第21話:アリアの潜入と、水圧歯車の迷宮
海水と泡が視界を白く染め、ゴオオオッという不気味な重低音が鼓膜を揺らしていた。
大潮の濁流が渦巻くアルト・マリーナの沖合。
水中に飛び込んだ三人は、シルクが展開した微小な『水中呼吸・防護膜』の泡に頭部を包まれながら、群青色の海中を深く深くへと降下していた。
「くっ……流れが強すぎる! アリア、離れるなよ!」
ケリーが強い引き潮に抗いながら、片腕でアリアの華奢な腰を力任せに抱き寄せた。
水圧と激しい潮流の中で、濡れた水着の上からアリアの柔らかく滑らかな体温が直接腕に伝わってくる。薄手のパーカーは水を含んで肌にぴたりと貼りつき、少女の華奢で綺麗なボディラインを露わにしていた。
「っ……!?」
ケリーは思わず目元を血走らせ、顔面を爆発しそうなほど真っ赤に染めた。
水流からアリアを守るために抱きしめているだけなのだが、濡れた素肌の感触と、耳元で聞こえる彼女の規則正しい息遣いに、彼の騎士としての理性が猛烈な摩擦音を立てて悲鳴を上げている。
(ち、近すぎる……ッ! なんだこの柔らかさは!? いや待て俺! 今は街の危機なんだぞ! 何を不埒なことを考えてやがるんだ!!)
必死で雑念を振り払おうと首を振るケリーの横で、当のアリアは冷ややかな瞳で海の底を見つめていた。
「……ケリー、脱力しろ。流れに逆らうと無駄な運動エネルギーを消費する。……見えたぞ。あれが『古代の水門大時計』の浸水口だ」
アリアが指し示した海底の暗がり——そこには、白真珠色の巨大な石組みの構造物と、直径十メートルを超える古代の青銅製水圧ファンが、狂ったような速度で水流を吸い込みながら逆回転を続けていた。
「よし! あの排水口の脇にある緊急メンテナンス用ハッチから侵入するぞ!」
ケリーは大柄な体を力強く煽り、渦巻く水流を力任せに切り裂きながら、アリアを抱えてハッチの取っ手へと手を伸ばした。
ズズズ……ッ!
ケリーの圧倒的な筋力によって重厚な耐圧扉が押し開かれ、三人はなだれ込む水流と共に遺跡の内部へと滑り込んだ。
ガコンッ!
内側からハッチを閉じると、排水機能が働いている内部空間からゴボゴボと海水が抜け、頭上に残された空気層——『減圧気密室』へと浮上した。
「ふはっ……! ごほっ、ごほっ! なんとか入れたな……!」
ケリーが水面から顔を出し、荒い息を吐きながら濡れた金髪をかき上げた。
シルクも頭上の呼吸膜を解除し、身震いをして濡れた毛並みを整える。
「やれやれ、大荒れの海じゃったな。……しかし若いの、先ほどからずっと嬢ちゃんの腰を抱えたまま放そうとせんが、いつまで抱きついている気じゃ?」
「なッ……!?? ち、ちがう! これは流されないように支えてただけで……っ!」
ケリーが慌てて両手をかざして後退した。
だが、アリアはケリーの動揺など露ほども意に介していなかった。
気密室の石床に上がった瞬間から、彼女の意識はすでに自らの『職人の集中領域』へと没入していたのだ。
「……静かにしろ。周囲のトルク振動と気圧の変化に集中するんだ」
アリアは濡れたパーカーのファスナーを無造作に開け、動きやすいように裾を腰の上で固く結び直した。
それによって、水着の白いウエストと可憐な胸元が大胆に強調されることになったが、アリア本人は100%『機械の診断』に思考を割いており、自らの姿に対する羞恥心など一微塵も頭に残っていなかった。
「う……うわああぁっ……!」
ケリーは直視に耐えかねて片手で両目を覆い、指の隙間からあらぬ方向の天井を見つめてガタガタと震え始めた。
「ケリー、何を遊んでいる。工具箱から流体力学用の圧力計と磁尺を出せ。……急ぐぞ」
「あ、あああ……分かった! 出す、すぐ出すから!」
手惑いながら工具を差し出すケリーを余所に、アリアは迷いのない足取りで気密室の奥——『水圧歯車の迷宮』へと伸びる回廊へ足を踏み入れた。
そこは、息を呑むほど壮大で異麗な空間だった。
吹き抜けになった巨大なドーム状の海底空洞。
壁一面、そして足下にまで、無数の巨大な真鍮製歯車、水圧シリンダー、そして太く張り巡らされた銅製の導水パイプが組み上げられている。それらの歯車群は、王城の魔法技師たちが打ち込んだ凍結魔法の残鎖と、暴走した水圧の逆流によって、キィィィン……と悲鳴のような金属高音を奏でながら不気味に空転を繰り返していた。
