第4話:お節介な騎士見習いと、冷めた手作りスープ
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王都の空から鉛色の雲が去り、数日ぶりに気持ちの良い青空が広がった午後。
路地裏の石畳はすっかり乾き、水たまりの代わりに柔らかな陽だまりが落ちている。窓ガラスから差し込む午後の光が、店内の空気中に漂う微小な埃をキラキラと照らし出していた。
防音の魔法陣が張られた店内には、今日も無数の時計たちが刻む「チクタク」という駆動音だけが、静かな波のように満ち引きを繰り返している。
アリアは作業机に覆い被さるようにして、右目にルーペを嵌め込んだまま、ピンセットの先の一点だけを凝視していた。
彼女が今向き合っているのは、百年以上前に作られたという古い置き時計の脱進機だ。摩耗したアンクルの爪石を、特殊な接着剤であるシェラックを使って固定し直すという、極めて繊細な作業の真っ最中であった。
アルコールランプの青い炎で、極小の金属板を裏から炙る。シェラックが溶け出す温度と、爪石を動かすタイミング。コンマ数ミリのズレが、時計の精度を決定的に狂わせてしまう。
「……温度、よし。角度、三度修正。……ここで固定だ」
アリアの口から、呪文のような呟きが漏れる。
その横顔は冷徹な彫刻のように美しく、そして一切の感情を排していた。前世からの「時計職人」としての魂が、彼女の意識を顕微鏡下のミクロの世界へと完全に没入させているのだ。
「……おい、嬢ちゃん」
ふいに、足元からしわがれた声が聞こえた。
アリアはランプの火から部品を遠ざけ、ゆっくりと息を吐き出してから視線を落とした。
そこには、呆れたように尻尾を揺らす黒猫のシルクが、金色の瞳で彼女を見上げていた。
「……なんだ。今、いいところだったんだが」
「いいところじゃないわい。お前さん、昨日の夜から水を一口飲んだだけで、何も口にしとらんじゃろうが。このままでは、時計を直す前に自分の寿命のゼンマイが切れてしまうぞい」
「……食事など、後でいい。今はシェラックの硬化状態を確認するほうが先だ。人間は一食抜いたくらいで死にはしない」
アリアがぶっきらぼうに返し、再びルーペ越しに部品を覗き込もうとした、その時だった。
カランコロン、と。
重厚な真鍮のドアベルが、少し乱暴に鳴らされた。
分厚いオーク材の扉が軋みながら開くと、店内に外の明るい陽光と、微かな土の匂いが流れ込んでくる。
同時に、静寂に包まれていた時計店には到底似つかわしくない、大柄な人影が入り口を塞ぐようにして現れた。
「アリア! また昼飯、抜いてるだろ!」
店内に響き渡る、若くよく通る声。
入ってきたのは、王都の治安維持を担う騎士団の制服――動きやすい革鎧の上に青いマントを羽織った、長身の青年だった。
日に焼けた健康的な肌に、人懐っこさを感じさせる短い金髪。そして、大型犬を思わせるような、真っ直ぐで力強い琥珀色の瞳。
彼の名は、ケリー・ワイズマン。
王都騎士団に所属する騎士見習いであり、この路地裏の小さな時計店に頻繁に出入りする、奇妙な常連客の一人である。
「……うるさい。声が大きいぞ、ケリー。防音の結界が内側から破れる」
アリアはルーペを外し、心底鬱陶しそうに顔をしかめた。
「悪い悪い。でも、大声も出したくなるさ。シルクから、またお前が作業に没頭して飯を食ってないって聞いたからな。ほら、非番を利用して差し入れを持ってきたぞ」
ケリーは屈託なく笑うと、背負っていた革袋の中から、魔法文字が刻まれた円筒形の金属容器を取り出した。
「おや、若いの。ワシの伝言、ちゃんと届いておったか。助かるわい。この機械狂いの嬢ちゃんは、誰かが無理やりにでも口に食べ物を放り込まんと、一生あの机から動かんからな」
「おう、任せとけ、シルク。今日の非番は、こいつに飯を食わせるために使ってやるからな」
