表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/25

第二十三話 風の異世界人

 勝敗は、すでに決していた。


 ルーシェ皇国軍は国境へ向けて退却を続けている。


 皇帝ヴァレンティン九世を乗せた本隊は、すでに国境の彼方へ退いていた。


 だが、その後方ではなお戦いが続いている。


 アレクセイ・ドラゴミロフが指揮する殿軍が隊列を保ちながら後退し、それをヴァルデン王国軍が執拗に追撃していた。


 ルドルフ四世は重騎兵の先頭で馬を駆る。


 勝敗は決したとはいえ、このまま敵を逃がすつもりはなかった。


 一兵でも多く討ち取れば、それだけ皇国は立ち直りに時間を要する。


 国境地帯の平和も、より長く保たれる。


 勝者だからこそ、最後まで手を緩めるわけにはいかなかった。


「追え!」


 王の号令に応じ、ヴァルデン王国の重騎兵が速度を上げる。


 皇国軍もまた、ただ逃げるだけではない。


 後衛部隊が時折反転し、矢と魔術で追撃を牽制する。


 その隙に主力は隊列を乱さぬまま国境の奥へと距離を稼いでいく。


 双方が幾度も刃を交えながら進む、長い退却戦となっていた。


 一方――。


 街道脇の深い窪地。


 人の気配はない。


 いや、正確には見えていないだけだった。


「そのままだ」


 ミハイル・ヴォローニンが静かに囁く。


 隣ではイワン・オルロフも杖を掲げ、魔力を流し続けていた。


 二人が維持している認識阻害の魔術は、姿そのものを消しているわけではない。


 人の認識をわずかに逸らし、「そこに誰もいない」と思わせる魔術だった。


 広く開けた場所では効果は薄い。


 だが、街道が狭まり、木々や岩肌によって視界が限定される地形では話が違う。


 人は前方の敵へ意識を集中させるほど、周囲への注意が散漫になる。


 その一瞬の隙を突くためだけに、この魔術は存在していた。


「ここなら、見破られない」


 ミハイルが小さく笑う。


 その言葉に応えるように、槍を握る騎兵たちが無言で息を潜めた。


 先頭に立つのはアレクセイ。


 その隣には、大剣を肩に担いだセルゲイ・ヴォルコフ。


 アレクセイは街道の先を静かに見据えていた。


 焦りはない。


 王を誘い込むため、この街道へ追撃軍を引きつけ続けてきた。


 罠は完成している。


 だが、戦場に絶対はない。


 戦いに勝ったときこそ、人は隙を見せる。そのことを、アレクセイは幾度となく戦場で見てきた。


 だからこそ、最後の一瞬まで待つ。


 あとは獲物が自ら飛び込む、その瞬間だけだった。


 やがて、大地を震わせる馬蹄の音が近づく。


 ヴァルデン王国の重騎兵。


 その先頭には、黄金の装飾を施した王の甲冑。


 ルドルフ四世。


「……来た」


 アレクセイが静かに呟く。


 しかし、まだ動かない。


 重騎兵は認識阻害の魔術がかけられた伏兵のすぐ脇を、何事もなく駆け抜けていく。


 誰一人、視線すら向けない。


 術は成功していた。


 アレクセイはなおも手を上げない。


 もう一歩。


 あと一歩。


 王が完全に包囲の中央へ踏み込む、その瞬間だけを待つ。


 そして、その先では――。


 街道いっぱいに、大盾を構えた皇国軍歩兵が整然と隊列を組んでいた。


 敵の増援である。


 何重にも並んだ巨大な盾。


 その隙間から突き出される無数の長槍。


 敗走していたはずの皇国軍とは別働隊。


 ここは、すでにルーシェ皇国の領内だった。


「……っ!」


 ルドルフ四世は手綱を引く。


 追撃は、そこで初めて止められた。


 前方は鉄壁。


 突破には時間がかかる。


