第一話 いつもの帰り道
コミックマーケットの帰り道は、いつも少し寂しい。
さっきまで、あれだけの人がいた。
東京ビッグサイトの中には、人、人、人。
サークルスペースには本が並び、コスプレエリアには色とりどりの衣装が行き交い、あちこちから話し声が聞こえていた。
それが、もう終わった。
「……終わったなぁ」
たかひろは、大階段をゆっくり下りていた。
片手には紙袋。
背中にはリュック。
中には今日買った同人誌が入っている。
今年も一日、よく歩いた。
45歳。
昔ほど体力はない。
若い頃なら、閉会後に打ち上げへ行って、そのまま友人と夜遅くまで話していたこともある。
今はもう、帰ったら風呂に入って寝たい。
それでも来る。
コミックマーケットには、三十回以上参加している。
一般参加だけではない。
サークル参加もした。
コスプレ参加もした。
長く来ていると、それなりに思い出もある。
「……次は冬か」
たかひろはスマートフォンを取り出した。
次の開催まで、まだしばらくある。
12月。
毎回思う。
長いような、短いような。
「まあ、また来るんだろうな」
そう呟いて、スマートフォンをしまった。
そして、階段を下りる。
一段。
また一段。
周囲には、同じように帰路につく参加者たち。
大きな紙袋を抱えた人。
キャリーケースを引く人。
コスプレ衣装のまま歩く人。
カメラを肩から下げた人。
何度見ても、コミケの帰りは独特だ。
疲れている。
でも、どこか満足している。
そんな人間ばかりだった。
たかひろは、ふと足を止めた。
「……?」
何かがおかしい。
そう思った。
理由は分からない。
ただ、妙な違和感があった。
風景はいつも通り。
階段も同じ。
人の流れも変わらない。
たかひろは首を傾げながら、もう一段下りた。
そして――
次の一段へ足を置いた。
「……あれ?」
足の裏に伝わる感触が、一瞬だけ消えた。
階段がない。
「え?」
身体が前へ傾く。
手を伸ばす。
だが、何も掴めない。
人の声が消えた。
足音も消えた。
東京ビッグサイトのざわめきも消えた。
ほんの一瞬。
目の前が真っ白になった。
そして――
「……?」
たかひろは、その場に立っていた。
転んでいない。
怪我もない。
紙袋もある。
リュックもある。
スマートフォンもある。
だが。
「…………」
景色が違った。
たかひろはゆっくり振り返った。
そこには大階段があった。
東京ビッグサイトによく似た、巨大な建物。
形も似ている。
規模も似ている。
だが、看板が違う。
ロゴも違う。
周囲の建物も、微妙に違っている。
「……何だ、これ」
人は普通に歩いている。
誰も騒いでいない。
誰も何かに驚いている様子はない。
たかひろはスマートフォンを取り出した。
電波はある。
時刻も正常。
ネットにもつながる。
地図を開く。
「…………」
現在地は表示されている。
しかし、見慣れない地名だった。
「……どこだ、ここ」
駅名を検索する。
出てくる。
住所もある。
ニュースもある。
天気予報もある。
コンビニもある。
鉄道会社もある。
何もかも、普通に存在している。
ただし――
知らない。
たかひろの知っている日本とは、少しずつ違っていた。
駅名。
会社名。
テレビ局。
出版社。
プロ野球チーム。
政治家。
どれも日本によく似ている。
しかし、知らない。
「…………」
たかひろは、しばらく黙っていた。
そして一つの可能性を考えた。
「……異世界?」
口に出してみる。
馬鹿馬鹿しい。
そんなことがあるわけがない。
だが、自宅の住所を検索してみる。
出てこない。
もう一度。
出てこない。
たかひろはスマートフォンを握ったまま、ベンチに腰を下ろした。
「……嘘だろ」
異世界。
そう考えるしかなかった。
だが、剣もない。
魔法もない。
魔物もいない。
空飛ぶ城もない。
電車は走っている。
コンビニもある。
スマートフォンも使える。
そして人々は、普通に日本語を話している。
たかひろは、少しだけ安心した。
「……まあ、生活できるなら何とかなるか」
45年間、生きてきた。
こういう時に慌てても仕方がない。
まずは情報を集める。
仕事を探す。
住む場所を確保する。
それから元の世界へ帰る方法を探す。
そう考えた。
その日の夜。
たかひろはホテルの部屋で、この世界のインターネットを調べていた。
そして、あるページを見つけた。
「……ん?」
画面に表示された文字。
それを見て、たかひろの動きが止まった。
『コミックマーケット』
「…………」
何度も見直す。
間違いない。
この世界にも、コミックマーケットがある。
しかも――
「……来月?」
開催予定日は、一か月後。
たかひろは椅子に座ったまま、しばらく画面を見つめていた。
やがて。
「……行くしかないだろ」
口元が少し緩んだ。
異世界に来てしまった。
帰れる保証もない。
知っている人間もいない。
知らない街。
知らない日本。
それでも。
来月、コミケがある。
「……俺、異世界に来てもコミケ行くのかよ」
自分で言って、自分で笑った。
こうして、たかひろの異世界生活が始まった。
そして一か月後。
彼は、この世界のコミックマーケットで――
もう一人の日本人と出会うことになる。




