第五話「恋人は一人だけがいいんだけどな」
マディソンは寝具にこだわりを持っている。寝ることが大好きだからである。
一番好きなのは二度寝だ。
休日のあれは特に最高だと思う。
嫌なことや悲しいことがあった日なんかは、ベッドに逃げ込む。
頭まで毛布を被って猫のように丸まってしまえば、そこがマディソンの世界で一番安全な場所になった。
それは小さな子供だった頃から変わらない。
現在、二十五歳になっても尚──今も変わらない。
昨夜は、びいびい泣いてカレンに抱き締められて眠った。
二十五歳なのに。
でも、四年前にカレンが大失恋した時はマディソンが彼女を抱き締めて眠った。
女の友情は紙より薄いと聞いたことがある。
それも間違いではない。
でも、そうでない友情だって存在する。
今が何時なのかは不明だが、マディソンは朝の雰囲気を感じた。
寝惚けた記憶の中でカレンが「朝食買ってくるね~」と言ったのを聞いた気がする。多分、近くのベーカリーへ行ったのだろう。
カレンは、マディソンのアパートの近くある赤い屋根の店の大ファンなのだ。
マディソンも、そこの店の塩パンが大好きだ。
シンプルだが、噛むとジュワ~ッとバターが口いっぱいに広がるのが堪らない。
中の空洞が、かつてバターの塊があった名残だと知った時は、カロリー怖さに避けてしまったが、美味しいので誘惑に負けてしまう。
抗えない力に意志なんて塵となる──別に他意はない。
塩パンが食べたくなってきた。
温かい無糖の紅茶との組み合わせて食べたい。
そんなことを考えていたら、バターの香りと共にパタンと部屋の扉の音が耳に届いた。カレンだ。
マディソンは、まだ微睡を楽しんでいる。
だって今日は休日だ、『ちゃんとした大人』の自分もお休みなのだ。
毛布を被ったマディソンの頭を、カレンの手がよしよしと撫でる──なぜか、大きく感じる……カレンの手はとても華奢なのに。
それだけ自分が落ち込んでいるということなのだろうか。
たかが失恋で、格好悪い。
七年前より悲しい気がする。
なんで大人に成ってからの方が痛く感じるのだろう。
簡単に痛いと言えないからだろうか。
「カレン、昨日は付き合ってくれて、ありがと。私、まだ眠いの……鍵、ポストに入れてくれたら大丈夫だから……」
「──マディの好きな、塩パン買ってきたんだけど要らない?」
「……んんんん?」
マディソンは、自分の耳に彼の声が届いた気がして固まった。
あれ? いや、違う。
だって、そんなはずがない。
きっとカレンのいつもの声真似だ。彼女は声真似が得意だから。
マディソンの頭はまだ撫でられている……大きな、手に?
待て、大きい手って、それはカレンの手ではない。
「ちょっと待ってください、何で隊長がいるんです?」
ここはマディソンの住む部屋だ。
なぜ、いないはずの者がいるのか。
「ベーカリーから出てくる彼女とばったり偶然会ったんだ。そしたら、彼女急に用事を思い出したとかで……代わりに、鍵とパンを届けに来たんだ」
カレンが、「マディ、ごめ~ん」と言って笑う顔が容易に想像できた。
あのサディスティック女め……。
「そろそろ起きない?」
「ちょ、っと……毛布引っ張らないでください!」
昨日は泣き腫らしたから、顔全体──特に瞼がぱんぱんに腫れている。
という訳でマディソンは、この毛布の中から出る訳にいかない。
「顔見せてよ」
「無理です!」
「やっぱり、怒ってるのか?」
「そういうことでは……」
怒る、怒らない、の話ではないのだ。
好きな男に最悪なコンディションで会うとか、何の罰ゲームだ。酷い。
「顔を見て、話がしたいんだ」
そんな切な気な声を出したってダメなものはダメだ。
明日、ピシッとした制服姿の自分で会いたい。
「あ、あの、明日ではいけませんか?」
「ダメだ。明日になったらマディはきっと、完全に自己完結してるに決まってる」
「何を──」言っているんだろうか。
自己完結というか、今日の休日で明日に備えての心積もりというものをするつもりであった。
普通に挨拶して仕事をして、面倒臭い女にならない為に脳内でシミュレーションしないといけないのである。
そうしないと困るのはフロイドだ。
「マディ、俺はお前の恋人になりたいって昨日言ったけど、」
「いえ、そんなこと私は言われていません」
言われてない。
え? 言われてないよね?
