06:由紀と古谷君
下駄箱で靴を替える時、もしかしたら古谷君にまた遭遇するかもしれないと緊張していたが、そんなことは無かった。何となく拍子抜けしたような気分で教室に行き、席についた。その後も、いつもなら慌てたような姿で入ってくる授業ギリギリの時間になっても彼は現れず、そのまま一時間、二時間と過ぎていった。そしてようやく彼が姿を現したのはお昼休みを過ぎてから。
制服も着崩して髪もぼさぼさだったが、何となく表情がすっきりしている様に見えた。眼の下のクマがちょっとだけ消えていたせいかもしれない。
「あ、首輪……」
古谷君を眺めているとき、ユキちゃんがちらっとこちらを向いた。その時に彼女の白い首にきちんと赤い首輪が嵌まっているのが見えた。
「良かった」
よくよく見れば、古谷君の目元が少し赤い。興奮と喜びでしてあれからまた泣いたのかもしれない。
「ねえ、由紀ちゃん」
「ん? 何?」
そう言えば純ちゃんと話している途中だったな、と由紀は顔を正面に戻す。彼女は不思議そうな顔をしていた。
「ずっと思ってたんだけど、由紀ちゃんって独り言多いよね?」
「そうかな?」
「そうだよ! 一日に数回は言ってる!」
「そうかなあ」
拳を握って演説する純ちゃんに、由紀は首をかしげる。無意識だったから、自分ではあまりそんな風には思わなかった。周りがそのような不思議な子に対して無頓着だったのかもしれない。ある意味では幸せな境遇と言える。
「由紀ちゃん真面目だけど、でもちょっと変わってるなってずっと思ってたもん!」
「人間はみんな変わってるよ。それが個性じゃん」
「……? まあ、そうなのかもしれないけど……」
いまいち納得しきれてない様子で純ちゃんが頷く。しかしすぐに目をキラキラさせて身を乗り出した。
「じゃあじゃあ、わたしの変わってるところは??」
「え? うーん……」
言葉を濁す。改めて純ちゃんを見てみる。突然そんなことを言われても……。
「言葉には言い尽くせない」
「それどういう意味なのー!?」
変な解釈をしたようで、純ちゃんが大きく叫ぶ。それに苦笑いを返したところでにゅっとした影が二人を覆った。
「おい」
驚いて見上げると、目つきが幾分か柔らかい古谷君と目が合った。
「どうしたの?」
「いや……ちょっと時間あるか」
「うん。大丈夫だけど」
「じゃあちょっと外に」
「いいよ」
何も考えずに由紀は立ち上がった。しかしすぐに気付いた。教室中の視線がこちらに集まっていることに。純ちゃんの方へと視線を向けると、彼女はあわあわとした表情で由紀と古谷君とを見比べていた。思わず噴き出した。
「ほら、そういうところ……」
「へ?」
「ううん、何でもない」
お喋りなところ、表情に出やすいところ、ちょっとお馬鹿なところ。
――これじゃあ変わってるというよりは面白いところかな?
