『芍薬の歌』あらすじ 10(百二十七節~百四十二節)
[今は結婚をするつもりはないと、峰の答がお京に告げられる。その翌日柳吉は、善明院の隠れ家で血を吐いて倒れたところを、書生の間鍋に殺されかかる。それを助けた幾世の献身的な看護によって、柳吉は恢復。二人はそのまま結ばれるかと思えたが、菊川の霊が幾世に襲いかかる。幽霊に化けて幾世を気絶させたのは、柳吉との仲を嫉妬したお舟だった。]
浄玄寺の客殿では、お京が経机に向かって法華経の提婆品を読んでいる。
そこへ如海が現れて、柳吉が峰邸から持ち帰った、峰の返事を伝えた。
「峰さんはな、目下の処、日本はおろか世界中、誰とも彼とも、たって縁組みをなさる御心はないのですわ!」
峰の家でそれを見た柳吉も、「やあ、卑怯だ、いったんお京さんの魂に手をかけておきながら」と、お京が作った夜鷹の人形から、峰が帯を解いて翡翠の玉を取りだしたことをなじったのだが、「見て下さい」と峰が取りだした紙人形は、帯を掛けたまま、ナイフで真っ二つに切られていたのだという。
その人形を如海から差し出されたお京は、
「ええ、死んでおしまい」
人形の咽喉に、簪をグサリと刺した。
翌日。お京が催した先日の墓掃除で清められた観音像を拝んでいる幾世の姿があった。
お京や峰、如海のおかげで群八ときれいさっぱり縁を切り、正式に鶴兼に引き取られて老主婦の慈愛を得たことを観音様に告げて感謝している。今日は老主婦の勧めもあって、母親の墓参に来たのである。
溝端にある花屋の、気のいい媼さんから線香を買って閼伽桶を借りると、善明院の墓所に向かう。すると卵塔場のなかでむくむくと動き出した影がある。鮨屋菊川の常連だった書生の間鍋だった。
「もしや……」
と声をかけようとして近づくと、傍らに建つ脇御堂の雨戸が開いて、内には別の男が横たわって呻吟いている。苦しがって水を求める男に、間鍋は樒の毒が沁みた水を牡蠣殻に汲んで飲ませようとしているのだ。
「おい、先生、俺は間鍋順助だ。貴様の塾に半年ばかり在籍した弟子だ。先生と言ってりゃいい気になって、何だ、この色が汚い、線が拙いなどとぬかしやがって。貴様の画が何だい。この偉大なる思想を抱いた豪傑にとって、描く人間の面が曲んでいようが、それに何の問題がある」
と、外国語も交えて自己の芸術観をまくしたてている。
「よく酔っぱらった勢いで、俺のことを豚だと言ったな。それが今のこの醜態は何だ。豚に踏みにじられる蚯蚓じゃないか。蚯蚓の飲む水はこれだ」
牡蠣殻を差し出された男は無念ながら、「この渇きには替えられない」と水を飲もうとしている。
その、瀕死の男が柳吉だと気づいた幾世は、「間鍋さん」と声をかけると、
「酷いわねえ、そんなものを」
と駆け寄って、牡蠣の汚水を圧えた。
「どうして来たのかい、こんな処へ」
「ええ、私は参詣ですわ」
隣の浄玄寺に五、六台の俥が停まっていたのを思い出した間鍋は、今にも大勢の連れが来るのではないかと慌てて去ろうとしたが、周囲を窺って、懐からぬっと手を出すと、
「君、君、幾千金か持っとらんかね。貸したまえ」
と、蝦蟇口ごと差し出す幾世の金を奪って去って行った。
「三浦さん、幾が来ましたよ、私ですよ、しっかりして下さいましよ」
幾世が柳吉の胸にすがる。
すぐにも閼伽桶の水を飲ませようとしたが、エエどうしよう、柄杓がない。
「先生、菊川ですよ、おいらんですよ」
と言って水を口に含むと、思い切って柳吉の唇へ……。
それから三日目の夜、蒲団から半身を抜け出した柳吉を、幾世は膝枕させながら、
「まあ、こうやって、静としていらっしゃいましな」
と、顔を寄せていた。あのときのことを瀕死の柳吉は覚えていなかったが、菊川の名を呼びながら、幾世を抱いて離さなかったのだという。
「母さんが、お墓から来たんでしょうか」
「そうかも知れない」
峰の屋敷に出向いた前日から、すでに悪寒を感じていた柳吉は、高橋の茶飯屋でコップ酒を十五、六杯も浴びて善明院の隠れ家に帰ってきたのだが、おいらんの墓の前で冷たくなるまで夜露に濡れて、奪衣婆に引かれる菊川の幻を見た。這うようにして堂に戻ると、見下ろしてくる奪衣婆と牛頭馬頭の像の顔を布で包んだが、そのまま血を吐いて気を失ったのだという。
「幾ちゃん、あの時の渇きと同じほど、お前さんに逢いたかった」
幾世が医者を呼んだとき、この場所を明かさないようにお願いしたことにもふれて、
