第一話 国家予算級の召喚事故
四月の夜だった。
駅前の居酒屋を出ると、春先の湿った風が、酔いの残る頬をゆるく撫でた。
金曜日の繁華街はまだ明るい。
大学生や会社員たちの笑い声が、ネオンの下へ溶けていく。
「いやー、でも結局、あの子は黒田狙いだったな」
安藤悠真は肩をすくめた。
隣を歩く黒田健太郎は、けらけら笑う。
「知らねーよ。ていうかお前、また途中から経済の話してただろ」
「訊かれたから答えただけだ」
「合コンで税金の話するやつ初めて見たわ」
「税金じゃなくて、貨幣の話だ」
「どっちでもいいわ」
二人は笑った。
「結局さ、“誰かの支出は別な誰かの所得”なんだよ」
「また始まった」
「さっき俺ら、居酒屋で金払っただろ」
「払ったな。結構取られた」
「あれ、俺らから見れば“支出”だけど、店側から見れば“売上”なんだよ」
「まあ、そりゃそうだろ。使ったお金はこの世から消えるわけじゃない」
「でも国の話になると、急にそこ忘れるんだよな。借金あってヤバいから、財政支出を減らすべきとか、セコいこと言って……」
黒田は少しだけ感心した顔をした。
「そう言われると、分かりやすいな」
「だろ?」
「でも合コンでやる話じゃない」
「それはそう」
二人はまた笑った。
黒田は昔からデカい。
スポーツサークルに出入りしているせいで無駄に顔も広く、初対面の相手ともすぐ打ち解ける男だった。
一方の安藤は、昔から神経質なところがあり、性格は正反対だ。
細かいことを気にするし、妙に理屈っぽいところがある。
だが高校時代から、なぜか妙に気が合った。
駅前を離れると、人通りが少なくなる。
街灯の白い光が、夜道へまだらに落ちていた。
「就職したら、こうやって遊ぶ機会も減るんだろうな」
黒田がぽつりと言う。
「まあな」
安藤は少しだけ空を見た。
都会の空は暗い。
星なんてほとんど見えない。
「俺らの世代って、この先どうなるんだろう」
黒田が言う。
「働いても、消費税は上がるし、社会保険料も増えるし……」
「急に真面目かよ」
「だいぶ酔ってるからな」
安藤は少し笑った。
「緊縮財政を続けた日本はもう、“衰退途上国”に入ってると思う」
「うわ、嫌な単語使いやがる」
「でも急には壊れない。そこが逆に厄介だ」
「夢ねぇなぁ」
黒田は苦笑しながら、
「もう少し明るいこと言えよ」
と言った。
その時だった。
交差点の向こうから、ヘッドライトが突っ込んできた。
「っ!」
黒田が安藤の腕を掴む。
ブレーキ音。
タイヤの擦れる音。
車体が二人のすぐ脇を掠めて停止した。
「危ねぇな!」
黒田が叫ぶ。
運転席では、青ざめた男が何か喚いていた。
安藤は激しく脈打つ心臓を押さえながら、荒く息を吐いた。
「……雑な異世界転生かよ」
「ははっ、確かに」
黒田が笑う。
その瞬間だった。
安藤の身体が、淡く発光した。
「……は?」
白金色の光。
服の隙間から漏れるように、光が溢れている。
「安藤、めっちゃ光ってるじゃん」
黒田はスマホを取り出した。
「なんの手品だよ。動画回すぞ」
「知らねぇよ!」
光はさらに強くなる。
空気が震えた。
耳鳴りのような低音。
足元へ、幾何学模様が浮かび上がる。
円環。
文字列。
見たこともない紋様。
安藤の背筋へ寒気が走った。
「……おい、これ」
「うお、マジですげぇ!」
「いや待て、笑ってる場合じゃ――」
そこで黒田の身体も光り始めた。
「えっ」
二人の声が重なる。
空間が歪む。
世界そのものが、軋むように。
激しい眩暈。
胃が裏返るような不快感。
肺が押し潰される。
視界が白く染まった。
そして。
光が弾けた。
◇
最初に感じたのは、冷たい石床の感触だった。
次に匂い。
香草。
蝋燭。
血のような鉄臭さ。
安藤は呻きながら身体を起こした。
巨大な円陣。
燭台。
高い天井。
古びた壁画。
そして、剣を帯びた兵士たち。
槍。
盾。
鎖帷子。
重苦しい空気。
「……は?」
誰かが叫んでいる。
知らない言葉だった。
なのに意味だけが頭へ流れ込んでくる。
脳へ直接押し込まれるように。
『成功したぞ!』
『召喚は成立した!』
『幻獣はどこだ!?』
頭痛がした。
言葉を“理解している”というより、
無理やり意味へ変換されている感覚に近かった。
安藤は眉をしかめた。
その時。
豪奢な服を纏った壮年の男が、一歩前へ出た。
王冠。
髭。
太い腕。
獅子のような威圧感。
『……人間だと?』
場が静まり返る。
安藤は、ゆっくり周囲を見渡した。
黒田もいる。
ジーンズ姿のまま。
スマホを握ったまま。
「おい安藤」
「……」
「これ、あれじゃね?」
黒田は笑った。
いつもの調子で。
「異世界転移ってやつ」
安藤は額を押さえた。
