7 言の葉渡し-2
「最近は体調がいいんです。歩けるようにも、なりました」
四年前、何度も訪れた病室の中。上半身を起こしてベッドに座る莉子は、そう言って嬉しそうにほほえんだ。
莉子一人で木の下に行けた理由。それは、病室の窓からひそかに脱出して、看護婦や医者の目をかいくぐっていたからだった。
ある程度は自由に歩けるとはいえ、一人散歩の許可はおそらく下りない。
だから莉子は近頃、花壇などを足場代わりに、積極的に病室を抜け出しているらしかった。
「良かったじゃんか。でも気を付けろよ? 偉い人にバレたらお説教が始まるからな」
「そうですよね。……どうしてみんなは、わたしが散歩するの、許してくれないんでしょうか」
楽しそうに喋る莉子が、時折見せる寂しい表情。
それは、たくさんの我慢を強いられている莉子に許された、数少ない感情表現なのかもしれない。
「みんなはさ、少しでも長く、莉子に生きていてほしいんだよ。莉子が好きだから、いろいろ言いに来るんだ」
「好き、だから」
「ああ。……小田桐孝哉も、莉子のことが好きだって話してたよ」
「……」
直接の言葉をかけてあげられないことが、ひどく切なかった。
莉子は考え込んでいた。その小さな体で、どれだけの思いを抱え込まされているのだろう。
莉子の支えになりたかった。力が足りないとしても、守りたかった。
「そうだ。孝哉からの伝言なんだけどさ」
どうすれば、莉子を戸惑わせずに、俺が孝哉だと伝えられるのか。
必死に考える。でも結局、強引に話すか最後まで言わないかの二者択一を迫られていた。
「……あの」
ふと、莉子が言葉を発する。俺を見つめる二つの瞳には、希望と不安が混在していた。
「笑わないで、聞いてくれますか?」
「ああ。どうした?」
「えと……お兄さんって、本当は、孝哉なんじゃないかなって」
真実は、予期せぬ瞬間に明かされた。
莉子が俺の本名を口にした。ひた隠しにしていた事実を、いともたやすく。
かすかに開かれた窓からの秋風は、優しい冷たさを残して病室を立ち去った。
「……ごめんなさい。お兄さんの話し方とか、笑い方とか、孝哉にそっくりなんです。だから」
言葉を紡ぐ莉子の表情のかたすみには、明白な寂しさが居座っていて、
「だから、お兄さんは、大人になった未来の孝哉で、不思議な力を使って、わたしに会いに来てくれたんじゃないかって」
子供らしい目線から語られた予想は、誰よりも正確に現実を言い当てていて、
「すみません……忘れてください。ここに孝哉がいてほしいっていう、わたしのわがままのせいです」
胸の内を明かした勇敢な莉子の言明は、病室に残る優しさの中に、じんわりと溶けていった。
決められた未来は、変えられない。
新たな暦は始まらない。今、足音の聞こえている季節を終えるよりも先に――莉子の命は。
「ごめん、嘘なんだ」
ようやく分かった。
「お兄、さん?」
「俺、孝哉なんだ。隠してて……すまなかった」
俺が名前を伏せていたのは、自分の保身のためだったんだ。
莉子に責められることを恐れて、卑怯な逃げ道を確保していた。
「莉子の言う通りだ。俺は未来から、莉子に謝るために来た。許してくれなくてもいい……本当に、悪かった」
許しを求めず、自分の真意を正直に話すこと。
俺が莉子と再会したのは、その役目を果たすためなんだ。
「……嘘つき孝哉」
否定の返答。いや、そうじゃない。
「隠し事しないって約束したのに。ルール違反の罰ゲーム、覚えてる?」
「罰ゲームか……うん、そんなのあったな」
ちょっとだけ怒ってる莉子。もちろん覚えている。久しぶりだけど忘れるはずがなかった。
元は自分から提案した『嘘つかない宣言』だったのに、いつからか、破ったらこれをされるのが約束になったんだっけ。
莉子のすぐ隣まで移動し、莉子の目線より少し低いぐらいまで姿勢を下げる。懐かしいけど怖い。
体の正面をこちらに向けた莉子は、軽く上半身を後ろに曲げた後、俺のひたい目がけてひたいを強くぶつけた。
ゴツッ。
鈍い衝撃。じいんとした痛みが遅れて襲来する。
「いっ……! ……あ、相変わらずの石頭だな」
「まだだよ。約束には続きがあったよね」
「に、二発目か?」
続く鈍痛。追撃されれば頭蓋骨に異常が出そうだった。ここが病院でよかっ、いやよくない。