脳内にいるもう一人のマディソンが大きく頷く。
言われてない。
マディソンは二人で「飲み直さない?」と言われた記憶がある。
あれは、恋人にしたい女に言う台詞ではなかった。
後腐れのない、さっぱりすっきりしたい関係へのお誘い文言だった。
モテている男が言い慣れている台詞だった。
「分かりにくかったかも知れないけど、そういう意味で言った」
彼の言う『恋人』はマディソンの知っている恋人とは意味が違うようだ。
「……ああ、『そういう』ことですか」
「誤解してるな?」
何を、だ。
マディソンにはそんな割り切った関係は無理だ。
たった一回でも、恋人面する女になる自信がある。
「私、遊び相手には向きません、と申しました」
フロイドは靡かないマディソンで遊んでいるだけであって、本気ではないのだ。
それをマディソンは理解している。
「そんなものに向いていたら困る」
「なぜ、困るんです?」
「それは……なあ、顔見せてくれない?」
「無理です」
「……顔見たい」
「ばっ!」──か、じゃないの。
寸でで言わずに済んだ。偉い、さすが第一支部の第二番隊秘書官。
まず、マディソンは二十五歳だ。
そして前日に、酒と高カロリーと塩分の摂取に加え、泣いたことにより顔が不細工になっている。
フロイドは寝起きでも、綺麗な顔なのだろうからマディソンの気持ちは分からないのだ。
「『ば』? 何?」
「ば、バ、バリア……」
苦し過ぎる回避である。
バリアって、何だ。子供か。
フロイドが笑った気配を感じる。
「分かった、じゃあそのままでいい」
よく分からないが、『バリア』で納得してくれたようだ。
「……はい」
「俺、七人姉兄妹なんだけど、知ってた?」
「いいえ、知りませんでした」
業務に関係ないので、と付け加えると長い溜め息を吐かれた。
溜め息を吐きたいのはこちらだ。なぜ、いきなりそんな話をするのか。
「姉が四人と、妹が二人いるんだ」
「多いですね?」
上にも女、下にも女。
肩身がとても狭そうな家庭環境で育ったようだ。
前に、「早く家を出たかった」と言っていた理由はこのことなのだろうか。
「エイダンにお前が勘違いしてるって聞いたんだ。……今まで第一支部に顔を出した女は、皆俺の姉妹達だよ」
「……本当に?」
そういえば、彼女達と顔の系統は似ていた気が……しないでもないような?
「嘘じゃない。顔写真入りの書類なら、三日もあれば用意できる」
「いえ、そこまでは……」
マディソンは、フロイドが色んなタイプの女に手を出していると思っていた。
「俺のこと相当クズだと思ってたよな?」
「いえ……ええ、いいえ……はい」
「どっちだ」
「……いえ……その……」
思っていたし、ことあるごとにクズと(心の中で)罵っていた。
「ごめんなさい」
「やっぱり」
フロイドの声が沈む。
「でも、ほんの……少しですよ? ……ほんの少しだけ、どクズだなあ、って」
「……どクズ」
「ええ、ほんの少しだけ」
「どクズ?」
どんどんフロイドの声がしょんぼりしてくる。
顔を見なくても、彼がどんな顔をしているのか分かった。
「申し訳ございません」
「……何の謝罪?」
「日替わりの恋人がいるって思ってました」
「俺は、恋人は一人だけがいいんだけどな」
マディソンだってそうだ。一人だけが良い。
というか普通そうだ。
第一支部のクズ(一部誤解)を見ていて感覚がおかしくなっているが、普通は皆恋人もしくは伴侶が一人である。
「マディ」
「はい」
「お前が好きだ、俺の恋人になってほしい」
マディソンに、告白したのは『覚悟しておけ』なんて、格好付けていた彼ではなかった。
◇◇◇
「テイラー秘書官!」
振り返ると、息が上がったナイジェル・オリバーがいた。
訓練場から走ってきたのだろう。
顎から一滴汗が滴って、それを着ていたシャツで拭っている。
ここの男共ときたらタオルを使うことを忘れがちである。
「あら、オリバー。残念だったわね」
「ですよね……」
マディソンの言葉にナイジェルは、がっくりと肩を落とす。
彼の恋人が、忘れ物を届けに来ていたのだ。
つい先ほど帰ってしまったが。
「うーん、走れば間に合うかも。十分で戻ってくるならいいわよ」
「はい! ありがとうございます!」
──早い。
もう背中があんな遠くに。
ナイジェルとその恋人は、最近一緒に住み始めた。
本当はナイジェルが軍学校を卒業したらすぐに暮らすつもりだったそうなのだが、まとまった金を用意できなかった為、予定より遅れたらしい。