 その一瞬だった。


 アレクセイの右手が静かに振り下ろされる。


「今だ!」


 号令が谷間に響く。


 街道脇から一斉に騎兵が飛び出した。


 認識阻害の魔術を解いた伏兵が、王の背後へ雪崩れ込む。


「伏兵だ!」


 誰かの叫びが響く。


 だが、遅かった。


 前方には大盾歩兵。


 後方にはアレクセイ率いる騎兵。


 左右には逃げ場のない斜面。


 さらに、その中央へセルゲイ・ヴォルコフがゆっくりと馬を進める。


 王の退路は、完全に断たれた。


 アレクセイは包囲を見渡し、小さく息を吐く。


 ここまでは、狙いどおりだった。


 敵は王を救うため、必ず戦力を集中させる。


 その焦りが陣形を乱し、こちらに好機をもたらす。


 戦場では、勝利が見えた瞬間こそ最も判断を誤りやすい。


 だからこそ、ここで欲を出さない。


 ゆえに、彼は冷静さを失わない。


 まずはヴァルデン王を討つ。


 それ以外は、すべてその後でいい。


 アレクセイの視線が静かにルドルフ四世を射抜く。


 そしてセルゲイもまた、無言のまま大剣を構えた。


「陛下!」


 ヴォルフラム・アイゼンが叫ぶ。


 前方では、王が敵に包囲されている。


 ヴォルフラムは剣を掲げた。


「前方の陛下を救う! 突破しろ!」


 号令とともに騎兵が一斉に加速する。


 ラルフ・ディートリヒ、ルーカス・ベルナーもそれに続いた。


 さらに後方からは、ヴィクトル・アイゼンハルト率いる傭兵団が到着しつつあった。


 しかし、その行く手を幾筋もの光が遮った。


「足を止めろ」


 イワン・オルロフが静かに杖を掲げる。


 直後、街道を横切るように風刃が走る。


 ミハイル・ヴォローニンも間髪入れず詠唱を重ねた。


 土煙が巻き上がり、閃光が視界を覆う。


 さらに街道脇の地面が盛り上がり、馬の進路を塞いだ。


「くっ……!」


 騎兵隊は思わず速度を緩める。


 魔術そのものよりも、進路を失うことが致命的だった。


 そのわずかな遅れ。


 それこそがアレクセイの狙いだった。


「セルゲイ」


「ああ」


 短い返事だけで十分だった。


 セルゲイ・ヴォルコフがルドルフ四世の前へ馬を進める。


 巨大な大剣がゆっくりと持ち上げられた。


「ヴァルデン王よ」


 低く響く声。


 ルドルフ四世も剣を構え直す。


「来るがいい」


 次の瞬間。


 大剣が唸りを上げた。


 激突。


 凄まじい金属音が街道に響き渡る。


 王の剣がセルゲイの大剣を受け止める。


 だが、その一撃だけで馬体が大きくよろめいた。


(重い……!)


 尋常ではない。


 まるで巨大な鉄塊そのものを振り下ろされているようだった。


 護衛の騎士が横合いから斬りかかる。


 セルゲイは振り向きもしない。


 大剣を横薙ぎに払う。


 鈍く、重い一撃。


 それだけだった。


 しかし、護衛の胸甲は紙のように裂け、そのまま馬上から崩れ落ちる。


「なっ……!」


 ラルフが息を呑んだ。


 グランフェルトでも見た光景だった。


 禍々しいあの魔剣。


 鎧ごと人を断ち切る、常識外れの斬撃。


 理由は誰にも分からない。


 ただ一つ分かるのは、まともに受ければ終わりだということだけだった。


 セルゲイは再び王へ向き直る。


 重い一撃。


 二撃。


 三撃。


 受けるたびにルドルフ四世の腕が痺れる。


 ついに体勢を崩した。


 その隙を逃さず、魔剣が胸元をかすめる。


「ぐっ……!」


 鮮血が甲冑を染める。


 深手ではない。


 だが、傷口から血が止まらない。


 王は馬上で眉をひそめた。


(浅い……はずだ……)


