13 冬色の空-1
新たな一年の始まりが近付いていた。
今日は十二月二十一日。年越しに向けての準備が深まっていく時期。
師走とは言うけど、高校生の立場からすれば、もうすぐ訪れる冬休みが待ち遠しい。
体の芯まで凍りそうな朝。二度寝の誘惑をはねのける季節も、じきに折り返し地点を通過する。
(さて、行くか)
窓の戸締まりを確認した。来年は高三だ。寒くても気を引き締めないとな。
いつもと同じ手荷物。普段と変わらない行動。その途中、ふと壁のカレンダーを眺めた。
まだ登校時間までは余裕がある。玄関の鍵を手にしたまま足を止めた。
(……懐かしいな)
今日は、俺にとっての莉子の命日。
あれから丁度四年か。面影石の力で莉子と会ったのさえ半年前。年月が過ぎるのは、本当に早い。
学校から帰ったら、線香をたむけよう。写真がなくても、莉子の姿は、今も心に焼き付いている。
でも、もし写真があるなら、ここに飾りたいな。
そんなふうに考えながら、カレンダーの側の、鏡や時計などが置かれた棚に視線を向ける。
(……ん)
鏡の死角になるように置かれていた、小さな白い犬のぬいぐるみ。
いつからここに住んでいたのだろう。間を置かずに回想してみた。
(たしか、半年くらい前だ。ゲーセンに舞と二人で行って、そこで――)
違和感。記憶をめぐる旅は、奇妙な気持ちに阻害された。
どこかが、変だ。
ゲーセンに行ってない? いや、確かに遊んだ。凛もいたか? 違う。凛とは本屋で会った。舞にスカートをめくられてたのを覚えてる。
記憶は合ってるはずだ。なのに、白黒の風景画を見ているような空虚さが心に満ちる。
(何かを、忘れてる?)
漠然と、そう思った。
とはいえ、もやもやの核心を突き止めるには、朝の時間だけでは足りそうになかった。
今日が登校日で助かった。舞にも聞いてみよう。あいつなら、なにか知ってるかもしれない。
―――――
上の空で授業を受けながら、しばらく考えてみたものの、納得できそうな答えは探せなかった。
二時限目の休み時間。教室の窓から景色を眺める。清んだ空がまぶしい。
朝に比べると、わりかし気温も上がっていた。雪と会うには不向きな日になりそうだ。
「おはよー孝哉っ。今日の朝ぶり」
などと息抜きをしていたら、わざわざ話しかけてくれたのは舞だった。
丁度よかった。さすが幼なじみ。困っている時の頼れる助け船。
「おう舞。冬なのに相変わらず元気だな」
「生き霊に比べたら冬くらい平気だよっ。あの人形に憑いてたやつは大変だったなあ……」
「うん、なんというか、お疲れ様です」
遠い目をする舞。こういうのって反応に困るよね。無事でなによりです。
今日も舞は明るかった。冬の気候に負けてるかもと思ってたけど、これなら、
「なあ、ちょっと聞きたいことがあるんだけどさ」
これなら、違和感の件を打ち明けてみても大丈夫そうだ。
「なに? あ! 弁当は分けてあげないよっ」
「いらんて。そうじゃなくて、凛と知り合ったきっかけって覚えてるか?」
「へ?」
くだけた受け答えをしていた舞も、俺の質問を聞いた途端、少し真面目な顔付きになってくれた。
「んーとね……あっ、ほら、あれじゃないかな? 体育館に私と孝哉が閉じ込められて」
「んで、ずっこけた凛を保健室に案内したんだよな。無人の校舎を歩いてさ」
「うんうん。なんか、懐かしいねっ」
「面白かったよな。でも、そこでの会話が、何故か思い出せないんだ」
無人の保健室。舞が凛に胸をもまれるよりも前。
重要な話題にふれていた気がするのに、どういうわけか、その部分だけが綺麗に記憶から抜け落ちていた。
「それだけじゃない。みんなとの思い出の中で、記憶が消えてる部分が何ヶ所もあるんだ」
「孝哉……?」
「今までも、おかしいなって何回か思った。でも、今日くらい違和感の強い日はないんだよ」
舞と会話を交えている間にも、小さかった疑念は増長していく。
「半年前さ、ゲーセン行ったの覚えてるか?」
「んーとんーと……あ、覚えてるよっ。私と孝哉で行ったんだよね」
「その時、エアホッケー対決やっただろ?」
「うん。あれは白熱した試合だったよっ」
「ああ。それを踏まえて聞きたいんだけど、舞は誰と対戦してた?」
楽しかった昔の思い出。記憶を共有しているはずの舞に問いかける。
「え? そ、それは孝哉と……あれ? 孝哉は横で見てたんだよね?」
「そう。俺は見てた。もう一人いなきゃおかしいんだよ。でも俺たちは、その人の顔も名前も覚えてない。ありえるか? こんなの」
「……なんか変、かも」
考えていた通り、舞も要点だけを忘却していた。単なる物忘れと言うには、あまりに都合のいい風化。
舞と相談してみて、頭をかすめていた仮説が、にわかに現実味を帯び始めた。
絵空事かもしれない。でも、こう考えるとつじつまが合わないだろうか。
――俺たちは、なんらかの原因のせいで、ある誰かの存在を思い出せなくなっている。
「俺たちは、なにかを忘れてるんだと思う」
「あ、あのね……孝哉」
少しためらいながら、言葉を紡ぐ舞。