くすっと笑うと、由紀は古谷君の後ろについて行った。
*****
「どこに行くの?」
「人の少ない所……」
「じゃあ裏庭かな」
そんな会話をしながら、二人は連れ立って向かった。時々驚いたような視線が二人を襲うが、もうあまり気にならない。
裏庭に辿り着くと、二人は一直線にベンチに向かい、どちらからともなく腰を下ろした。しばらく沈黙が続く。すると早々由紀はだんだん眠たくなってきた。ここに来た意味を忘れてはいけないと自分を奮い立たせても、どうも心地の良い風が通るこの場所は眠気を誘ってくる。
しかしやはりこのままではいけないと、眠気を振り払って口火を切ろうと思った矢先、一瞬早く古谷君に先を越された。
「その……」
「うん」
「……首輪、見つかった」
「――良かったね! どこにあったの?」
「俺の荷物の近くにあったよ。馬鹿だよな。いつもユキと遊んでたとこばっか探してた。もっと通り道とか家までの道とか他の場所も探してみるべきだったのに」
うん、学校もね。
もちろん口には出さなかったが。
「あのさ、ユキ、どうしてる?」
「ああ、首輪? うん、ちゃんとユキちゃんの首にはまってる。すごく嬉しそうだよ」
「そっか……。良かった」
本当に嬉しそうに古谷君は笑みを浮かべる。しかしその彼に、言わなくてはならないことがある。それは、今日彼を一番に見た時に気付いたこと。
「あの、言い難いんだけど」
「何だ?」
「ユキちゃんの気配が薄くなってる」
古谷君が絶句する。ポカンと口が開いていた。
「それって」
「うん。多分、もうすぐ……」
言葉尻を濁す。それだけで彼はもう察したようだ。きつくきつく目を閉じる。
「そっか」
「うん」
「言われてみれば、もうすぐ四十九日だ。この短い間だけでもユキは傍にいてくれたんだな。それに……感謝、しなきゃな」
もう涙は見られないが、声が悲しみに満ちている。
二度目の、お別れ。
それを自分がもたらしてしまったのかと思うと、どうにもやるせない気持ちが今更ながら湧き起こってくる。
「ユキは今、どんな感じだ?」
「……落ち着いてるよ。目を閉じて古谷君にすり寄ってる」
「そうか」
そして一言。
「見えないのが、残念だな」
自分なんかよりも、一番古谷君が見たいはずなのに。
そう思った瞬間、パッと閃いた。
「写真……」
「何だ?」
「写真なら……ちょっとだけ映るんじゃない? ほら、よく心霊写真とかいうじゃない。試してみる価値は……古谷君、携帯持ってる?」
「いや、教室に……」
「じゃあ私が撮ってあげる。ほら、こっち向いて」
スカートのポケットから携帯を取り出す。焦る思いでカメラを起動した。
「ほら、こっち向いて。ユキちゃんも」
ぴくっと古谷君の肩が反応する。顔はこちらに向けているが、しかし視線は彼方を見つめていた。
「視線逸らさないで。ユキちゃんはちゃんとこっち向いてるよ?」
「……っ」
渋々といった様子で古谷君がこちらを向いた瞬間、由紀はシャッターを切った。カシャッという乾いた音が鳴り響く。古谷君はというとまたすぐにそっぽを向いた。
「……ごめんね。あんまり綺麗に撮れなかったかも」
何も映らなかったわけじゃない。しかし、古谷君の肩の上にはぼやけた白いものが映っているだけで、猫の形は全く成していなかった。これなら、生前の綺麗な姿だけを思い出にしていた方が良かったのかもしれない。
また余計なことしたのかな。
由紀は少し落ち込みながら、それでも携帯を古谷君に手渡した。
緊張しながら由紀は彼の顔を窺った。始め、驚いたように目を丸くしたと思ったら、すぐに顔を左手で覆った。そして一言。
「ごめん……」
「え、いや、こっちこそごめんね。もっと綺麗に――」
「別に疑ってたわけじゃないんだ。でも……実際こうやってみると――」
由紀の声は聞こえていないようだった。真っ直ぐに写真を見つめている。
「ここに……ここに、いるんだな」
「う、うん」
「信じられない。もう会えないと思ってたのに」
黙って古谷君は携帯を返した。由紀も静かにそれを受け取る。
「俺の右肩に……いるんだな」
そして彼は震える左手で右肩へと――。
「あ、ごめん違う古谷君」
「は?」
「今ユキちゃん左肩に飛び乗った」
「は……?」
戸惑ったような仕草で、今度古谷君は左肩へと手を伸ばして……。
「あ、ごめん、今度は右肩に」
「…………」
「あの、やっぱり左肩に……」
「おい」
「いや、からかってるんじゃないよ? 本当にユキちゃんが――」
「分かってるよ」
