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エピローグ:黒猫の観察日記と、未来を刻む星図時計



 王都の空に、透き通るような黄金の響きが広がり始めたのは、あの夜明けからのことじゃ。


 大時計台の鐘の音が本来の美しさを取り戻してからというもの、この街の空気はどこか晴れやかになったように感じる。道行く人々の足取りは軽く、朝の挨拶にも活気が戻ってきた。百年にわたるくぐもった沈黙の時代が終わり、ようやく王都の人々に正しい時間が流れ始めたのじゃろう。


 王城の連中や一部の貴族たちは、あの巨大な鉄の化け物を息を吹き返させたのが、第一区画の路地裏に住む平民の小娘だと聞きつけ、連日のように馬車を仕立てて押し寄せてきそうになった。


 じゃが、そこはあの大型犬の出番というわけじゃ。


 ワイズマン子爵家の血を引く騎士見習い、ケリー・ワイズマン。普段は人の良いヘラヘラとした青年じゃが、ことアリアの平穏を脅かす輩に対しては、その屈強な体躯と鋭い眼光で容赦なく立ち塞がる。


「彼女は王都の時間を救った恩人です。恩人の休息を邪魔するような無粋な者は、たとえ貴族であろうと騎士団の権限においてお引き取り願います」


 そう言って店の前の路地を塞ぐ彼の姿は、まさしく忠実な番犬そのものじゃった。おかげで、この小さな時計修理店は、外界の喧騒から完全に切り離された穏やかな結界としての機能を保ち続けておる。


 ストーブの中で爆ぜる石炭の赤い炎。乾燥した空気を潤す鉄瓶の湯気。そして、壁際に並べられた無数のアンティーク時計たちが奏でる、チクタク、チクタクという規則正しい生命の和音。


 ワシは特等席であるストーブの前のクッションで丸くなりながら、半目を開けて店の主を観察した。


 銀色の髪を後ろで無造作に束ねた十五歳の少女、アリア。


 彼女は今日も変わらず、作業机の前に座り、持ち込まれた市井の人々の安価な時計を淡々と直し続けている。時計台の英雄になろうが、貴族からの大金積みの依頼が来ようが、彼女の態度は微塵も変わらない。彼女にとって時計の価値とは、持ち主がどれだけその時間を大切にしているか、その一点に尽きるからじゃ。


 じゃが、付き合いの長いワシの目から見れば、あの鉄面皮の少女にも、ほんの僅かながら「人間らしい」変化が現れ始めておるのがわかる。


 以前の彼女は、まるで過去の亡霊に取り憑かれた機械のように、ただ目の前の壊れた時計を直すことだけに存在意義を見出していた。自分の食事や睡眠すら疎かにし、他人の時間を刻む道具に己の命を削って捧げているような、危ういほどの献身じゃった。


 しかし、大時計台に仕組まれた百年前の祈りに触れ、それを解放したことで、彼女の心の中に凝り固まっていた死への強迫観念が、少しだけ解けたのやもしれん。


 その証拠に、今日の彼女は作業の合間に自ら立ち上がり、厨房でお湯を沸かして急須に茶葉を入れ始めたのだ。


 カモミールとペパーミントを独自にブレンドした、彼女お手製のハーブティーじゃ。前世の知識とやらで調合したらしいが、これがまた疲れた身体によく染み渡る。以前なら、ケリーが無理やりにでも休憩させない限り、水分補給すら忘れていたというのに。