 それでも血だけが流れ続ける。


 魔剣の呪いなのか。


 それとも別の力なのか。


 誰にも分からない。


「陛下!」


 ヴォルフラムたちはなおも突破を試みる。


 しかし、魔術師たちの妨害は激しさを増すばかりだった。


 風刃が走る。


 土壁がせり上がる。


 閃光が視界を焼く。


 あと数十歩。


 その数十歩が、どうしても届かない。


 その時だった。


「風の付与が使える奴はいないか!」


 後方から黒田健太郎の大声が響いた。


「誰でもいい! 俺に風を乗せてくれ!」


 傭兵たちが顔を見合わせる。


「エーファ!」


 ヴィクトルが振り向く。


「クロダ殿に付与魔術をかけてやれ」


 その声に応え、一人の若い女が馬を進めた。


「あたしの出番かな」


 長い栗色の髪を後ろで束ねた、美しい女剣士だった。


 鎧越しにも分かる均整の取れた体つき。


 細身の剣を佩き、腰には短杖を下げている。


 エーファは肩をすくめて笑う。


「やっぱ、あたしか」


 ヴィクトルは黒田へ親指を向ける。


「安心してくれ」


「彼女は若いが、うちのエースだ」


 エーファは苦笑しながら短杖を抜いた。


「紹介はあとね。すぐにかけるから」


「高度な魔術は無理だけど、付与くらいならできるし」


 エーファは短杖を軽く回しながら黒田を見た。


「ちゃんと制御してよ。振り回されても責任持たないから」


「死ぬよりマシだ」


 黒田は迷わず槍を構える。


 エーファの口元がにやりと吊り上がった。


「そういう返事、嫌いじゃない」


 短杖を握る手に魔力が集まる。


 風が渦を巻き始めた。


 翠色の光が黒田の身体を包み込む。


 風属性の魔力が身体へ流れ込む。


 筋肉が熱を帯びる。


 骨の奥まで力が満ちていく。


 ここまでは、付与魔術としては珍しくない。


 だが、そのまま終わらなかった。


 風がなおも黒田の身体へ流れ込み続ける。


 エーファの眉がわずかに動く。


 付与が止まらない。


 まるで黒田の身体が、魔力を吸い込んでいるかのようだった。


 黒田の全身を、さらなる風が駆け抜ける。


 髪が逆立つ。


 血液そのものが加速したような感覚。


 視界が一気に研ぎ澄まされる。


 心臓が力強く鼓動する。


(……来た)


 何度も経験した感覚だった。


 異世界人として召喚された黒田の肉体は、流れ込む風属性の魔力を異様なまでに受け入れていく。


 その加護は、常人なら身体が耐えられないほどにまで高まっていた。


「行くぞォッ!!」


 地面を蹴る。


 馬が矢のように飛び出した。


 いや、飛んだようにすら見えた。


 風が背中を押し続ける。


 その加速に、後続の騎兵たちが一瞬置き去りにされる。


「速っ!?」


 エーファが思わず目を丸くした。


「何あれ……」


 ヴィクトルも思わず苦笑する。


「付与が乗りすぎてやがる」


「普通なら身体が先に壊れる」


 エーファは呆れたように黒田の背中を見送った。


「……死なないでよ」


 誰にも聞こえないほど小さな声。


「せっかく面白そうな奴なんだから」


 その頃、セルゲイはなおもルドルフ四世へ大剣を振るっていた。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 王は傷を負いながらも懸命に耐える。


 そこへ。


「どけぇぇぇッ!!」


 怒号とともに、一筋の風が街道を駆け抜けた。


 セルゲイの視線が動く。


 さきほどまで後方にいた黒髪の異世界人。


 槍を構えた彼が、信じ難い速度で突っ込んできていた。


「……速い」


 思わず漏れた一言。


 直後、槍と魔剣が激突した。


 甲高い金属音が谷間に響き渡る。


 黒田は歯を食いしばり、そのままセルゲイを押し返した。


 馬が半歩、後ろへずれる。


 セルゲイの眉が、わずかに動いた。


(この速度……)


 ただ魔術の付与を受けただけではない。


 あの一瞬で間合いを詰め、魔剣の軌道を読み切った。


 身体能力が、先ほどまでとは別物だった。


 セルゲイは口元をわずかに緩める。


「面白い」


 その視線は、もはやルドルフ四世だけを見てはいなかった。


 眼前の異世界人を、一人の武人として見据えていた。


 セルゲイは押し切るつもりだった。


 グランフェルトで戦った時、この異世界人は体格こそ優れていたが、技量では相手にならなかった。


 それは事実だった。


 だから、受け止められることはあっても、押し返されることはない。


 そう思っていた。


「……っ!」


 押された。


 魔剣を受け止めた槍が、そのまま大剣を弾き返す。


 セルゲイの馬が半歩後退した。


(何だ、この力は)


 間髪入れず、黒田の槍が突き出される。


 速い。


 しかも重い。


 セルゲイは大剣で受け流す。


 しかし次の一撃がもう来る。


 右。


 左。


 踏み込みながらの突き。


 圧倒的な速度が、槍の長い間合いをさらに凶悪なものに変えていた。


(前とは別人か)