シルクとケリーは、まるで結託した親戚同士のようなやり取りを交わしている。アリアは小さくため息をつき、作業机の上の部品に埃除けのガラスカバーを被せた。
この大型犬のような騎士見習いは、一度言い出したら絶対に引き下がらないことを、アリアはこれまでの経験から嫌というほど学習していた。
「……私が何をいつ食べようと、勝手だろう。騎士見習いはそんなに暇なのか」
「暇じゃないさ。立派な騎士の務めだ。王都の誇る天才時計師が栄養失調で倒れたら、困るヤツがいっぱいいるだろ」
ケリーはカウンターの端にスペースを空けさせると、持参した金属容器の蓋を開けた。
プシュッ、という微かな排気音と共に、容器の表面に刻まれていた保温の魔法陣の光がふっと消える。
途端に、店内に満ちていた古い真鍮と機械油の匂いを押し退けるようにして、食欲をそそる濃厚な香りが広がった。
肉をじっくりと煮込んだスープの匂いだ。
ケリーは慣れた手つきで、持参した木製の深皿に容器の中身を注ぎ分けた。
琥珀色に透き通ったスープの中には、大きく乱切りにされた根菜と、ホロホロになるまで煮込まれた鶏肉がたっぷりと沈んでいる。表面には、香り付けのハーブが緑色のアクセントを添えていた。
「ほら、食え。昨日から仕込んでおいた特製のチキンスープだ。魔法容器に入れてきたから、まだ熱々だぞ」
ケリーはスプーンを添えて、アリアの目の前に皿を押し出した。シルクの前にも、小さな小皿に冷ましたスープが取り分けられている。
アリアは無言で皿を見つめた。
空腹感など感じていなかったはずなのに、湯気と共に立ち上る匂いを嗅いだ瞬間、前世から引き継いだ胃袋が、キュルルと小さく、しかしはっきりとした抗議の音を鳴らした。
「……ふっ」
ケリーが吹き出すのを堪えるように口元を覆う。
「……笑うな。生理現象だ」
アリアは不機嫌そうに目を逸らすと、スプーンを手に取り、観念したようにスープを口に運んだ。
熱い液体が喉を通って胃の腑に落ちると、冷え切っていた体の芯から、じんわりとした温もりが広がっていく。
鶏肉の旨味と、野菜から溶け出した優しい甘み。味付けは塩とハーブだけのシンプルなものだが、素材の味が極限まで引き出されており、驚くほど美味しい。
前世で病室の味気ない流動食ばかりを口にしていたアリアにとって、この世界の温かい家庭料理は、脳の奥を直接痺れさせるような暴力的な旨味を持っていた。
「……味は、悪くない」
アリアは表情を変えずにそう呟くと、黙々と二口目、三口目とスプーンを動かした。
「だろ? 俺の実家は昔から料理の味付けには厳しくてな。それに、お前みたいに細っこいヤツには、こういう消化に良くて栄養があるものを食わせないと駄目なんだ」
ケリーはカウンターに肘をつき、アリアがスープを飲む様子を、まるで手のかかる子供を見守るような、あるいは大切な宝物を眺めるような、ひどく甘い眼差しで見つめていた。
体格が良く、剣を振るうための筋肉が詰まった青年が、少女に対して母親のように世話を焼く姿は、客観的に見れば少し滑稽である。
しかし、ケリー本人は至って大真面目だった。
「全く……。こんなにデカくて剣の腕も立つというのに、中身は完全にお節介なオカンじゃな」
シルクが鶏肉を咀嚼しながら、呆れたように、しかし面白そうに言った。
「オ、オカンって言うなよ、シルク! 俺はただ、アリアが心配なだけで……その、なんだ。大事な友人だし……」
ケリーは慌てて顔を逸らし、日に焼けた頬をわずかに赤らめた。
彼がこの無愛想な銀髪の時計師に、友人以上の感情――明確な恋心を抱いていることは、長年人間を見てきたシルクの目には明らかだった。
休みのたびに理由をつけて店を訪れ、手作りの料理を差し入れ、彼女が時計に向かう横顔を眩しそうに見つめている。その不器用で真っ直ぐな好意は、あまりにも分かりやすい。
