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13 冬色の空-2

 散らかった考えを整理するつもりが、いつの間にか眠りに落ちたらしい。

 直面したのは儚い記憶。近所にある河原の道。川へ繋がる石階段の最下段に、俺は立っていた。


 深夜の風景だった。

 水のゆらめきは、川面を照らす月の光を乱反射させている。

 湿気を含んだ生ぬるい弱風は、辺りの草木をざわめかせながら去っていく。

 淡い月明かりに照らされた小川の浅瀬で、一人の少女が水遊びをしていた。

 音もなく流れている川の水を、器用に蹴り上げて遊んでいる。


(……おかしいな。この風景、どこかで)


 現状を把握しようと考えた矢先の、既視感。

 状況は変化する。少女が水遊びを止め、俺の方に体の正面を向け、少しずつ近付いて来ていた。

 やがて少女は、川から上がる。

 足音を立てながら川原の砂利道を歩き、俺との距離が一メートル程度の地点に来たところで、ぴたりと立ち止まった。

 薄雲に隠れていた月は、ようやく姿を現した。町の建物や草木、少女のかたちを明るく照らす。


「孝哉」


 俺の名を呼ぶ、あどけない少女の声。

 体が固まった。目頭が熱くなる。途方もなく懐かしい声だったから。


「莉子……」

「久しぶりだね」


 手が届くほどの距離。ひまわりのように明るい、けれどもはかない笑顔。

 莉子は私服を着ていた。灰色のワンピース姿。景色を彩る霧を思わせる雰囲気だった。


「……ああ。莉子は変わらないな。昔のままだ」

「こっちはそういう場所だからね。孝哉は、ちょっと背が伸びたかも」

「ありがとな。莉子は元気でやってるか? なんか悩みとか、話しておきたいことないか?」

「……」


 思い付くままに言葉を並べていく。

 すると、なぜか莉子からは沈黙が届けられた。

 石段を歩き、俺よりも一段高い位置に移動する莉子。次の行動は意外なもので、


 上げられた莉子の右手が、やや強めの力で俺の頭に降り下ろされた。

 ごめん訂正。割とけっこう鈍痛。莉子の手は痛くないのだろうか。


「ばか」

「え」

「孝哉は、いつもそう」


 莉子が俺を直視する。あれ、もしかして叱られてる? 女心は変わりやすいって聞いたけど、こういうことなのか?