「実は私も、孝哉とおんなじこと思った時、あったんだ」
「……まじかよ」
「うん。でも、たぶん気のせいだろうって、ずっと考えないふりしてた」
打ち明けてくれたのは、誰にも悟られないよう押し隠していた、困惑の一角だった。
「梅雨明けの頃かな。誰かと別れるからって、たくさん泣いた時あったんだ。悲しくて、寂しかったから、すごく覚えてるよ」
「梅雨明け、か」
「でも、どうして泣いてたのか、思い出せなくて。ほんとなら、忘れるはずないのに」
話し終えた舞は、窓の外の冬景色に視線を向けた。普段は見せない、孤独な横顔が印象的だった。
俺だけの勘違いだという可能性は、これで完全についえた。
(このままじゃ……終われないな)
森の声のような胸さわぎ。それを打ち消したのは、休み時間の終わりを知らせる鐘の音だった。
霧は、いつまで俺たちの視界を閉ざし続けるのだろうか。どれだけ迷えばいいのだろうか。
いや、きっと大丈夫だ。
世の中は移り変わる。数分後の風景さえ、何者にも予想できない。それに、
いろいろなことがあるから楽しく生きられる。
深層心理に残っていた、誰のものとも分からない言葉は、充分すぎるほどの活を俺に入れてくれた。
―――――
帰宅する舞を見送った後の、自分一人の下校道。
冬の風が少しだけ冷たい。涼やかな空気は、季節の深まりを教えてくれた。
静かな景色が流れている。木の葉は風と一緒に、アスファルトの地面を気ままに歩いていた。
(……凛は、なにか知らないだろうか)
様々な音が通りすぎていく中、神様の名前が意識をよぎる。
半年前。梅雨が終わりを迎え始めていた頃。
俺の部屋で、いつの間にか寝ていた俺と舞が、ほぼ同時に目を覚ますという出来事があった。
あの時、何故か側にいた凛は、明らかに普段と様子が違った。
哀しそうだった。寂しそうにしていた。結局理由は教えてくれなくて、いつしか俺も忘れたんだ。
(なにか理由があって……俺たちに真実を教えなかった?)
凛なら、考えられた。
莉子とのやり取りを舞に話さなかった時もそうだ。普段は生意気だけど、凛は肝心な時ほど優しい。
答えは、どこにある。やっぱり俺や舞の勘違いなのだろうか。自問だけが延々と渦巻いていく。
核心をたどる思考の最中、正面から歩いてきた人物の姿が、息詰まる意識を中断させた。
白い洋服を着た女性。黒髪が風に揺れている。物腰柔らかな歩き姿は、風にゆらめく百合の花を連想させた。
女性の表情は、なんとなく明るい。大切な相手と再会できたかのような、幸せそうなたたずまい。
どこかで、会った気がした。顔も名前も知らないはずなのに、呼び止めたくなった。
そんな意思を後押ししてくれたのか、すれ違って数瞬後、女性のスカートのポケットから白いハンカチが舞い落ちた。
女性は気付かず歩き続けている。とっさにハンカチを拾い上げた。
「あの、落としたみたいですよ」
そして声をかける。女性は立ち止まると、ゆるやかに振り返ってくれた。
「まあ。危ないところを、ありがとうございます。大切なものをなくすところでした」
女性は丁寧に頭を下げると、安心して微笑んでくれていた。
ハンカチを女性に渡す。かなり大事なものみたいだ。気付いてあげられてよかった。
「いいハンカチですね。使うのがもったいないくらいの」
「ふふ。実は、まだ新しいままなんです。娘からのプレゼントなんですよ」
「誕生日プレゼントとかですか?」
「おしいです。娘は、長い旅に出ていました。半年前、無事に帰ってきてくれたんです」
話している女性の表情には、あたたかさがにじみ出ていた。娘への一途な愛情が伝わって来る。
「長い旅でした。でも、元気な未雨と会えた時は……本当に、嬉しかった」
だけど、女性から感慨深く言葉が続けられた時、和むだけだった俺の心理は変化した。
(――未、雨?)
初めて聞く名前のはずなのに、するりと心の中に入り込んで来る。
わずかな窓の隙間を見付けて、自宅へと戻る飼い猫のように。
「あ……すみません。話しすぎちゃいましたね。初対面なのに」
「いえ。あの……」
「どうかしましたか?」
「あなたの名前、お聞きしてもいいですか?」
妙な流れの会話だった。ほぼ無意識のうちに、口をついて出ていた。一歩間違えれば不審者だ。
それでも女性は、嫌な顔ひとつせず、笑いながら名前を教えてくれた。
「西条志乃です。年齢は、聞かないでくださいね」
西条志乃さん。つまり、娘の本名は。
両者とも、聞き覚えがない名前だった。けれども、指の関節にあるかさぶたのような違和感は、じんわりと残り続けていた。
その後、挨拶を交わして志乃さんとは別れた。
未雨という人に会わせてほしい、と頼めばよかったのかもしれない。
だけどそれは、意図的にやらなかった。
わがままかもしれないけど、最後くらいは、自分の力で真実にたどり着きたかった。
腕を伸ばす方向さえ間違わなければ、きっとつかめる。忘れていた人の手を。あと少しで。
走った。自分の家に向かうために。
心の中のもやもやを誤魔化すために。たまの運動をしたいだけなんだ、と自らを偽りながら。