そっと莉子の手が伸ばされる。覚悟を決めたが、痛みの襲撃はなかった。
俺の頭が静かになでられていると気付いたのは、目を開けてから数秒後のことだった。
「ありがとね。わざわざ謝りに来てくれて」
「……そうか。そうだったよな。思い出したよ」
頭突きは許すの証。頭突きをした後は、頭をなでながら、相手を許してあげるという約束。
これも莉子の発案だった。本当に、俺を許してくれるのだろうか。恐る恐る莉子の顔色をうかがう。
莉子は、しとやかに笑っていた。負の感情は、雨粒ひとつ分も存在していなかった。
「おかえり、孝哉」
ああ、そうだった。
俺が、死にたくなるほど見たかったのは。
「……ただいま。莉子」
「最初から怪しいなって思ってたよ。あんまり変わってないんだもん」
「まじかよ。けっこう見た目は変わってないか?」
「うん。だけど、心は孝哉のままだから」
ほほえむ莉子。初めから見抜かれていたらしい。余計な苦労をかけてしまったみたいだ。
莉子の口調が昔の通りに戻ったことが、俺が孝哉だと信じてくれた証明になっていた。
「……なにも言わずに、別れちまったよな」
準備していた話題なんてない。
それでも、水が川の下流に落ちていくように、自然と言葉が口から出て来る。
「俺、莉子が泣くなんて思わなくてさ……外の話をしたのが、原因だと思ったんだ」
「やっぱり、あれのせいだったんだね……孝哉と学校に行きたいなって思ったら、あの時だけ、悲しくなっちゃった」
「……そうだな。莉子は泣かなかった。あの一回だけだった」
たった一ヶ所のほころびを、俺は縫い合わせてあげることができなかった。
弱かったのは、莉子じゃなくて俺だったんだ。
「ねえ、孝哉」
「なんだ?」
莉子が尋ねる。今の時刻を聞く調子にも似た、なにげない声。
「……わたし、大人になれないうちに、死んじゃうんだね」
「なっ……」
腰から下にかけている、白い布団に視線を落としながら、受け入れたように莉子はつぶやいた。
「もし生きてるなら、孝哉、わざわざ今のわたしに謝りに来ない……よね」
頭の中が真っ白になる。
なぜ。どうして。俺は死亡宣告をするために、莉子と再会したんじゃなかったのに。
俺を許してくれた莉子の心を、少しでも楽にしたかったはずなのに。
「もしかしたら、引っ越したから会えないのかもしれないけど、分かるんだ」
「莉……子」
「わたしの命は、もうあんまり長くないって。自分の体のことだから」
途切れ途切れに名前を呼ぶのが精一杯だった。
なんで、莉子は微笑んでいられるんだ。
長い長い入院生活。その果てに待つものが、始まりではなく終わりだと告げられたのに。
「……莉子」
考えるより先に、体が動いていた。
「つらかったな……ずっと、頑張ってたんだな」
莉子を抱きしめる腕に、静かな力がこもる。
「……うん。でも、わたしは一人ぼっちじゃなかったよ」
莉子は今、笑ってくれている。表情が見えなくても分かった。
「心の中に、孝哉がいてくれたから」
あたたかい体温。小さな体。周囲に心配をかけないために、望まぬ強さを備えさせられた心。
どれだけいとおしくても、離れたくないと願っても、ぬけがらさえも手元には残らない。
「……好きだったよ。莉子のこと。一緒に生きていきたかった」
「うん……わたしも。先に言われちゃったね」
涙は流れなかった。いや、流さなかった。
急いで感情を吐き出す必要はない。
これから、莉子の分まで生きるのだから。まだ早いんだ。いろいろな気持ちと別れるのは。
「孝哉。お願いがあるんだけど、聞いてくれる?」
「ああ。なんでもこい」
そっと体を離す。頼みを聞くなんて何年ぶりだろう。きっと、最後になるはずの頼み事。
「もう、わたしに縛られちゃ駄目。孝哉は自分の時間を生きて」
「自分の時間……か」
「わたしは、大丈夫だから。これからは、自分を幸せにすることを考えて」
こんな時でも、莉子は自分より、俺の生き方を優先して考えてくれていた。
ほんと、俺にはもったいないくらいの人と巡り会えた。俺の人生も悪くないなと感じた。
前髪を留めていたヘアピンを、静かに外す莉子。
「もし、わたしみたいに、一人ぼっちで生きてる人に出会ったら」
花の模様があしらわれた、淡い水色のヘアピン。莉子はそれを、そっと俺の右手に握らせた。
