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第5話:迷子の秒針。特定の場所で逆行する時計の謎

ちゃんとお出かけできる娘です


 ケリーが持参した特製のチキンスープの香りが微かに残る店内で、アリアはただ無言のまま、カウンターの上に置かれた真鍮製の懐中時計を見つめていた。


 装飾性は皆無。文字盤を覆うガラスには無数の擦り傷が入り、長年持ち主のポケットの中で硬貨や鍵と擦れ合ってきた歴史を物語っている。銀製のケースのような上品な輝きはなく、真鍮特有のくすんだ黄銅色が、実用品としての無骨さを際立たせていた。


 チク、タク、チク、タク。


 アリアの耳には、その真鍮のケースの奥から響く、重く単調なステップ運針の音がはっきりと届いている。


 何もおかしなところはない。六時の位置に配置されたスモールセコンド――独立した小さな秒針――は、一秒に一回の正確なリズムで、右回り、すなわち時計回りに時を刻んでいる。


「……ケリー。お前は疲れているんじゃないか。幻覚を見るほどパトロールが過酷なら、上官に泣きついて休暇をもらえ」


 アリアは冷ややかな視線を大柄な騎士見習いに向けた。


「幻覚じゃないって! 俺は確かに見たんだ。あの時、この時計の秒針は、間違いなく左回りに動いていた」


 ケリーは必死になって身を乗り出し、カウンターをバンバンと叩いた。


「おいおい、若いの。落ち着かんか。嬢ちゃんの言う通り、時計の針が逆行するなんてことは、物理的にあり得んじゃろうて。ワシの知識が正しければ、時計の動力であるゼンマイは、一方向にしかほどけないはずじゃ」


 ストーブのそばから歩み寄ってきたシルクが、尻尾を揺らしながら宥めるように言った。


「……シルクの言う通りだ」


 アリアは懐中時計を手に取ると、裏蓋の隙間に専用のこじ開け器――刃先を薄く研ぎ澄ましたナイフのような工具――を差し込み、手首の軽いスナップでカパッと蓋を開け放った。


 顕わになったのは、真鍮の地板と、複数の歯車が連なる標準的な機械式ムーブメントだ。


「……よく見ろ、ケリー。時計の動力源はこの香箱車の中に収められたゼンマイだ。ゼンマイが解けようとする力は、二番車、三番車、四番車と伝わり、最終的にこのガンギ車と呼ばれる歯車に行き着く」


 アリアは極小のピンセットの先で、星のような形をした歯車を指し示した。


「このガンギ車の回転を、アンクルと呼ばれる二又の部品が、一定のリズムでカチ、カチとせき止めている。これが時計の『チクタク』という音の正体だ。ガンギ車の歯の形状を見てみろ。一方向にしか進めないように、ノコギリの刃のような傾斜がついているだろう」


 ケリーは目を凝らしてアリアの指し示す先を見たが、彼にとってはただの複雑な金属の塊にしか見えていないようだった。


「……もし仮に、秒針が逆行したとしよう。秒針が取り付けられている四番車が逆回転したということだ。そうなれば、力は逆流し、ガンギ車も逆回転を強いられる。だが、アンクルの爪石がそれを物理的にブロックしている。無理やり逆行させようとすれば……」


 アリアは言葉を切り、ピンセットの先で真鍮の地板を軽く叩いた。


「……ガンギ車の歯が砕け散るか、アンクルの爪が折れる。構造上、逆行は絶対に不可能なんだ」


 アリアの説明は、冷徹な物理法則の事実だった。


 時計とは、時間を一方向に分割するためだけに作られた機械だ。時間を巻き戻すようなロマンチックな構造は、最初から組み込まれてなどいない。


 しかし、ケリーは引かなかった。


「アリアの言う理屈はわかる。俺だって、時計の中身がどうなっているかなんて知らないけど、針が逆戻りするのがおかしいことくらいはわかるさ。でも、俺はこの目で見たんだ。絶対に折れない」