しかし。
「……塩加減が少し強い。次は岩塩の量を二グラム減らせ。その方が、根菜の甘みが引き立つ」
当の本人であるアリアは、ケリーの恋心になど微塵も気付いていなかった。
彼女の脳内は、常に時計の構造と物理法則で満たされている。他人の感情の機微など、ましてや自分に向けられた恋愛感情など、時計の精度には一切関係のないノイズに過ぎないのだ。
アリアは空になった皿を乱暴に押し返すと、すぐに視線を作業机の上のガラスカバーへと戻した。
「……ごちそうさま。食べたから、もういいだろう。早く帰れ。接着剤が硬化してしまう」
「おいおい、食ったらすぐ作業に戻るのかよ。少しは休んで、腹ごなしの雑談でもしようぜ。せっかく会いに来たんだからさ」
ケリーが泣きそうな顔で抗議するが、アリアはすでに右目にルーペを嵌め直そうとしていた。
シルクが「やれやれ、見事な片思いじゃ」と小さく笑う。
ゴーン、と。
その時、王都の大時計台が正午を知らせる鐘を鳴らした。
分厚い壁越しに届くその音は、やはりどこかくぐもって、本来の澄んだ響きを失っている。
アリアは一瞬だけルーペを持つ手を止め、窓の外の空を見上げた。
「……また、少し音が濁ったか。ガンギ車の摩耗が想定より早いかもしれない」
「ん? 大時計台がどうかしたか? 俺には普通に聞こえるけど」
ケリーが不思議そうに耳を澄ませるが、魔法で動いていると信じ込んでいる彼に、物理的な歯車の悲鳴が聞こえるはずもない。
「……何でもない。素人には関係のないことだ」
アリアは興味を失ったように視線を戻した。時計台の修理など、今の自分にはどうすることもできない。目の前の小さな部品を完璧に仕上げることこそが、今の彼女のすべてだった。
「まあ、いいけどさ」
ケリーは少し残念そうに肩をすくめると、魔法容器を片付け始めた。
しかし、その動きがふと止まる。彼は何かを思い出したように、革鎧の懐をごそごそと探り始めた。
「そうだ、アリア。今日来たのは、飯を食わせるためだけじゃないんだ。パトロールの途中で、変なものを拾ってな。お前なら、何かわかるんじゃないかと思って」
「……変なもの?」
アリアの眉がピクリと動く。時計以外のガラクタなら追い返すつもりだった。
しかし、ケリーの手からカウンターの上に置かれたものを見て、彼女の青い瞳の色が変わった。
それは、真鍮製の無骨な懐中時計だった。
装飾は一切なく、実用性だけを求めたようなシンプルなデザイン。文字盤のガラスは細かい傷で濁っている。
「……ただの安い懐中時計だ。これがどうかしたのか」
「それがさ。この時計、普通に動いてはいるんだけど……『特定の場所』に持っていくと、秒針がおかしな動きをするんだよ」
ケリーは真剣な顔で、懐中時計の文字盤を指さした。
「秒針が、逆行するんだ」
「……逆行?」
アリアの低い声が、店内に響いた。
時計の針が逆行する。それは、物理的な歯車の構造上、絶対にあり得ない事象だ。ゼンマイの力は一方向にしか解放されない。もし逆向きの力がかかれば、脱進機のアンクルが噛み合い、時計は「止まる」はずなのだ。
「……面白い」
アリアはルーペをしっかりと右目に固定し、吸い寄せられるようにその懐中時計を手にとった。
先ほどまでの無愛想な少女の気配は消え失せ、底知れぬ探求心を覗かせる「天才時計職人」の顔がそこにあった。
「持ってこい。徹底的に調べる」
ケリーは、その生き生きとしたアリアの横顔を見て、嬉しそうに目を細めた。
自分が持ち込んだ謎が、彼女の止まっていた時間を少しだけ動かしたような気がしたからだ。
お節介な騎士見習いと、前世の狂気を宿した時計師。
彼らが挑む新たな謎が、静かな店内でゆっくりとゼンマイを巻き上げ始めていた。
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