「すぐにわたしを励ましたがる。自分の悩みなんて後回し」

「う……た、確かに」

「誰かに優しくするのは好きなのに、自分に優しくするのは嫌いなんだから」


 やっぱり怒ってるんだ。舞とは違う静かな迫力がある。理由を突き止めて早めに謝ろうと考えていたら、


「でも、そんな孝哉が、わたしは好き」


 莉子の優しい微笑みと同時に、反省の準備は、単なる廃棄物となった。

 どうも俺は、他者の好意やら温情には鈍感らしい。気を付けないとな。


「悩んでることが、あるんだよね?」

「……分かるのか?」

「孝哉は表情に出やすいから。子供の頃から変わってないよ」

「そ……そうか」


 おだやかに莉子は言う。あの時もそうだった。俺が描いた偽りでは、莉子の心は誤魔化せないんだ。

 降参することにした。正直に打ち明けよう。やっぱり莉子には叶わないか。


「……忘れてる人が、いるんだ。すごく大切な人だと思う。でも、どうしても思い出せないんだ」

「孝哉の、好きな人?」

「……そうだな。好きだよ。また会いたい。その人が、俺を覚えていなくてもかまわない。元気な姿を見たいんだ」


 聞かされた側が困るだろう抽象的な悩みを、言葉を飾らず莉子に伝えた。

 石階段を降りる莉子。俺より一段低い位置に立ち、しっかりと俺の目を見つめてくれた。


「思い出さなきゃ、だめなのかな」


 莉子は俺の手を引いて、さらに石階段を降りる。誘われるがまま後に続く。


「忘れたままでも、大丈夫だよ」


 そのまま静かな足取りで、流れる川の浅瀬に歩みを進めていく。


「孝哉の心が、覚えてるはずだから」


 足元が、ひんやりと冷たくて心地よかった。

 半年前よりも俺の背は伸びたのに、莉子の身長は、今も時間を置き去りにしたままだった。


「生きることは、考えることだけじゃないよ。耳をふさいでみて。自分の声が聞こえるから」


 けがれのない、二つの黒い瞳。

 幼い頃、小さな生き物を探すために訪れた小川の、きらきら光る水の透明感を思い出した。

 莉子がくれたのは、答えじゃなくて安心感。

 けどそれは、今の俺の心が、なによりも望んでいたものだった。

 俺が見るべきもの、聞くべきものは、最初から近くにあったんだ。


「……莉子。ありがとう」

「うん」


 お礼を言う。誰かを助ける人間になるには、まだまだ時間がかかりそうだった。


「なんとなく、分かった気がするよ」

「もう、わたしを探したらだめだよ? こっちに孝哉が来るのは、ずっとずっと先なんだから」

「ああ。もうしばらく、生きてみる」

「うん。ときどきは見に来るね」


 莉子の頭をなでる。ふわりとした髪の感触が、秋色の思い出と繋がった。

 石階段に向かって、自然と足が進んでいく。

 頼りない俺の背中は、莉子の前で見せられる、精一杯のかっこつけだ。


 夢は思い出が住む世界。眠りの間だけ、あいまみえることを許される幻。

 風の香りも水の冷たさも、落ちた花弁さえも持ち出せない。

 だけど、ひとつだけ、持ち帰ることを許されているものがある。

 人が生きるために必要な、けれども普段は、側にあることを忘れてしまうもの。それの名は。


―――――


 木目調の、見慣れた茶色い天井が目についた。

 ゆっくりと上半身を起こす。まだ窓の向こうは明るい。白い雲の切れ間からは、柔らかな薄明の光が差し込んでいる。

 部屋は静かだった。

 ちかちかと点滅する、消えたストーブの点火ランプ。皿の上で燃え尽きた線香の、ほのかな白檀の香りが室内に残っていた。


(莉子……か)


 あれは、俺の願望が見せた幻影なのだろうか。

 莉子は言っていた。一人ぼっちで生きてる人に出会ったら、側にいてあげて。お別れは必ず来るものだからと。

 そうだ。半年前、俺は莉子から、花の模様があしらわれた、淡い水色のヘアピンを渡されたはずだ。

 あのヘアピンも、半年前から行方が分からない。莉子から受け取って、それほど期間は過ぎていなかったのに。


 立ち上がり、棚の近くまで移動する。鏡の裏に置かれている、小さな白い犬のぬいぐるみを見た。

 なにかを感じたわけじゃない。なんとなく、側に行きたくなっただけだ。


「お前は、覚えてるか? お前を助けてくれた人の行方」


 抱き上げる。返されるはずのない答えに期待して、ぬいぐるみに問いかけてみるなんて、ロマンチックな行動をしてみた。

 大切な人の痕跡は、このぬいぐるみだけ。

 一緒に行こう。

 考える時間は終わりだ。俺の心が願っている、最も行きたい場所に向かおう。

 留守番は、テーブルの上の携帯電話に任せることにした。たまには一人で羽を伸ばしていてくれ。


―――――


 川は涼やかに流れていた。来年の賑やかさに備えているかのように。

 冬だというのに過ごしやすい。普段通りの服装でも平気だった。

 通い慣れていたはずの、川辺の散歩道。石階段の最上段に腰を下ろす。

 誰もいない。夢の中で莉子が立っていた浅瀬にも、木々の合間にも、遠くまで見渡せる景色の中にも。

 でも、小さな白い犬のぬいぐるみだけは、文句も言わず側にいてくれた。


(……俺は)


 解放感の数秒後、疑問が頭の中を埋め尽くす。


(俺は、なにを忘れた?)