 その琥珀色の瞳には、一切の虚飾や嘘は見当たらなかった。


 アリアはわずかに眉をひそめ、懐中時計の文字盤を再び確認した。やはり、スモールセコンドの秒針は正常に右回りを続けている。


「……お前がそこまで言うなら、状況を詳しく説明しろ。どこでこれを拾い、どんな時に逆行したんだ」


 アリアが問うと、ケリーはホッとしたような顔つきになり、記憶を辿るように話し始めた。


「今日の午前中、第四区画のパトロールをしていた時だ。あそこは昔、貴族の館が立ち並んでいた古い区画で、今はもう半分廃墟みたいになっている場所があるだろう?」


「……古い水路の跡地があるあたりか」


「そう、そこだ。俺は石畳の路地を歩いていて、道端の泥の中にこの時計が落ちているのを見つけたんだ。誰かの落とし物だろうと思って拾い上げた時、時間は午前十時を少し回ったところだった。その時は、秒針は普通に動いていた」


 ケリーは身振り手振りを交えながら、当時の状況を再現する。


「そのまま詰め所に届けようと思って、路地を抜けて、古いアーチ状の石橋に差し掛かった時だ。ふと手元の時計を見たら……秒針が、チク、タクと、左回りに動いていたんだ。見間違いじゃない。十秒ほど、確かに数字が減っていくように逆行していた」


「……それで?」


「驚いて足を止めたら、逆行は止まった。そして、また普通に右回りに動き始めた。俺は信じられなくて、もう一度、石橋の真ん中まで後ずさりしてみたんだ。そしたら……」


「……また、逆行したと?」


「ああ。間違いない。あの石橋の上の、特定の数メートルの範囲に入った時だけ、この時計の秒針は左に回るんだ。時計が壊れるような音はしなかったし、文字盤の針は滑らかに逆走していた」


 ケリーの証言を聞き終え、店内に再び静寂が降りた。


 チクタク、チクタク。


 周囲のアンティーク時計たちが、彼らの会話など意に介さないように、正確な時間を刻み続けている。


 アリアは右目にルーペを嵌め込み、もう一度、真鍮の懐中時計の内部構造を舐め回すように観察した。


 歯車の欠けはない。ゼンマイのトルクも正常。地板に歪みもなく、魔法の回路が刻まれているような痕跡もない。ごく一般的な、市販の量産品ムーブメントだ。


「……物理的な構造の異常ではない。内部に魔法の仕掛けもない。だとしたら」


 アリアが呟くと、カウンターの端に座っていたシルクが、ピンと耳を立てた。


「ふむ。時計そのものに細工がないとすれば、原因は『外』にあると考えるのが妥当じゃな」


「……外部からの干渉か。シルク、あの第四区画の古い水路跡地に、何か魔法的な特異点はあるか?」


 アリアの問いに、シルクは金色の目を細めて記憶を探った。


「あの辺りは、王都の地下を流れる水脈と、古い時代の魔力溜まりが交差する場所じゃ。使われなくなった水路の地下には、過去の魔法使いたちが廃棄した魔石のカスや、歪んだ魔法磁場がヘドロのように沈殿しておる。空間の魔力濃度が局地的に異常な数値を示すことは、珍しくないじゃろうな」


「……魔法磁場」


 アリアは前世の知識と、この世界の現象を頭の中で結びつけ始めた。


 地球において、機械式時計の最大の敵の一つは「磁気」である。強力な磁石に近づけられた時計は、内部の金属部品が帯磁し、互いに引き合ったり反発したりすることで、著しい精度の狂いを引き起こす。最悪の場合、時計は完全に停止してしまう。


 この世界における「魔法磁場」も、それに似た性質を持っていることを、アリアはこれまでの修理経験で学んでいた。


「……しかし、いくら強力な磁場があったとしても、秒針だけを都合よく逆行させるなんてことがあり得るのか? 帯磁すれば、普通はテンプの動きが乱れて遅れるか、止まるかのどちらかだ。秒針の歯車だけを逆回転させるような器用な干渉など……」


