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第40話:朝焼けの王都に響く真の音。そして、静かな店は今日も時を刻む



 王都の空を切り裂くように放たれた、六回目の鐘の音。


 その純粋で圧倒的な物理的共鳴は、巨大な青銅の鐘と鋼鉄のハンマーが寸分の狂いもなく激突したことによってのみ生み出される、奇跡のような黄金の響きだった。


 百年の間、分厚い埃と「嘆きの水晶」によって封じ込められていた真の音が、冬の澄み切った大気を震わせ、同心円状に広がっていく。広大な広場を抜け、石畳のメインストリートを走り、貴族の豪奢な屋敷の窓ガラスを微かに震わせ、そして入り組んだ路地裏の奥深くにまで、等しく、そして優しく降り注いでいった。


 大時計台の最上部、すりガラスの文字盤を通して差し込む朝焼けの光は、紫色から茜色、そして燃えるような黄金色へと劇的な変化を遂げていた。


 その眩い光の中で、磨き上げられた巨大な真鍮の歯車たちは、誇らしげに黄金の輝きを放ちながら、チク、タク、と滑らかで力強い鼓動を刻み続けている。


「……終わった。完璧な歩度だ。これなら、向こう十年間は大規模なメンテナンスを必要としないだろう」


 アリアは外套の懐に銀色の懐中時計をしまい込み、静かに息を吐き出した。


 徹夜の作業で、彼女の銀色の髪には微かな煤がつき、白い頬にも油の汚れがついていた。しかし、その青い瞳はかつてないほどに澄み渡り、深い達成感と、過去の職人への敬意に満ちていた。


「すごいよ、アリア……。本当に、すごい」


 少し離れた足場で、ケリーはまだ鐘の音の余韻に酔いしれたように立ち尽くしていた。


 彼の耳には、まだあの黄金の響きが残っている。いや、耳だけではない。彼の魂の奥底までが、あの純粋で美しい音色によって揺さぶられていた。


 ケリーは、朝陽に照らされるアリアの横顔を見つめた。


 冷徹なまでに物理法則を信奉し、常に無表情で、人間よりも機械の心に寄り添おうとする風変わりな少女。彼女は昨夜、数トンの鉄の塊に押し潰される危険を冒してまで、百年前の設計者が残した哀しい祈りを見つけ出し、そしてその悲しみを終わらせてみせた。


 巨大な歯車の迷宮を登り、汚れにまみれながらも、機械への限りない慈愛を持って接するその姿。


 ケリーの胸の奥で、これまで「放っておけない」という庇護欲だと思っていた感情が、全く別の熱を帯びて膨れ上がっていくのを感じた。


 ただ守りたいだけではない。彼女の隣に並び立ち、彼女が見ている美しい物理の法則と、その向こう側にある優しさを、ずっと一番近くで見届けていたい。


「……アリア」


「なんだ」


 アリアが振り返る。朝陽を背に受けた彼女の姿は、逆光になって表情が読み取れないが、その凛とした佇まいは、ケリーの網膜に深く、そして鮮烈に焼き付いた。


「俺……お前の助手になれて、本当によかった。これからも、ずっとお前のそばで、その工具鞄を持ち続けたい。お前がどんな巨大な時計を直す時でも、俺が絶対にお前の足場になってみせるから」


 それは、大柄な騎士見習いの青年が、初めて明確に「恋心」を自覚し、無意識のうちに口にした、不器用で真っ直ぐな誓いの言葉だった。


 アリアは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにいつもの涼涼とした表情に戻った。


「……大げさだな。だが、お前のその無駄に有り余る筋力と体力は、確かに私の作業効率を飛躍的に向上させた。今後の修理においても、優秀な運搬装置兼、動力源として重宝させてもらうとしよう」


 アリアの相変わらずの「機能評価」としての返答に、ケリーは肩をすくめて苦笑した。しかし、彼の琥珀色の瞳には、もう迷いはなかった。


「やれやれ、若いというのは眩しいものじゃのう」


 二人のやり取りを、少し高い梁の上から見下ろしていた黒猫のシルクが、喉をゴロゴロと鳴らして髭を揺らした。


「鈍感な時計職人と、不器用な大型犬。この先、どうなることやら……。まあ、ワシは暖かい特等席で、ゆっくりと見物させてもらうとしようかの」


「……シルク、何か言ったか?」


「いやいや、独り言じゃよ。さあ、嬢ちゃん、ケリー。そろそろ下へ降りようではないか。いつまでもここにおっては、あのプライドばかり高い魔法技師どもが、ヒステリーを起こして塔ごと吹き飛ばしかねんからな」