「……素晴らしい構造だ。主歯車の噛み合いモジュールは等間隔。海水と作動油の比重差を利用した『二重ピストン型トルク増幅回路』か」
アリアは右目に防水ゴーグル越しにルーペ(キズミ)を嵌め込むと、足場の細い鉄製キャットウォークをトコトコと進み、巨大な水圧ギアの直前で立ち止まった。
そして——ケリーの心臓を止めんばかりの『無自覚な行動』を開始した。
「……ふむ。一番車の軸受けに過剰な側圧がかかっているな。奥のバイパス弁の状態を確認する」
アリアは回転する巨大な歯車の隙間を覗き込むため、濡れた滑りやすいキャットウォークの手すりに片足をかけ、身を極限まで乗り出させたのだ。
水着の上から羽織ったパーカーが自重でめくり上がり、滑らかな背中のラインと、フリルがついた小さなショーツに包まれた太ももの付け根が、ケリーの目の前で完全に無防備に晒される。
「あ、あ、アリアーーーーッ!!?? な、なにやってんだお前はーっ! 危なすぎるだろ!!」
ケリーは鼻血が噴き出しそうなほどの破壊力と恐怖で絶叫し、慌ててアリアの腰へと飛びついた。
「動くなケリー! 視界がブレる!」
「ブレるとかそういう問題じゃない! そんな滑りやすいところで足を伸ばしたら、下の歯車に巻き込まれるぞ! それに……その……恰好が……格好が際どすぎるんだよ!!」
ケリーは必死の形相でアリアの華奢な腰を両手でしっかりと抱え込み、彼女が滑り落ちないよう自分の胸へと引き寄せた。
密着する濡れた肌のぬくもり、アリアの甘い体臭、そして完璧な背中のカーブ。ケリーの脳内はすでに容量オーバー(キャパオーバー)で真っ白になりかけていた。
だが、アリアは背後で固まっている大型犬騎士の葛藤など一切知る由もない。
「……ケリー。もっとしっかり支えろ。私が右へ体軸を三十度傾けられるよう、お前の足腰で『人間の人間用スタンド(土台)』となれ」
「に、人間用スタンドぉ!?」
「そうだ。この角度からでなければ、二次減速ギアの爪の摩耗角が測定できない。絶対に揺らすなよ」
アリアはケリーの太い腕に全体重を預け、惜しげもなく脚を大きく開いて台座に固定し、さらに深く歯車の奥深くへと身を滑り込ませた。
ケリーの胸にアリアの可憐な背中がピタリと押し付けられ、彼女が呼吸をするたびに、柔らかな肋骨の動きと鼓動がダイレクトにケリーの腕へと伝わってくる。
(し、死ぬ……! 俺は今日、水没じゃなくて心臓麻痺で死ぬんだ……ッ!!)
ケリーは歯を食いしばり、顔を真っ赤にしながら必死で踏ん張った。
足元の黒猫シルクは、キャットウォークの端で「くくく……」と腹を抱えて笑っている。
「やれやれ、若いのは命がけじゃのう。……で、嬢ちゃん。その奥の仕掛けはどうなっておる?」
アリアはピンセットをギアの極小の隙間に差し込み、冷徹な声で状況を分析した。
「……最悪の噛み合わせだ。王城のバカ技師どもが打ち込んだ氷の破片が、主圧力弁の戻りバネのピストンに挟まり、固着している。そのせいで作動油の戻り回路が完全に遮断され、油圧が逃げ場を失って『無限循環ロック』を起こしているんだ」
「無限循環ロック……?」
ケリーが声を漏らす。
「そうだ。油圧が上がり続けた結果、自動安全装置が誤作動を起こし、水門の排水フラップを『全開』のまま物理的に溶接(固着)させてしまっている。……この内部のメイン油圧弁を解体し、過剰な圧力を逃がさなければ、あと三十分で大潮の波が街を完全に飲み込む」
アリアはケリーの腕の中からぬらりと身を躍らせてキャットウォークへと着地すると、濡れた銀髪をサッと払い、冷たく鋭い瞳で迷宮の奥を見つめた。
「行くぞ。この水圧歯車の迷宮を抜け、中央主圧力室へ向かう。……私の眼と、お前の力で、あの暴走する巨大時計を力ずくで調律する!」
「お、おう! 任せとけ!」
ケリーは必死で顔の赤みを引っ込めようと頬を両手で叩き、腰の剣の柄を握り直した。
迫り来る大潮の刻限。
過熱する焦れったい距離感と、命がけの精密修理作戦。
三人(二人と一匹)は、不協和音を奏でる巨大な歯車の真ん中へと、力強く突き進んでいくのだった。