 何ヶ月も前から違和感はあった。でも、気付かないふりを決め込んでいた。日常生活のせいにして。

 どうしてここに来たんだろう。誰とも待ち合わせをせずに。

 自分の行動が理解できなかった。だけど、自分が望んでいる未来は分かった。

 また会いたい。顔も名前も知らない、大切な人に。ここに来れば大丈夫だと思った。物語の続きを紡げると考えた。


「あれっ、孝哉?」


 視覚外からの問いかけが注がれる。

 首だけを横に向けてみると、そこにいたのは私服姿の舞だった。


「うわびっくりした。なにしてんだ? こんなとこで」

「いやあ、特に理由はないんだけどねっ」


 喋りながら、舞は俺の隣に腰を下ろす。

 空は清んでいた。丘の上から紙飛行機を飛ばしたくなるような、あきれるほどの水彩色。


「昼間のこと考えてたら、落ち着かなくなっちゃって。いつの間にか、ここに来てた感じ」

「そっか。俺と同じだな」

「みたいだねっ。でも先に孝哉がいたから、嬉しいような、がっかりしたような」

「がっかりはやめてくれ。傷付くから」


 いきなりの存在否定。相変わらず遠慮がない。

 胸さわぎは、もうすぐ晴れる気がした。舞が来てくれたおかげで。


「ここ、いい場所だよな」

「うん」

「景色が綺麗なのもあるけどさ、それとは、また違う気がするんだ」

「私も。川に落ちそうな所を孝哉に助けられて、それから……誰かと友達になったと思うんだよね」


 広い風景を眺めながら、舞と思い出を語り合う。

 霧は消えかけていた。支えてくれる人たちのおかげで。あとは――


 あとは、実際に会うことができたなら。


 再会した瞬間、走馬灯のように全てを思い出せるかと問われれば、都合よくはいかないだろう。

 それでも、大丈夫だ。

 これが、俺の思う最善の選択だから。結果が悪くても、後悔はしない。


「二人とも、思い出したみたいじゃね」


 不意の古風な喋り方。

 立ち上がって振り向いた先にいたのは、凛。


「勝負は我の負け、というところかのう」

「勝負?」


 なんのことを話しているかは分からなかったけど、凛の声は、どうしてか嬉しそうだった。


「もしかして、凛が思い出させてくれたのか?」

「いや、我はなにもしとらんよ。記憶のかけらから答えを探せたのは、孝哉氏と伊坂舞氏が、未来を信じたからじゃ」


 凛から福音が注がれる。真実への到達を意味する笑顔と共に。


「でも神様。私たちは、忘れたままの気がします。答えなんて、まだ」

「大丈夫。もう、暗い景色は終わりじゃよ。ほら」


 凛が指差したのは、川沿いの道の先。

 その方向に視線を送ると、一人の人物が、こちらに歩いて来る姿があった。

 黒いワンピース姿の少女。肩まで伸ばされた黒髪が、さらさらと冬の風に揺れている。

 物静かな雰囲気と、透き通るような白い肌。

 表情の片隅の小さなほほえみは、俺と舞に向けられていた。


(……そうか)


 俺が感じていたのは、あの子の残像だったんだ。

 名前も知らない。見た目に覚えもない。でも、きっと重ね合わせられる。

 あの子と俺たちは、大切な時間を一緒に過ごしたはずだから。

 間に合ったんだ。みんなのおかげで。


 少女は俺たちの前まで来ると、立ち止まった。

 かすかに落とされていた視線が、そっと上がる。

 少女の綺麗な髪には、花模様のあしらわれた、薄い水色のヘアピンが挿されていた。


「こんにちは」

「ああ。よろしくな」


 互いに、頭を下げた。

 挨拶は初対面のものだけど、出会いは何度も繰り返されている。

 舞と凛と、俺と、そしてこの子と。

 これからみんなで、ほつれていた思い出を、丁寧に繋ぎ合わせていこう。

 いつか、莉子のいる世界に旅立つことになる、遠いようで近い未来が訪れる日まで。



 空に浮かんだ入道雲は、静かに大地を見守っていた。

 季節の始まりと終わりを運んでくれる、おだやかな風たちと一緒に。


〈終〉

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