「……そうだな。仕事は終わった。帰ろう」


 アリアは革鞄をしっかりと閉じ、ケリーへと手渡した。


 三人は、再び巨大な歯車の迷宮を、今度は下へ向かって慎重に降りていった。


 塔の最下層、分厚い鉄の扉の前に辿り着いた時、外からはすでに信じられないほどの喧騒が聞こえてきていた。


 重い扉をケリーが力任せに押し開けると、冷たい冬の朝の空気と共に、広場を埋め尽くさんばかりの群衆の歓声が押し寄せてきた。


「動いた! 時計台が動いたぞ!」

「なんて美しい鐘の音なんだ……。俺、こんな音、生きてきて一度も聞いたことがない!」

「呪いが解けたんだ! 王都の時間が戻ってきた!」


 人々は皆、満面の笑みを浮かべ、空高くそびえる大時計台を見上げていた。抱き合って喜ぶ商人、安堵の涙を流す老婦人、はしゃぎ回る子供たち。時間が止まったことによる昨日のパニックが嘘のように、王都の街には活気と希望が満ち溢れていた。


 時計台の入り口を封鎖していた近衛兵たちも、呆然として空を見上げている。


 そして、その傍らに設営されていた魔法技師団のテントの前では、第一席のルキウスが、膝から崩れ落ちて真っ白に燃え尽きたような顔をしていた。


 彼らがいくら魔法を撃ち込んでも直らなかった時計台が、たった数時間、一人の平民の少女が入り込んだだけで、完全に息を吹き返したのだ。しかも、百年間誰も聞いたことのなかった、真の美しい音色と共に。