「そばにいてあげて。なるべく、たくさんの時間。お別れは、必ず来るものだから」
「……分かった。莉子の頼みだもんな」
「嘘つかない?」
「ああ。もう頭突きは勘弁したいからさ」
「頑張らないとだね」
お互いに笑う。莉子からの、おだやかな別れの言葉は、俺にからみつきかけていた未練の鎖を引きちぎってくれた。
と、同時、呼応したように世界が変化する。
病院の庭に来た際に見た白い光が、再び俺の視界を満たそうとしていた。
時間切れ、か。まだまだ話をしてたいけど――
――それは、間違いだ。やるべきことは、もう決まったのだから。
ここからは、俺の人生を歩き始めよう。自分の足で歩いていこう。
これからの景色は、これまでとは、ほんの少しだけ違って見えるはずだから。
「莉子。お別れだ」
「……うん」
莉子は小さくうなずいてくれた。俺を送り出すために、さびしさを隠した笑顔をたたえて。
忘れたかった過去は、大切な記憶に変わった。莉子のおかげで、後悔を乗り越えられた。
出会いから別れまでは短かったけど、やがて死ぬ日まで、俺は莉子との思い出を覚えておく。
いつの日か、莉子と同じ風景を見ながら、話の続きを聞かせてあげるために。
白い光は急速に増える。物音や風の香り、温度や視覚が奪われていく。
出会いと別れは翼と同じ。対になるからこそ、より高くまで羽ばたける。
「孝哉。――――
景色が途切れる瀬戸際で、小さな言の葉が届いたけれど、全てを理解することは出来なかった。
かろうじて分かったのは、俺の名前を呼んでくれた声。
それから、秋夜に流れる鈴虫の音色にも似た、莉子の優しい笑顔だけだった。
―――――
「本当だねっ。孝哉なにかしたの?」
意識が覚醒する。舞の声が引き金だった。
俺は、面影石を手のひらに乗せたまま棒立ちしていた。急に風景が変わったせいで混乱が極まる。
「舞か? なにかしたって、どうしたんだ?」
「へ? だって、見てくれとか色が変わったとか言わなかった?」
心底理解不能といった面持ちの舞。俺も状況が読めない。
辺りを見回す。舞の実家、広い神社の中庭だった。
ここは、さっきまでゴミ拾いを行っていた場所だ。ひんやりとした空気が、境内を通り過ぎていく。
「戻ってきたのか」
再会は、本当に終わってしまったらしい。
しかも、時間は止まっていたようだ。俺が舞に話しかけた瞬間が維持されていた。
「戻った? なになに、どっか行ってたの?」
「ん。そうだな。俺は子供のままだったよ」
「えー?」
舞は面白半分に笑っていた。ありがとな。莉子と再会できたのは、舞が面影石を落としてくれたおかげだ。
にしても、この石は何なんだろう。好奇心を覚えながら、手のひらの面影石に視線を移した時、
ぴしり、と、ひび割れに似た音が聞こえた。
それは面影石からだった。まるで時計が鼓動を刻むように、ひびは長さと深さを増していく。
やがて、ひびが表面を二分化した瞬間、面影石は青銅のような音色を鳴らして、粉々に砕け散った。
「きゃああああ!? なんで! どーして何もしてないのに割れたのっ!?」
悲鳴をあげる舞。そういやこれ、舞ん家の家宝だった気もする。
やばい。俺が原因っぽい。俺お金ない。すでに面影石の粒子は風に飛ばされた。手遅れとはこのことか。
「えっと……すまん舞。たぶん俺のせいだ」
「そうなの? じゃあ孝哉が悪いっ! 責任とって、私に美味しいチーズケーキをおごること」
「それでいいのかよ! 家宝じゃなかったのか?」
「んー大丈夫! 誰にでも、いつか帰る場所はあるからね。ひとつの場所には、とどまれないんだよっ」
弁償で大金を請求されるかと思いきや、舞の注文は非常に庶民的だった。チーズケーキ美味いよね。
格言めいた話も参考になった。いつか帰る場所か。その意味も、今なら楽に理解できそうだ。
面影石は土に還った。優しい夢は、もう見られない。
寂しくないと言えば嘘になるけど、未練は残らなかったから、きっとこれが最良の現実だ。
そういえば、と、ポケットに手を入れる。
花の模様が綺麗な、淡い水色のヘアピンは、確かに存在していた。
莉子は、どうしてこれを渡してくれたのか。その意味たちを見失わないようにしよう。
大切な人の心に寄り添いながら、絶えず訪れる未来を生きていこう。
莉子、さようなら。それから――ありがとう。