 コトリ、とワシの鼻先に小さな陶器の小鉢が置かれた。中には温められたミルクが注がれておる。


「……乾燥で喉の粘膜がやられているようだからな。適度な乳脂肪分で保護しておけ」


 アリアは無表情のまま、理屈っぽい言い訳を添えてワシの頭を軽く撫でた。


「やれやれ、素直に労わってくれればよいものを。ありがたく頂戴するわい」


 ワシがミルクを舐め始めたその時、店の分厚いオーク材の扉が控えめにノックされた。


 ケリーが来るにはまだ早い時間じゃ。ワシが警戒して耳をそばだてると、扉の隙間から滑り込んできたのは、見知らぬ配達人の少年じゃった。


「あの、時計修理店のアリアさんで間違いないでしょうか。これを、預かってきまして」


 少年がカウンターに置いたのは、年季の入った古びた木箱じゃった。両手で抱えるほどの大きさで、表面には複雑な意匠の金具が打ち付けられている。


「……差出人は?」


「それが、わからないんです。市場の入り口で、フードを目深に被った背の高い人物から、銀貨一枚と一緒にこれを言付かりまして。絶対にこの店に届けてくれとだけ」


 少年はそれだけ言うと、そそくさと店を出て行ってしまった。


 ワシは木箱の周囲を歩き回り、鼻を近づけて魔力の気配を探った。


「……爆発物や呪いの類ではないようじゃな。魔力の残滓も感じられん。純粋な物理的な荷物じゃ」


「……そうか」


 アリアは革手袋をはめ、慎重な手つきで木箱の留め金を外した。ギギィ、と乾いた音を立てて蓋が開く。


 その中身を見た瞬間、アリアの青い瞳が驚愕に見開かれた。


 木箱の中に厳重な緩衝材に包まれて収まっていたのは、鈍い金色の輝きを放つ、未知の金属部品の数々じゃった。


 それは懐中時計や置き時計の部品ではない。複数のリングが天球儀のように交差し、その内側に複雑な目盛りと、ワシら魔法使いが天体観測に用いるようなルーン文字がびっしりと刻み込まれている。


「……これは、星図時計か? いや、アストロラーベの発展型……?」


 アリアの口から、ワシにもよくわからない専門用語が漏れ始めた。彼女は過集中モード特有の早口になりながら、極細のピンセットで部品の一つを慎重につまみ上げた。


「信じられない。三次元的な天体運動を、平面の歯車の噛み合いだけで演算しようとしている。この太陽歯車と遊星歯車の比率……摩擦係数を無視できるほどの硬度を持つこの金属はなんだ。チタン合金……いや、この世界の独自の鉱石か。王城の魔法技師の持ち物ではない。前世の地球にも、こんな異常な設計の機械は存在しなかった」


 アリアは右目にルーペを嵌め込み、完全に木箱の中身の虜になっておった。その横顔は、新しい玩具を与えられた子供のように、純粋な知的好奇心で輝いている。


 過去の時計を直すだけでなく、見たこともない未来の、あるいは未知の技術に触れたことで、彼女の時計職人としての魂が激しく揺さぶられているのじゃろう。


「嬢ちゃん。底の方に、まだ何か入っておるぞ」


 ワシが前足で示すと、アリアは部品の隙間から、小さなビロードの袋を取り出した。


 中から出てきたのは、非常に美しい装飾が施された、純銀製の懐中時計用チェーンじゃった。各節が緻密な透かし彫りで繋がれており、美術品と言っても差し支えないほどの見事な造形じゃ。


「……時計の部品とは関係のない、装飾品だな。なぜこんなものが一緒に」


 アリアが首を傾げた、まさにその時じゃった。


 カランコロン、と。


 いつも聞き慣れた、元気の良いドアベルの音が店内に響いた。


「アリア、シルク! 邪魔するぞ。今日の午前の訓練、思いっきりしごかれて腹ペコだ。一緒に飯にしようぜ!」


 冬の冷たい空気と共に転がり込んできたのは、予想通りケリー・ワイズマンじゃった。彼の大きな手には、いつものように魔法容器が提げられている。


「今日は市場で新鮮なリンゴが手に入ったからな。チキンと冬野菜のシチューに、食後のデザートとしてアップルパイを焼いてきたんだ。砂糖を少なめにして、シナモンをたっぷり効かせた自信作だぞ」


 大型犬のように尻尾を振らんばかりの勢いでカウンターに魔法容器を並べるケリー。その無骨な男の手から、どうしてあれほど繊細で美味な料理が生み出されるのか、ワシにも永遠の謎じゃ。