 魔法の無力さと、純粋な物理技術の圧倒的勝利。もはや、ルキウスが何を言い訳しようと、この王都に響き渡った鐘の音が、すべての真実を物語っていた。


「……行くぞ、ケリー」


 アリアは、歓喜に沸く群衆にも、絶望する魔法技師にも一切の興味を示すことなく、フードを深く被って人混みの中へと紛れ込んでいった。


「あ、おい待ってくれよ、アリア!」


 ケリーは慌てて工具鞄を抱え、彼女の小さな背中を追いかけた。シルクも、ケリーの肩に飛び乗って器用にバランスを取る。


 誰の賞賛も求めない。英雄として名乗り出ることもない。


 彼女はただ、時計職人として、止まっていた時計を直しただけなのだから。


 大通りから裏通りへ、そしてさらに人気のない入り組んだ路地裏へと進むにつれて、王都の喧騒は少しずつ遠ざかっていった。


 見慣れた古いレンガ造りの建物の隙間。そのどん詰まりにある、分厚いオーク材の扉。


 アリアは鍵を取り出し、カチャリと音を立てて扉を開けた。


 カランコロン。


 控えめで優しいドアベルの音が、三人を迎え入れる。


 冷え切った外気とは対極にある、石炭ストーブの残熱が微かに残る、温かく静かな空間。


 チクタク、チクタク。


 壁に掛けられた無数のアンティーク時計たちが、主の無事の帰還を喜ぶように、規則正しい和音を奏でていた。


「……はあ、疲れた。徹夜で巨大な鉄の塊と格闘するなんて、騎士団の地獄の訓練よりキツかったぜ」


 ケリーは工具鞄をカウンターの隅にそっと置き、大きな体を伸ばしてバキバキと関節を鳴らした。


「じゃが、良い顔をしておるぞ、若僧。お前さんの筋肉も、ようやく本来の正しい使い道を見つけたようじゃな」


 シルクがケリーの肩からカウンターへと飛び降り、いつもの定位置であるストーブの前のクッションへと向かって丸くなる。


「……二人とも、ご苦労だった。お前たちのサポートがなければ、あの巨大な質量を物理的に制御することは不可能だった。感謝する」


 アリアは外套を脱ぎ、帽子を取って銀色の髪を揺らした。無表情な言葉ではあったが、その声音には、確かな温もりと労いの響きが含まれていた。


「へへっ、どういたしまして」


 ケリーは照れくさそうに鼻の下を擦り、ふと思い出したように手を叩いた。


「そうだ、アリア! 朝飯にしよう。昨日、時計台に乗り込む前に作っておいたスープが、魔法容器の中でまだ温かいはずだ。徹夜明けの胃袋には、優しいものが一番だからな」


 ケリーは店の奥のテーブルに向かい、持参していた保温用の魔法容器の蓋を開けた。


 ふわりと、店内に濃厚で甘い香りが広がる。


「今日は、冬の白菜とカブをトロトロになるまで煮込んだ、クリームポタージュだ。ベーコンの旨味も溶け込んでるから、栄養満点だぞ」


 ケリーが木製の深皿にポタージュを注ぎ、こんがりと焼いたライ麦パンを添えてアリアの前に置く。


 アリアは作業机の椅子に腰掛け、湯気を立てる白いスープを見つめた。


 時計の油と鉄の匂いにまみれた徹夜明けの体に、その優しい食べ物の香りが、暴力的なまでの食欲を喚起させる。アリアの小さなお腹が、キュルルと可愛らしい音を鳴らした。


「……気温低下と極度の疲労による、血糖値の低下だ。胃壁の収縮運動が、物理的な音を発生させているに過ぎない」


 アリアは微かに耳の裏を赤くしながら、いつものように理屈っぽい言い訳を口にし、スプーンを手に取った。


 熱いポタージュを一口、口に運ぶ。


 白菜の自然な甘みと、カブの滑らかな舌触り。クリームの濃厚なコクが、徹夜で冷え切った内臓の隅々にまでじんわりと染み渡っていく。


「……味は悪くない。乳脂肪分の乳化が完璧に行われており、口当たりが極めて滑らかだ。塩分濃度も、発汗によって失われたミネラルを補給するのに最適な数値を保っている」


 アリアは抑揚のない声で機械的な評価を下したが、スプーンを動かす手は止まらず、あっという間にポタージュを喉へと流し込んでいく。


「ははっ、最高の褒め言葉として受け取っておくよ。しっかり食って、今日は夕方まで泥のように眠るといい。店の見張りは、俺とシルクでやっておくからさ」


 ケリーは自分の分のスープを飲みながら、目を細めてアリアを見守った。


 アリアはパンをスープに浸しながら、ふと、窓の外を見た。


 すりガラス越しに、完全に昇り切った冬の太陽の光が、店の奥まで明るく差し込んでいる。


 前世の地球で、病室の天井を見つめながら死を待っていた頃。


 自分がいなくなれば、自分が直した時計たちもいつか止まってしまう。自分が生きた証は、何も残らない。その孤独と恐怖が、常に彼を苛んでいた。


 しかし、今世で新しい命を得た彼女は、もう孤独ではなかった。


 自分の持つ物理法則への偏愛を、決して「狂気」だと笑わず、純粋に美しいと肯定してくれる真っ直ぐな青年がいる。数百年を生き、人間の歴史の裏側を知る賢い使い魔の黒猫がいる。


 彼らがいれば、どんなに巨大で、絶望的に止まってしまった時間でも、必ず再び動かすことができる。


 百年前の設計者、エドワルドが残した悲しい祈りを終わらせ、王都の空にあの美しい鐘の音を響かせることができたように。


「……美味しい」


 アリアの口から、無意識にこぼれ落ちたその言葉。


 それは、成分の分析でも物理的な評価でもない。十五歳の少女としての、純粋で、温かい感情の発露だった。


「え?」


 ケリーが驚いて顔を上げる。


「……このスープは、美味しい。いつも、ありがとう、ケリー」


 アリアは空になった皿を置き、青い瞳を真っ直ぐにケリーに向けて、ごく僅かに、その形の良い唇の端を吊り上げて微笑んだ。


 その瞬間、ケリーの顔が、ストーブの火よりも赤く染まった。


「あ、お、おう……っ! 気にすんな! 俺はアリアの専属助手で、専属のスープ担当だからな! いくらでも作ってやるよ!」


 ケリーは激しく動揺しながら、照れ隠しのように空の鍋を片付け始める。


 その様子を、シルクが「やれやれ」と尻尾を揺らしながら見守っていた。


 王都の片隅にある、小さな時計修理店。


 外の世界では、魔法の権威が失墜し、新しい技術の波が押し寄せようとしているかもしれない。これから先も、様々な思いを抱えた時計たちが、この店の扉を叩くことだろう。


 しかし、この静かで温かい空間の空気は、決して変わることはない。


 アリアは紅茶の入ったカップを手に取り、作業机の前に座った。


 目の前には、持ち主のいない美しいアンティーク時計たちが、静かに時を刻んでいる。


 チクタク、チクタク。


 その規則正しい音は、彼女がこの世界で生きているという確かな証であり、そして、明日へと続く希望の足音でもあった。


 銀髪の天才時計職人は、右目にルーペを嵌め込み、新たな一日を刻み始める時計に向かって、静かにピンセットを伸ばした。




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