「なに、そんな心配にゃ及ばない。お尋ね者というわけじゃなし、自分勝手にこうやっているんだもの。けれども幾ちゃんのことは、命の親だとあがめている」
「まあ」
「そのかわり、甘えたい。また水をのましておくれ」
「存じません。そんなに飲っちゃあ毒でございます」
冗談めいた口も利きあう仲になった二人だった。
続けて幾世は、先刻峰が鶴兼を訪れたことを告げると、
「お逢いなさいますか」
と訊ねた。峰は「遊びに来たよ、幾ちゃん」と芸者衆を呼んで飲みながら、
「そこに三浦がいたらどんなに嬉しいだろうな。逢いたいよ。三浦が私に居所を知らせてくれる気なら、今から行く」
と言うので、それを確かめにここに来たのだという。
柳吉のもとに通うには、行く先を秘密にしなければならないから、鶴兼に隠し事をしているようでいつも気が引けている。もし柳吉が居場所を明かせば、夜通しでも傍にいて看病が出来ると言う幾世に、柳吉は峰に逢うことを快諾したばかりか、
「我慢も意地も自棄も何も、お前さんゆえに忘れたよ。四ツ這いに這っても、どこか裏長屋へ引っ越して、お幾さんが座るのに、膝ぐらいは痛くならないようにしたい」
と言う。
幾世もまた、
「お傍に居るなら、たとい日の中、水の中――野宿だって構いませんわ」
と、鶴兼で待っている峰の元へ向かうことにした。
その際、ふと気になったのは、須弥壇に並んだ三体の木像である。寺を出る前に、どうも不吉に思えるそれを、本堂裏の位牌堂に片づけて行くことにした。柳吉も、それは願ってもないことだという。ただし、布で顔を隠しているその像の「顔を見ちゃ不可いよ」と念を押す。幾世はまだ、それが恐ろしい奪衣婆、牛頭馬頭の像であることを知らないのである。
蜘蛛の巣を払いながら三体目を運んだとき、顔を覆った布がずり落ちて、馬鬼の顔がぬっと出た。それと同時に一枚の位牌がガタリと床に落ちた。
そんな不気味なことがあってから、幾世は柳吉を残して善明院の門を出たのだが、待たせていたはずの俥の提灯が見えない。「待っててくださいよ」と言い棄てにしたのを車夫が聞き落としたのかも知れない。灰のような小雨が降る闇夜のなかで、
「困ったわねえ」
と戸惑っていると、どこからかヒヒイと馬の嘶く声が聞こえる。息を引いて善明院のほうを振り返ると、屋の棟に朦朧と顕れたのは、黒雲を見上げるような、巨大な馬の軀である。
声も出せずに五歩ばかり進むと、前途の小径から、霧を泳ぐような人の影が現れた。
「媼さん、媼さんですか」
と、花屋の媼さんかと期待した影に声をかけたが、近づいて顔を上げたのは、奪衣婆ではなかったか。思わず叫んで浄玄寺の門へ逃げようとしたが、小山のようにうずくまった真っ黒な牛に遮られた。
「兄さん!」
と声にならない声で呼んだとき、門の柱にしょんぼりと立った女の姿が見える。
「お幾」
と呼びかけてくるその女の声は、菊川ではないか。
「久しいな、お幾坊」と切なげに掠れたその声に、
「あれ、貴方は」
「忘れたか。親の顔を忘れるような心だから……畜生」
と、倒れかかって膝を支いていた幾世の身体を抱えると、覗きこんだその顔は、荒れ狂った死に際の苦痛の面影そのままだった。
「あれ、母さん」
「お黙り」
と幾世を突き放す。
「どの口でお言いだ、母親なんぞ。……お前はよくも三浦さんを、私の柳さんを寝取ったね。畜生、活きながら犬におなり」
母の遺言どおりに柳吉を助けたのだという幾世に、気が違って言ったことに本心があるものかと菊川の霊は言うのである。
「母様、あれ、堪忍して」
「もうこれッきり柳さんの顔を見ないか。二度と善明院へ行かないか」
と詰め寄る亡霊は、これから柳吉を取り殺すのだと言う。
「牛鬼、馬鬼、奪衣婆を抱いて来て、地獄の底へ私の位牌を突き落とした者がいた! お幾、ありゃ誰だ、誰なんだい」
そう言われて幾世は、先刻の位牌堂での出来事を思い出す。
「堪忍しないよ、覚悟をおし」と迫られて、幾世は気を失った。
「ふふん」
と顔をそむけて「ああ、寒くなった」と襟元を引き合わせたのはお舟である。手を拍くと尾花の陰から顔を出したのは彦造だった。
「姉御、凄かったぜ」
「こいつは目を眩したから打棄っちゃ行かれない。お前、この娘を引っ担いで、花屋の軒下へ放りこんで、一つドンと戸を敲いて遁げておくれ」
と、まんまと瞞された幾世の身体を彦造に始末させるのだった。