 以前の黒田は、恵まれた体格だけで押してくる男だった。


 戦い方は変わらない。


 変わったのは、その身体能力だ。


 異常な風魔術の付与により、筋力も反応も踏み込みも、常人の域をはるかに超えていた。


 セルゲイは槍の軌道を見切りながら、小さく息を吐く。


(なるほど)


(これが風の異世界人か)


 先に現れた土の異世界人は、国の在り方そのものを変える男。


 ならば目の前の男は違う。


 純粋な武によって戦場を切り開く存在だった。


 セルゲイの口元が、わずかに吊り上がる。


「面白い」


 魔剣が唸る。


 黒田は槍を返し、その斬撃を紙一重で逸らした。


 地面が大きく抉れる。


 もし直撃していれば、鎧ごと両断されていただろう。


 それでも黒田は怯まない。


「まだだァッ!!」


 再び踏み込む。


 槍の石突で大剣を押し上げ、そのまま穂先をセルゲイの喉元へ滑らせた。


 セルゲイは首をわずかに傾ける。


 穂先が頬をかすめた。


 一筋の血が流れる。


 静まり返る一瞬。


 セルゲイは指で血をぬぐい、それを見つめた。


(俺が……傷を負った)


 技量ではなお自分が上だ。


 それでも押し込めない。


 純粋な膂力。


 異様な瞬発力。


 そして恐れることなく踏み込んでくる胆力。


 この男は、一瞬だけ自分と同じ領域へ踏み込んできていた。


 その間にも、ヴォルフラムたちは王のもとへ到達する。


「陛下!」


 ヴォルフラムが馬を寄せる。


 ルドルフ四世は大量に出血していたが、まだ意識はあった。


「すまぬ……ヴォルフラム」


「お言葉は後です」


 ヴォルフラムは王を自らの馬へ移した。


「撤退だ!」


 ラルフとルーカスが左右を固める。


 騎兵たちは即座に馬首を返した。


 セルゲイは追おうとする。


 しかし、その前に黒田が槍を構えて立ちはだかった。


「行かせねぇ」


 短い一言。


 その背後では、王を乗せた騎兵隊が国境へ向かって走り始めていた。


 セルゲイは大剣を構え直す。


 黒田も槍を低く構える。


 二人の間に、張り詰めた静寂が落ちた。


 先に動いたのはセルゲイだった。


 魔剣が唸りを上げる。


 黒田は踏み込まず、槍で受け流す。


 衝撃が腕を貫いた。


(重い……!)


 風の付与を受けた今でさえ、この一撃だ。


 身体の奥まで震えが伝わる。


 まともに受け続ければ、いずれ槍ごと押し潰される。


 だから黒田は止めない。


 流す。


 逸らす。


 踏み込ませない。


 それだけに徹した。


 セルゲイも理解する。


(時間稼ぎか)