 アリアは木箱の蓋をパタンと閉め、手袋を外して立ち上がった。


「……ちょうど、湯を沸かしていたところだ。アップルパイの脂質と糖分を分解するには、消化酵素の分泌を促す温かい飲み物が必要だからな」


 アリアはそう言って、先ほど淹れたばかりのハーブティーを、ケリーの分のティーカップにも注いでカウンターに置いた。


 カモミールの甘い香りと、ペパーミントの爽やかな香りが、シチューの匂いと混ざり合って店内に広がる。


 ケリーは目を丸くして、ティーカップとアリアの顔を交互に見比べた。


「ア、アリア……。これ、お前が俺のために淹れてくれたのか?」


「……勘違いするな。お前が胃もたれを起こして助手の機能に支障を来されては困るから、予防策として用意したに過ぎない。知識に基づく、純粋な医学的アプローチだ」


 アリアはそっぽを向きながら、早口で言い訳を並べ立てた。その白くて小さな耳の裏が、ほんのりと赤く染まっているのを、ワシは見逃さなかった。


「ははっ、そっか。ありがとう、アリア。すげえ良い匂いだ」


 ケリーは本当に嬉しそうに破顔し、大きな手でティーカップを包み込むようにして持ち上げた。その真っ直ぐで嘘のない笑顔は、アリアの理屈っぽい鎧をいとも容易く貫通してしまう。


 三人の穏やかなお茶会が始まった。


 シチューは相変わらず絶品で、アップルパイのサクサクとした食感とシナモンの香りは、ハーブティーとの相性が抜群じゃった。アリアも無言でフォークを進め、その食べるスピードの速さが、彼女なりの最大の賛辞であることをケリーもすっかり理解しているようじゃった。


 食事が終わり、ケリーが満足そうに息をつきながら、自身の革鎧の内側から古い真鍮製の懐中時計を取り出した。時間を確かめるためじゃろうが、その時計を繋いでいる革製の紐は、長年の使用で端がすり切れ、今にも千切れそうになっていた。


 その紐を見た瞬間、アリアの眉がピクリと動いた。


「……ケリー。時計を貸せ」


「え? ああ、時間は合ってると思うけど」


 ケリーが不思議そうに懐中時計を差し出すと、アリアはそれを受け取り、無言のまま先ほどの木箱のビロードの袋から、あの美しい銀のチェーンを取り出した。


 そして、チャキ、カチリ、と素早い手つきで千れかけの革紐を外し、代わりにその重厚な銀のチェーンを懐中時計の環にしっかりと取り付けたのじゃ。


「な、なんだそれ。すごく綺麗な銀細工じゃないか。どうしたんだ?」


「……お前のその安っぽい革紐では、引張強度が限界を超えている。いつ切れて時計が落下し、物理的な破損を招くかわからない」


 アリアは銀のチェーンが繋がれた懐中時計を、ケリーの大きな手のひらに押し付けるようにして返した。


「私は時計職人だ。私の助手が、時計の落下リスクを放置するような機能性の低いものを身につけていては、店の信用問題に関わるからな。……これは、そのための先行投資だ。ありがたく使え」


 アリアはそれだけ言うと、顔を背け、再び木箱の星図時計の部品の解析へと逃げるように戻ってしまった。


 ケリーは手のひらに乗せられた銀のチェーンの冷たい感触と、その奥に込められた不器用な優しさに触れ、顔をストーブの火よりも真っ赤にして固まっておった。


「あ……お、おう。大事にする。絶対、落とさないようにするよ……っ!」


 ケリーが震える声でそう絞り出すと、背を向けたアリアの肩が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。


「やれやれ。理屈でコーティングせねば贈り物一つ渡せんとは、難儀な性格じゃのう」


 ワシはクッションの上で伸びをし、喉をゴロゴロと鳴らした。


 窓の外では、王都の空に再び午後を知らせる澄み切った鐘の音が鳴り響いていた。


 差出人不明の木箱がもたらした、未知なる星図時計の謎。


 世界にはまだまだ、アリアの知的好奇心を刺激する、解き明かされるべき物理の迷宮が数多く眠っているのじゃろう。


 じゃが、焦ることはない。


 過去の亡霊だった少女は、ようやく今、自分のための時間を刻み始めたばかりなのだから。


 ストーブの温かな熱と、アンティーク時計たちのチクタクという優しい駆動音。


 不器用な天才時計職人と、真っ直ぐな大型犬騎士、そしてワシの、騒がしくも心地よい新しい日常が、こうして静かに、確かに進んでいくのじゃった。


最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


一部はこれで完結です。

次のお話は……しっかりプロット練ってからになりますのでそれまでは完結とさせていただきます。


またアリアやシルク、ケリーに会える日をお待ちください。


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