 アリアはそこで言葉を切り、ピンセットの先で、スモールセコンドの秒針を軽く小突いた。


 カチリ、と微かな音がして、秒針がごくわずかに揺れる。


「……待て。この秒針」


 アリアの目の色が、職人のそれへと完全に切り替わった。


 ルーペ越しに見る秒針の表面。長針や短針と同じ黒焼きの鉄で作られているように見えたが、光の反射の具合が、ごくわずかに違う。


 アリアは引き出しから小さな棒磁石を取り出し、秒針にそっと近づけてみた。


 反応はない。鉄であれば磁石に吸い寄せられるはずだが、この秒針は微動だにしなかった。


「……鉄じゃない。いや、鉄以外の何かが混ぜられている特殊な合金か。シルク、お前の目で見て、この秒針に何か魔力的な反応はあるか?」


 シルクはカウンターの上を歩き、アリアの手元へと顔を近づけた。金色の瞳孔が細く絞られ、魔法の視覚で物質の奥底を見透かそうとする。


「……ほう。微かじゃが、この秒針の素材そのものに、奇妙な魔力の残滓を感じるぞい。魔法陣が刻まれているわけではない。金属そのものが、特定の魔力波長に共鳴しやすい性質を持っているようじゃ。おそらく、意図して作られた合金ではなく、偶然できた不純物の混ざった鉄じゃな」


「……特定の魔力波長に共鳴する合金」


 アリアはピンセットを置き、深く息を吐き出した。


 謎の輪郭が、少しずつ見え始めてきた。


「ケリー。お前が見たという現象、おそらく嘘ではない。だが、時計が本当に逆行していたわけでもない」


「えっ? どういうことだよ。嘘じゃないなら、逆行してたってことだろ?」


 ケリーは目を丸くして首を傾げた。


「……文字盤の上の秒針は、確かに左回りに動いて見えただろう。だが、内部の歯車は逆回転などしていない。そんなことをすれば時計は壊れる。つまり……」


 アリアは懐中時計の文字盤を指の腹でそっと撫でた。


「内部の歯車の動きとは無関係に、この秒針『だけ』が、外からの見えない力で引っ張られて、無理やり逆に回されていたんだ。歯車の軸と秒針の穴の接合部がわずかに緩んでいて、空回りしやすい状態になっている。そこに、第四区画の特殊な魔法磁場が作用した」


 アリアの仮説は、物理法則と魔法世界の現象を見事に融合させたものだった。


 しかし、彼女の表情は晴れない。


「……だが、机上の空論だ。なぜ第四区画のあの橋の上だけで、そんな特異な力が秒針に働くのか。なぜ、その力は左回りの動きを生み出したのか。現場の磁場の流れを直接観測し、この時計との共鳴反応を確かめないことには、本当の『修理』とは言えない」


 アリアはそう言うと、作業机の引き出しから、外出用の小さな革製の工具カバンを取り出した。


 ピンセット、ルーペ、ドライバーセット、そして磁場を計測するための自作の簡易コンパス。それらを手際よくカバンに詰め込んでいく。


「おっ。アリア、もしかして……」


 ケリーの顔が、ぱあっと明るくなった。


「……案内しろ、ケリー。その第四区画の石橋とやらに。直接行って、この目で確かめる」


「よっしゃ! 任せとけ。俺がばっちり護衛してやるからな。路地裏の食べ歩きでもしながら行こうぜ!」


 大型犬のように尻尾を振る勢いで喜ぶケリーをよそに、アリアは無表情のまま工具カバンのバックルを締めた。


「……遊びに行くわけじゃない。これは検証作業だ。無駄口を叩くなら置いていく」


「わ、わかってるって。仕事の邪魔はしないよ」


「やれやれ、相変わらず色気のない嬢ちゃんじゃのう。ワシも久々に外の空気を吸いに行かせてもらうとするかの」


 シルクが呆れたように伸びをしながら、アリアの足元へとすり寄った。


 アリアは薄手のコートを羽織り、店の入り口へと向かった。


 ゴーン、と。


 その時、午後の空気を震わせて、遠くから王都の時計台の鐘が鳴った。


 やはり、その音は朝よりもさらに重く、くぐもって聞こえる。歯車の悲鳴が、アリアの耳には確かに届いていた。




 アリアは心の中でまたかと呟き、分厚いオーク材の扉を押し開けた。


 眩しい午後の陽光が、静寂に包まれた店内に一筋の光の道を引く。


 特定の場所で逆行する秒針。迷子になった時間。


 その謎を解き明かすため、無愛想な銀髪の時計師と、お節介な騎士見習い、そして知識豊富な黒猫の、小さな探索行が始まろうとしていた。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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