第2話:白亜の港町と、海鮮オカン飯
ガタゴトと心地よい揺れを繰り返していた乗合馬車が、緩やかな坂道を上りきったところでピタリと止まった。
「アリア、着いたぞ! 見てみろよ!」
御者台の隣から顔を覗かせたケリーが、子どものように瞳を輝かせて叫んだ。
アリアは膝の上で丸くなっていたシルクを抱き上げ、馬車の窓からそっと外を見やる。
「……眩しいな」
視界いっぱいに広がっていたのは、見渡す限りの群青色の海と、真白な石灰岩で建てられた家々が斜面に立ち並ぶ美しい街並みだった。
南の太陽が水面を照らし、まるで打ち砕かれたダイヤモンドを撒き散らしたかのようにキラキラと輝いている。風に乗って運ばれてくるのは、王都の煤煙と湿気を含んだ雨の匂いとは真逆の、甘やかでどこか塩っぽい潮の香りだ。
「ここが『アルト・マリーナ』……南の港町か」
「フム、悪くない風情じゃな。潮風が少々毛並みに障るが、街全体に活気があっていい」
シルクがアリアの腕の中で鼻を鳴らし、のんびりと目を細める。
馬車を降り、石畳の広場へと足を踏み入れると、港町特有の賑やかな喧噪が三人(二人と一匹)を包み込んだ。
市場には獲れたての魚介類や色鮮やかな南国の果物が山と積まれ、露店商たちの威勢のいい声援が飛び交っている。大きな帆を張った交易船が港を行き交い、上空では海鳥たちが優雅に風に乗って輪を描いていた。
「よし! まずは宿の確保と……何はともあれ昼飯だな!」
「……ケリー。私たちはバカンスに来たわけではない。荷物を置いたらすぐにでも港の聞き込みと、星図パーツの磁気測定を……」
「だーめーだ。一週間も馬車に揺られて、お前の体はもうガチガチだろ。ちゃんと美味いもん食って体力を戻してからじゃないと、精密作業なんてできやしないぞ」
ケリーはアリアの背中に背負われた巨大な革製の工具箱を「俺が持つ」と言って軽々と取り上げ、片手で自分の大荷物と一緒に担ぎ上げた。
相変わらずの力持ちであり、相変わらずのお節介だ。アリアは「勝手にしろ……」と小さく呟くことしかできなかった。
港を臨む高台にある小さな旅籠に荷物を預けた後、ケリーは「ちょっと市場で食材を仕入れてくる!」と言い残して飛び出していった。
この男は旅先であっても、出来合いの宿の飯に満足せず、自分で地元の食材を手に入れて厨房を借りて料理する気満々らしい。
「やれやれ……相変わらず料理のことになると目がない男じゃな」
「……全くだ。だが、あいつの手際と衛生管理は一流だからな。文句は言えん」
アリアは部屋の作業机に星図時計のパーツを並べ、前世の記憶にある精密な測定器(簡易的な分光器や磁尺)の代わりに、ルーペと自作の磁針をかざして調査を始めた。
やはり、この町へ近づくにつれてパーツ内部の超微少な地磁気反応が強くなっている。この海域のどこかに、このパーツと共鳴する巨大な「対のメカニズム」が存在しているのは間違いなかった。
それから一時間ほど経った頃——。
「おーい! アリア、シルク! 飯ができたぞ!」
厨房から漂ってくるえも言われぬ香ばしい匂いと共に、ケリーが木製のトレーを抱えて部屋へ戻ってきた。
トレーの上に並べられているのは、王都では見たこともない豪勢で色鮮やかな料理の数々だ。
「ふふん、宿の女将さんに頼み込んで厨房を借りたんだ。市場で獲れたての活魚とエビ、ハーブを手に入れてな。海の街の特製メニューだ!」
ケリーが誇らしげに料理を解説する。
「まずは『赤魚と地中ハーブの香草焼き』。レモンとオリーブオイル、それに白ワインでソテーしてある。それから、こっちは『手長エビと貝類の濃厚ポタージュ』だ。海老の殻と出汁をじっくり煮詰めて、生クリームで仕上げた。パンに浸して食うと飛ぶぞ」
