
勝つためではない。
倒すためでもない。
王を逃がす、その数十秒だけを稼ごうとしている。
それが分かるからこそ、苛立ちはなかった。
むしろ戦士として感心していた。
「いい判断だ」
黒田は答えない。
槍を繰り出す。
セルゲイは大剣で払う。
再び火花が散った。
その時だった。
「黒田!」
後方から一騎の馬が駆け込んできた。
安藤悠真だった。
アウエンハーフェンを落とした安藤は、魔術師が足りていないだろうことを不安視し、ここまで馬を飛ばして追いついてきた。
黒田は視線だけを向ける。
「アンディ、説明してる暇はない」
「分かった」
「追ってきてる敵は多くない。でも、ヤバい奴らがいる」
安藤は一度だけうなずく。
セルゲイ。
アレクセイ。
そして高位の魔術師が二人。
それだけ聞けば十分だった。
「時間を稼げ」
「任せろ」
黒田が笑う。
安藤も馬を並べた。
二人だけが、撤退する騎兵隊の最後尾に立つ。
黒田は槍を構える。
安藤は静かに杖を握る。
土魔術の詠唱を始めた。
街道の土が低く唸る。
石が震え、小さな砂粒が宙へ浮かび始める。
その光景を見たアレクセイは、わずかに目を細めた。
土の異世界人。
グランフェルトで城壁を崩し、戦場そのものを書き換えた男。
その男が、今まさに詠唱を始めている。
土塁か。
落とし穴か。
それとも、あの常識外れの地形操作か。
アレクセイは一瞬で幾つもの可能性を思い描く。
どれ一つとして、軽視できるものはなかった。
分からぬものほど危険だ。
アレクセイは静かに手綱を引いた。
「……追撃は中止だ」
副官が驚いたように振り向く。
「ですが!」
「敵はもう退却しています!」
「だからだ」
アレクセイの声は静かだった。
「少数だからこそ危険だ」
その一言で、副官は口を閉ざした。
アレクセイの判断に異を唱える者はいなかった。
セルゲイは大剣を肩へ担ぎ直した。
その視線は黒田から離れない。
しばらく見つめた後、ゆっくりと口を開く。
「風の異世界人」
黒田も槍を構えたまま視線を返す。
「見事な槍だった」
低く落ち着いた声だった。
勝者が敗者を見下すような響きではない。
同じ戦場に立った戦士へ向ける、率直な賛辞だった。
黒田は苦笑する。
「そりゃどうも」
セルゲイは小さく頷く。
「いずれまた戦場で会おう」
「ああ。その時は勝つ」
短い返答に、セルゲイの口元がわずかに緩む。
「楽しみにしている」
セルゲイが馬首を返す。
それを合図に、ルーシェ皇国軍もゆっくりと反転を始めた。
アレクセイは最後に一度だけ安藤へ視線を向ける。
土の異世界人。
風の異世界人。
二人が並び立つ姿を静かに目に焼き付ける。
この二人が成長を続ければ、次に戦う時は今日のようにはいかない。
そんな予感だけを胸に、そのまま部隊を率いて戦場を後にした。
やがて敵影が完全に見えなくなる。
緊張が解けた瞬間だった。
「はぁっ……」
黒田は大きく息を吐き、槍を地面へ突き立てた。
全身から力が抜ける。
膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになる。
「大丈夫か」
安藤が馬を降りて駆け寄る。
黒田は苦笑しながら肩を回した。
「助かった」
「傭兵隊に風魔術使えるやつがいてさ。付与をかけてもらって、それでようやく互角だった」
腕を握る。
脚も痛い。
肩も背中も、全身が鉛のように重い。
「あれの反動で身体中が痛い」
安藤は呆れたように笑った。
「随分と無茶をしたな」
「しないと、陛下が死んでた」
「……そうだな」
二人はしばらく黙って国境の方角を見つめた。
王は救えた。
だが、勝利の代償は決して小さくない。
ルドルフ四世は深手を負い、多くの兵も命を落とした。
そして何より――。
ルーシェ皇国には、セルゲイ・ヴォルコフという怪物がいる。
その事実が、二人の胸に重く残っていた。
「明日はもっと痛ぇぞ、これ」
黒田が顔をしかめる。
安藤は思わず笑う。
「嫁に手当てしてもらえ。自業自得だ」
「違いねぇ」
黒田も笑った。
身体は悲鳴を上げている。
それでも後悔はなかった。
王は生きている。
仲間も生きている。
それだけで十分だった。
ふと黒田は、風をまとわせてくれたエーファの顔を思い出す。
「……ちゃんと礼、言わないとな」
「ん?」
「いや、こっちの話」
ふと、遠くから歓声が聞こえてきた。
王を救った槍の英雄・黒田健太郎を讃える声だった。
「ケンタウロ!」
「ケンタウロス!」
最初は数人だった。
それが次第に広がり、やがて帰還する兵たちの間から大合唱となる。
「ケンタウロ!」
「ケンタウロス!」
黒田は顔をしかめた。
「……何だ?」
安藤が吹き出す。
「健太郎って呼んでるつもりなんじゃないか」
「いや、どう聞いてもケンタウロスだろ」
「手でも振ってやれよ、ケンタウロスさん」
「うっせぇぞ、アンディ」
そう言いながらも、黒田は照れくさそうに片手を軽く上げる。
歓声はさらに大きくなった。
「ケンタウロ!」
「ケンタウロス!」
歓声の中でも、ひときわ大きな声を張り上げる若者がいた。
黒田のことを慕うルーカスだった。
安藤と黒田は顔を見合わせ、小さく笑う。
「帰ろう」
「ああ」
二人は再び馬にまたがり、仲間たちの後を追った。