「死後の世界かもしれないな」
「は?」
「あるいは、シミュレーション仮説でいう別階層世界か……」
「お前、こういう時でも理屈っぽいなぁ」
黒田は周囲を見回す。
兵士たちはざわつき、魔術師らしき集団は困惑していた。
その中心。
赤い瞳の女魔術師が、こちらを鋭く観察している。
年齢は若く見える。
だが空気だけが異様だった。
近づくと、微かに酒の匂いがした。
徹夜続きなのか、目の下には薄く隈が浮いていた。
それにもかかわらず、周囲の誰より場を支配している。
女魔術師が、疲れたように額を押さえた。
「だから召喚術は嫌いなんだ……」
ぼそりと漏らす。
それだけで、場の空気がわずかに凍った。
彼女は二人を見ながら言う。
『混乱しているでしょうが、安心しなさい』
意味は理解できる。
だが、やはり気持ち悪い。
『召喚術では、召喚対象へ最低限の言語理解が付与される』
「……言語理解?」
安藤が反応する。
『完全ではない。固有名詞や古語は齟齬も起きるが……会話は可能だろう』
黒田が小さく笑った。
「ゲームの自動翻訳みてぇだな」
「笑える気分じゃない」
安藤は即答した。
女魔術師は王へ何事か耳打ちする。
事情を把握した玉座の男は、しばらく沈黙した後、
「……まずは謝罪しよう」
と言った。
低く、よく通る声だった。
「余はルドルフ四世。ヴァルデン王国国王である」
王は二人を見据える。
「我らはこの度、“常世と現世、あらゆる世界で最も強大な魔力を持つ幻獣”を招来するため、召喚の儀を執り行った」
「だが現れたのは、そなたたち人間であった」
安藤は、嫌な予感を覚えた。
横で黒田が小さく吹き出す。
「よかったな安藤。勇者はおまえな」
「全然よくない」
安藤は即座に返した。
「帰れるかどうかの方が重要だろう」
王は一呼吸置いて、二人を見た。
「して、その方らの名はなんという」
「安藤悠真といいます」
「黒田健太郎です」
王はわずかに眉を動かした。
「アンド……?」
「安藤です」
「アンディ?」
周囲の魔術師たちも、口の中でその音を転がしている。
黒田が肩を揺らして笑った。
「よかったな安藤。もう愛称ついたぞ」
「勝手につけるな」
「クロダは……そう呼べばよいのか」
「はい。ただの黒田でいいです」
王は頷いた。
「ならば、アンディ。クロダ」
その呼び方が、妙に自然に場へ馴染んだ。
やがて、財務大臣らしき痩せた男が、顔を強張らせたまま女魔術師へ視線を向けた。
「アーデルハイト魔術師長」
「なんだ」
「精神支配の魔術で、あの者たちを従わせることはできないのか」
空気が一瞬で冷えた。
兵士たちが、わずかに姿勢を変える。
黒田の笑みが消えた。
女魔術師は、安藤を見る。
そして、黒田を見る。
「隣の大男の方ならば、通常の精神支配でも従わせられるでしょう」
「オレかよ」
黒田が小さく呟いた。
女魔術師は続けた。
「ですが……そちらの彼には効きません」
視線は、安藤へ向いていた。
「彼の魔力が異常すぎる。下手に干渉すれば、術者側が焼かれる」
財務大臣は青ざめた。
「つまり、制御不能ということか」
「言い方を選ばないなら」
女魔術師は肩をすくめた。
「そうです」
沈黙。
王は、静かに財務大臣を制した。
「やめよ」
「陛下」
「彼らは、我らの都合で呼ばれた客人だ」
王の声は低かった。
「まずは、話す」
安藤はそのやり取りを見ながら、背中に冷たい汗が流れるのを感じていた。
善意だけで守られているわけではない。
相手は国家だった。
必要なら支配することも考える。
だが、それができない。
だから交渉する。
安藤は嫌でも理解した。
「……帰れますか」
即座に聞いた。
場が静まる。
王は目を細めた。
「理屈の上では可能だ」
安藤は少しだけ安堵しかけた。
「ただし」
王は重く続ける。
「今の召喚だけで、国家予算級の魔石を消費した」
財務大臣が、露骨に顔をしかめた。
「北方要塞群の年間維持費が消えましたぞ……」
「銀備蓄の三割です」
別の官僚が呻く。
「春の徴税にも影響が出かねません……」
「南部街道の改修予算も凍結になりますな……」
場の空気がさらに重くなった。
安藤は目を閉じた。
頭痛がした。
「送還儀式にも同規模の魔力資源が必要となるのだ」
「……」
「無論、貴殿らを害するつもりはない。王宮へ滞在する間、賓客として遇する」
王は真っ直ぐ安藤を見た。
「どうか、我らへ力を貸してほしい。数年後には、元の世界へ送還することを約束しよう」
沈黙。
その横で、黒田が小声で言った。
「それじゃ帰っても留年確定じゃねーか」
「……」
「せめて卒業してから呼んでほしかったよな?」
安藤は深く息を吐いた。
そして、静かに呟く。
「……早く家に帰らせてくれ」