 勝つためではない。


 倒すためでもない。


 王を逃がす、その数十秒だけを稼ごうとしている。


 それが分かるからこそ、苛立ちはなかった。


 むしろ戦士として感心していた。


「いい判断だ」


 黒田は答えない。


 槍を繰り出す。


 セルゲイは大剣で払う。


 再び火花が散った。


 その時だった。


「黒田!」


 後方から一騎の馬が駆け込んできた。


 安藤悠真だった。


 アウエンハーフェンを落とした安藤は、魔術師が足りていないだろうことを不安視し、ここまで馬を飛ばして追いついてきた。


 黒田は視線だけを向ける。


「アンディ、説明してる暇はない」


「分かった」


「追ってきてる敵は多くない。でも、ヤバい奴らがいる」


 安藤は一度だけうなずく。


 セルゲイ。


 アレクセイ。


 そして高位の魔術師が二人。


 それだけ聞けば十分だった。


「時間を稼げ」


「任せろ」


 黒田が笑う。


 安藤も馬を並べた。


 二人だけが、撤退する騎兵隊の最後尾に立つ。


 黒田は槍を構える。


 安藤は静かに杖を握る。


 土魔術の詠唱を始めた。


 街道の土が低く唸る。


 石が震え、小さな砂粒が宙へ浮かび始める。


 その光景を見たアレクセイは、わずかに目を細めた。


 土の異世界人。


 グランフェルトで城壁を崩し、戦場そのものを書き換えた男。


 その男が、今まさに詠唱を始めている。


 土塁か。


 落とし穴か。


 それとも、あの常識外れの地形操作か。


 アレクセイは一瞬で幾つもの可能性を思い描く。


 どれ一つとして、軽視できるものはなかった。


 分からぬものほど危険だ。


 アレクセイは静かに手綱を引いた。


「……追撃は中止だ」


 副官が驚いたように振り向く。


「ですが!」


「敵はもう退却しています!」


「だからだ」


 アレクセイの声は静かだった。


「少数だからこそ危険だ」


 その一言で、副官は口を閉ざした。


 アレクセイの判断に異を唱える者はいなかった。


 セルゲイは大剣を肩へ担ぎ直した。


 その視線は黒田から離れない。


 しばらく見つめた後、ゆっくりと口を開く。


「風の異世界人」


 黒田も槍を構えたまま視線を返す。


「見事な槍だった」


 低く落ち着いた声だった。


 勝者が敗者を見下すような響きではない。


 同じ戦場に立った戦士へ向ける、率直な賛辞だった。


 黒田は苦笑する。


「そりゃどうも」


 セルゲイは小さく頷く。


「いずれまた戦場で会おう」


「ああ。その時は勝つ」


 短い返答に、セルゲイの口元がわずかに緩む。


「楽しみにしている」


 セルゲイが馬首を返す。


 それを合図に、ルーシェ皇国軍もゆっくりと反転を始めた。


 アレクセイは最後に一度だけ安藤へ視線を向ける。


 土の異世界人。


 風の異世界人。


 二人が並び立つ姿を静かに目に焼き付ける。


 この二人が成長を続ければ、次に戦う時は今日のようにはいかない。


 そんな予感だけを胸に、そのまま部隊を率いて戦場を後にした。


 やがて敵影が完全に見えなくなる。


 緊張が解けた瞬間だった。


「はぁっ……」


 黒田は大きく息を吐き、槍を地面へ突き立てた。


 全身から力が抜ける。


 膝が笑い、その場に崩れ落ちそうになる。


「大丈夫か」


 安藤が馬を降りて駆け寄る。


 黒田は苦笑しながら肩を回した。


「助かった」


「傭兵隊に風魔術使えるやつがいてさ。付与をかけてもらって、それでようやく互角だった」


 腕を握る。


 脚も痛い。


 肩も背中も、全身が鉛のように重い。


「あれの反動で身体中が痛い」


 安藤は呆れたように笑った。


「随分と無茶をしたな」


「しないと、陛下が死んでた」


「……そうだな」


 二人はしばらく黙って国境の方角を見つめた。


 王は救えた。


 だが、勝利の代償は決して小さくない。


 ルドルフ四世は深手を負い、多くの兵も命を落とした。


 そして何より――。


 ルーシェ皇国には、セルゲイ・ヴォルコフという怪物がいる。


 その事実が、二人の胸に重く残っていた。


「明日はもっと痛ぇぞ、これ」


 黒田が顔をしかめる。


 安藤は思わず笑う。


「嫁に手当てしてもらえ。自業自得だ」


「違いねぇ」


 黒田も笑った。


 身体は悲鳴を上げている。


 それでも後悔はなかった。


 王は生きている。


 仲間も生きている。


 それだけで十分だった。


 ふと黒田は、風をまとわせてくれたエーファの顔を思い出す。


「……ちゃんと礼、言わないとな」


「ん?」


「いや、こっちの話」


 ふと、遠くから歓声が聞こえてきた。


 王を救った槍の英雄・黒田健太郎を讃える声だった。


「ケンタウロ!」


「ケンタウロス!」


 最初は数人だった。


 それが次第に広がり、やがて帰還する兵たちの間から大合唱となる。


「ケンタウロ!」


「ケンタウロス!」


 黒田は顔をしかめた。


「……何だ?」


 安藤が吹き出す。


「健太郎って呼んでるつもりなんじゃないか」


「いや、どう聞いてもケンタウロスだろ」


「手でも振ってやれよ、ケンタウロスさん」


「うっせぇぞ、アンディ」


 そう言いながらも、黒田は照れくさそうに片手を軽く上げる。


 歓声はさらに大きくなった。


「ケンタウロ!」


「ケンタウロス!」


 歓声の中でも、ひときわ大きな声を張り上げる若者がいた。


 黒田のことを慕うルーカスだった。


 安藤と黒田は顔を見合わせ、小さく笑う。


「帰ろう」


「ああ」


 二人は再び馬にまたがり、仲間たちの後を追った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