古谷君は顔を俯けている。表情が分からないので、てっきり彼が怒っているのだと由紀はあわあわした。しかし彼は小さな笑みを漏らしていた。本当に小さな、でも嬉しそうな笑み。
「懐かしいな……」
「え?」
「ユキ、すごく悪戯っ子だったんだ。いつも俺を困らせてばかりで……」
くりっとしたユキちゃんの瞳がこちらを向く。……うん、確かに彼女には散々私も振り回されたような気がする。
「だから想像できるんだ。悪戯っぽい顔をして笑ってるんだろ、ユキのやつ」
飼い主の声に合わせて、ユキちゃんは目を細めた。見ようによってはそんな風に見えなくもない。というか、飼い主だからこそ見分けられるんじゃないだろうか。それを私に説明しろというのは……些か難題だと思う。
穏やかな時間が流れる。
古谷君は私の解説など無くても、幸せそうな心地で目を瞑っていた。
「ユキ……」
積年の想いが詰まっているような、何かに恋い焦がれるような、そんな声で古谷君はぽつりと呟く。今までで慣れていたはずなのに、なぜかその時だけ自分が呼ばれたのかと思ってしまった。そのことが恥ずかしくて、由紀は思わず声を漏らした。しかしそれを目敏い古谷君に聞かれてしまったようだ。鋭い目で射抜かれる。
「何だよ」
「え? いや」
「悪かったな。女々しくて。勘違いすんなよ。俺は別に――」
「いや、ちょ、多分誤解。別にそんな風に思ってないよ」
古谷君が拗ねたような表情になるので、思わず由紀は苦笑を漏らす。むしろ今の彼の方が可愛らしいと思った。
「えっと、その、今更なんだけどね、自分のことかと思って反応しちゃっただけだよ。さっきの古谷君の声に」
「は……?」
「あ、知らなかったの? 私の名前も由紀なんだよ」
「…………」
ポリポリと古谷君は首を掻く。視線は明後日の方向を向いていた。由紀は思わずため息をついた。
「もう数か月も同じクラスなのに、まだクラスメイトの名前覚えてないの?」
「ああ……いや」
「そういえば、昨日下駄箱で会った時も最初気づいてなかったよね? ペットショップで会ったあの時ですら気づいてなかったんでしょ。同じクラスだって」
「その……」
「まあ別にいいんだけど。私も古谷君の下の名前知らないし」
「おあいこかよ……」
そりゃそうだ。先ほどは偉そうに行ったが、言い様によってはまだ数か月。四十人近い人数の下の名前まで憶えられる人はそういないだろう。
「……亮二」
「え?」
古谷君の声が思いのほか小さくて、由紀は聞き返した。
「下の名前」
「……亮二、君?」
「……ああ」
ぶっきらぼうに言い、再びそっぽを向いた。その動作こそ子供っぽいと思った。
とそんな時、すっかり和やかになった雰囲気の中予鈴が鳴り響いた。遠慮がちなその音は、どこか遠くの方から聞こえてきていて、ここが別世界のように感じた。
しかし由紀はすぐに現実に戻り、慌てて腕時計を見やる。優等生は忙しい。
「あ、もうこんな時間なんだ」
言われてみれば、裏庭から見える廊下にも、生徒の姿はもうまばらだ。いつの間にか結構な時間が経っていたようだ。
「亮二君も早くしないと遅刻するよ?」
急いで校舎の中に入ろうとするが、亮二君の方はというと、ぽけっとまだベンチの所へ突っ立っていた。呆れて由紀は戻ってきた。
「もしかしてまたサボるつもり?」
「別に……もうサボらねえよ」
「ならいいんだけど」
今度はゆっくり歩き出した。たまにはのんびりするのもいいかもしれない。そんな心地だった。
由紀が歩き出したその数歩手前。亮二は口を開いたり閉じたり、歩きもせずその動作を繰り返していた。やがて腹を決め、亮二は今度こそ声を押し出す。
「由紀……いろいろありがとう、な」
その小さな呟きは、暖かな風に掻き消されたかに見えた。しかし目の前をゆっくりと歩いていた由紀の歩みはやがて止まる。
「ユキちゃん、嬉しそうに頷いてるよ」
「……は?」
「亮二君にすり寄ってる」
思わずと言った様子で由紀は微笑んだ。亮二は照れたように頬を掻く。
「あ……そっか、それは良かった――じゃなくて!」
「どうしたの?」
「いや……そのユキじゃなくて――」
「あれ? 何だか悲しそうな表情に――」
「いや、ユキはありがとう! そのユキにもすごく感謝してる!」
「あ、元に戻った」
「でもその、由紀には――」
「あれ、また悲しそうに――」
「ユキぃーーー!!!」
亮二の叫び声が空に木霊する。由紀はポカンとし、ユキは嬉しそうに笑う。悪戯っぽいその笑みで、白猫は空高くにゃあ、と鳴いた。