家に帰れば会えるのに……同棲前の癖が抜けないのか(それに関係なくいつでも会いたいのか)全く、お熱いことだ。
若いなあ、と呟くと「ババアかよ」と憎たらしい声がマディソンの耳に届いた。
振り向かなくても誰か分かる──第一支部の暴君こと、レイ・グレインジャーだ。
「グレインジャー、その言葉使いをなんとかしなさい。もうすぐお父さんになるのに」
「父親になることと言葉使いに何の関係があるんだ?」
彼の奥様に同情する。
子供二人を育てていかねばならないなんて。
マディソンの呆れ顔を、レイはにやにや笑うだけ。
彼は時折、こうした何か含んだような顔をする。見透かされているようでそわそわ落ち着かない気持ちになる。
「なあ、あんた、隊長と何かあったろ?」
最近はもう彼はマディソンのことを「秘書官」とすら呼ばない。
彼の妻に言わせると「気に入られている証拠です」だそうだ。そのことを思い出し、いつも注意できない。
でも、「あんた」はないと思う。そして「ババア」と言ったのは絶対に許さないぞ、クソ餓鬼。
彼の御父上に会う機会が会ったら、絶対報告してやる。
「何もないわよ!」
「隊長を見れば分かる。あの浮かれっぷりだからなあ」
大損だ、と口を曲げるレイ。
また賭けられていたようだ。そしてまた彼が負けたようだ。
勘が良いのか悪いのか。それともナイジェルが上手なのか。
「……はあ、フロイドったら」
「ふうん? フロイドねえ?」
「あ」と言ってしまったことこそが、マディソンとフロイドの関係を肯定する言葉だった──やっちまった。
「おい、今からでも隊長はやめにしねえか?」
「グレインジャー……あなた、いくら賭けたの?」
本当に可愛くない後輩だ。
◇◇◇
「ガードが、か~た~い~! エイダン・マゼロ~! 堅物野郎~!」
二十時三分。
カジュアルな雰囲気で若い女性から大人気のダイニングバーで、フォークにパスタを巻き付けながらカレンは、親友マディソンに愚痴っていた。
どうやら今狙いを定めている男が、靡いてくれないらしい。
彼は、心に傷を負っているので手強いと思うのだがカレンは諦める気はないようだ。
でも、きっとエイダンはカレンを選ぶと思う。
だってマディソンの自慢の親友だ。
毒舌だが、それが彼女の鎧だと分かったら可愛く見えてくるはずだ……多分。
頑張れ、親友!
「あ、このクリームパスタ美味しい!」
「ねえ、私の話聞いてる~? エイダンのガードが堅いのどうにかならない?」
「緩くなったら、カレンのライバルが増えちゃうんじゃない?」
エイダンは人気がある。
第一支部の第二番隊で副隊長を担っているのだ。
見た目だって、フロイドが傍にいるせいでかすんでいるが決して悪くない。そして何よりエイダンはとても優しい。
女性軍人のお姉様方など、フロイドみたいなチャラそうな男より、誠実で真面目なエイダンを狙う。
「や~ん、何でそんな意地悪言うの~? マディったら自分が幸せだからって! ……えいっ!」
カレンがマディソンのクリームパスタの皿の端に寄せていた海老を掻っ攫う。
「あ! 最後に食べようと思っていたのに!」
海老はマディソンの大好物である。小さいのも大きいのも、どれも好きだ。
じとりと海老泥棒を睨むと、彼女は「美味しい~」と頬を押さえて幸せそうに笑っていた。
「もう、カレンたら。……まあ、いいか」
マディソン・テイラー、もうすぐ二十六歳。……独身。
恋人はいるが、今のところ結婚予定はない。
交際歴二か月未満で結婚なんてしたら、マディソンの大嫌いなゴシップ雑誌に何て書かれることやら。
そうでなくてもすっぱ抜かれたのだ、平平凡凡のマディソンが。
嬉しそうに、マディソンにゴシップ雑誌を見せてきたのは、上司であり恋人でもあるフロイド・ヴァルコンだ。
何がそんなに嬉しいのか。
『ここまで書かれて別れたら、酷いこと書かれちゃうと思わないか?』
だそうだ。
別れたいのか、と聞いたら「逆だ」と言われ、その日は一日中べったりだった。
世の中の女性達はこの男に騙されている。
フロイド・ヴァルコンという男は、『スマートで、クールで、余裕のある男』などではない。
甘えたで、嫉妬深くて、案外子供っぽい仕方のない男である。
「やだ~、私、惚気聞かされてる?」
「そうね」
言葉とは裏腹な満面の笑顔に、マディソンも同じように笑い返してグラスを傾けた。
【完】