「ホウ! ワシの分は……おお、この白身魚のオイル蒸しか! 塩加減が絶妙で香ばしい匂いがするわい!」
シルクは待ってましたとばかりに自分の皿に飛びつき、一口食べて「美味い! これは王都の川魚とは比べものにならん!」と歓声をあげた。
アリアも促されるまま匙を取り、手長エビの濃厚ポタージュを一口すくって口に運んだ。
「……ッ」
濃厚なエビの旨味と香ばしさが、生クリームのまろやかさと共に一気に口の中に広がっていく。ハーブの爽やかな香りが生臭さを完全に消し去っており、後味は驚くほど上品だ。
続いて、ナイフを入れるとパリッと香ばしい音を立てる赤魚の香草焼きを口にする。身はふわふわと柔らかく、凝縮された海の塩気とレモンの酸味が絶妙なハーモニーを奏でていた。
「……どうだ、アリア?」
ケリーが期待に満ちた大型犬のような目で、じっとアリアの顔を覗き込んでくる。
「……不味くはない。焼き加減も、香草による臭み消しの処理も、熱力学的に妥当な調理法だ」
「素直に『すごく美味しい』って言えないのかねぇ、この子は」
ケリーは苦笑しながら、アリアが勢いよくパンをポタージュに浸して頬張る姿を見て、満足そうに目を細めた。
ふと、アリアはスープを飲む手を緩め、思い出したように目の前の青年を見た。
「……そういえばケリー。お前、こんなところまでついてきて、騎士団の仕事は大丈夫なのか? 何週間も王都を空けて、後で懲罰でも受けるんじゃないだろうな」
「なんだ、心配してくれてるのか? 大丈夫だって、俺はこれでもちゃんとお仕事中(公務中)なんだから」
ケリーは胸を張り、制服のポケットから丁寧に折りたたまれた革ケース入りの書状を取り出してみせた。
「ほら、これ。『王立騎士団・特別護衛命令書』だ。あの大時計台を一人で修理したあと、お前の噂を聞きつけた貴族どもが強引にスカウトしようと店に押し寄せてただろ? 王城の上層部も『あの天才時計師を不審な勢力や他国に奪われたら大変だ』って焦ってさ。だから『アリアの身辺警護兼、王都外での専属護衛』の特命を俺に正式に出してくれたんだよ」
「ほう。単なる押し掛けお世話係かと思っておったが、一応は公式なお守り役というわけか」
シルクが魚の身を食みながら、横からからかうように鼻を鳴らす。
「お守り役って言うな! これでもワイズマン家の名にかけて、超重要人物の安全を確保する名誉ある任務なんだぞ! ……まあ、お前が王都の不自由なお抱え技師にならずに済んで、俺も堂々と美味いもん探しの旅に同行できるんだから、お互い万々歳だろ?」
「……要するに、公務を盾に旅先で美味いものを食いたいだけだろう」
アリアは呆れたように息を吐いたが、彼が処分を受ける心配がないと分かって内心胸を撫で下ろしていた。
「まあな! それに……お前がどんな危険や難題にぶち当たっても、俺が盾になって守ってやる。だから焦らず、じっくりやろうぜ」
「……頼んだ覚えはない」
そっけなく返しつつも、アリアは温かいポタージュの温度とは違う、胸の奥の小さなぬくもりを感じていた。
前世では、たった一人で狭い工房に閉じこもり、孤独の中で機械と向き合い続けていた。だが今はこのうるさい騎士と、口の悪い黒猫が隣にいる。
「……ごちそうさま。明日は朝から港へ向かうぞ、ケリー」
「おう! 任せとけ!」
南の海での最初の一夜。
静かな波の音と、規則正しいチクタクという懐中時計の針の音が溶け合いながら、アリアたちの新しい旅の時間が刻まれていった。




