再会
さあ、ハイヤームよ、酒に酔って、
チューリップのような美女によろこべ。
世の終局は虚無に帰する。
よろこべ、ない筈のものがあると思って。
──作家は、悪にならなくてはいけない。これは、私がこの仕事に就て間もない頃、師匠から賜った言葉である。
私は永年、この言葉の意味するところを、勘違いしていた。すなわち、作中人物に試練を与え、艱難辛苦を乗り越えてさせてこそ、作品の深みが増し、視聴者なり読者なりに、カタルシスを与えることができる──と。そうしたごく当たり前の創作技法ついて、師匠は仰ったのだと。
そう、思い込んでいたのである。
しかし、どうやら違ったらしい──師匠のあの言葉には、それ以上に重要な意味があったらしい。二十年以上も作家生活を続けて、私はようやくそのことを、理解した。
あの時、師匠は、こう言いたかったのだ。
──悪にならなくてはいけないよ。
──現実を超える為に。
現実とは、怖しいものである。ある程度の歳を重ねた人間であれば、誰もが知っている事実だろう。
その怖しさ──あるいは虚しさや残酷さといったモノを、超える為に。
作家は、悪になる必要がある。
私はこれまでのキャリアの中で、ミステリやサスペンスを主に手がけ、喜ばしいことに、それなりの評価を、世間様から頂戴して来た。
そんな私が、必死に知恵を絞り、手練手管を尽くして創作した悪や、犯罪者よりも……現実と言う奴は、よほど怖しいのだから、敵わない。
昨今は、特に、そう思う。
意味不明な動機で人が殺され、時には大した理由もなく、殺される。
ほんのよちよち歩きの幼児を、親が殺す。
交差点を行き交う名も知らぬ人たちを、腹癒せの為に殺す。
人を殺してみたかっというだけで、高校生が同級生を刺し殺す。
テロリストが旅客機を乗っ取り、ビルへと突っ込む。
宗教家が地下鉄に、毒物を撒く。
かと思えば、神罰の如き大災害で、何千何万もの命が、奪われる……。
挙げ続ければキリがないほど、フィクション顔負けの“新機軸事件”が、このところは、増えて来たように感じる。
一、二昔前には、「新本格」などと呼ばれるミステリ作品が持て囃されたこともあったが……この「新本格」が衰退した真の原因は、ここにあるのではないか。
すなわち、「現実を超える悪」を描くことの、難しさ。
それから、「悪意の乏しいミステリ」が増えたことによる、ジャンルとしての陳腐化。
現実世界の悪が、日々進化して行くのとは、対照的に。推理小説においては、悪意の重要性が、次第に失われてしまったのだと、私は思う。
その結果、単なる「本格ミステリ」程度では、現実逃避的な読書体験を、読者に与えられなくなったのではないか?……などというのは、老害親父のボヤキに過ぎないので、本気で聞いていただく必要はない。
思いの外、紙幅を割いてしまったが……要するに、私が作品の中で、やたらと人を殺したがる理由は、これなのだ。
ただ単に、人死にを描いて、みなさんの涙を誘いたいのではない。
私は、「悪」になりたい。
怖しい現実に、屈してしまわぬように。
現実よりもずっと怖ろしいと思えるモノを、読者なり視聴者なりに、お見せしたいのだ。
この、ある種の反骨精神──叛逆者精神こそが、私なりの作劇論。
気取った言い方をするのであれば、ドラマツルギーである。
(赤星日出雄自叙伝『叛逆者』より抜粋)
平成の終わりに、鷺沼家の保養地で起きた、大量殺人事件。日本の内外を問わず、多くの人々に衝撃を与えたこの一大事は、今尚人々の耳目を集め続け、様々な情報と憶測が、飛び交っていた。
一時は、翌年に控えたオリンピックの開催も、危ぶまれるのではないか、とさえ言われたが……さすがにそのようなことにはならず。ありとあらゆる広告媒体から、鷺沼グループの名前が削除され、多少予算の見直しが行われた他は、ほとんど予定どおり、開催準備が進んでいた。
代表者と重役を一度に失った上、鷺沼家の闇が露見──それでも、世に明かされたのは、巨大な氷山の一角に、過ぎない──したことで、鷺沼グループは、大幅な規模縮小を、余儀なくされた。
同グループは、謝罪と説明の為の会見を開き、第三者委員会を発足すると共に、新たな代表者を選出すると発表。「お客様と国民の皆様の信頼回復に尽力して参ります」と、お決まりの文句で、締め括られた。
その会見の場に、社長夫人である鷺沼麗香の姿は、なかった。
麗香が公の場に現れたのは、会見の翌日であり──公の場と言っても、取材が行われた場所は、鷺沼家の本邸の前だった。
地下ガレージのあるモダンな豪邸を背に、喪に服す麗香の姿は、一躍世間の同情の的となる。夫よりも五つ以上は若く、艶やかな黒い髪と、整った白い顔をした彼女は、スマートな佇まいをしていながらも、この上ない悲壮感を、全身から滲ませていた。
麗香は、時折り目許を拭う場面こそあれど、ほとんど言葉に詰まることなく、非常に真摯な姿勢で、取材陣の質問に応じた。
それが、ウケたのだろう。鷺沼グループへの批判は数多くあれど、この健気な元社長夫人を指弾する声は、ほとんど見られなかった。
また、この事件によって命を落とした俳優──天道琴矢の所属していた芸能事務所も、文書にて、声明を発表。事務所内ではかなりの古株となっていた天道に対し、哀悼の意と感謝を述べると共に、同じ町で亡くなった他の人間に対しても、同等の弔意を示した。
これをキッカケに、さまざまな報道番組で、天道の経歴や、出演作について、取り上げられることになる。
鬼才と呼ばれた脚本家と、元スター女優の間に生まれ、子役として演技活動を始めたのち、鷺沼グループが撮影協力したドラマにて、主演を務め上げた。その後、傷害事件を起こした為に、一度はテレビから、姿を消したものの……天道は、最期まで、役者であり続けた。
生前の功績が、讃えられた一方で、かつて例の町で亡くなった女性との関係が、取り沙汰されもした。
彼女──「鬼村聖子」という女の死に、天道が、関与していたのではないか? また、二人の間には、隠し子がいるらしい、との噂もあった。
こうした話が、あくまでも「噂」に留まったのは、宗介が書き認めたという遺書の内容が、解読不能な状態だった為だろう。
宗介が、予想外の乱入者──雄ライオンの襲撃に遭った際、同時に上着の内ポケットに入れていた遺書も、切り裂かれ、血で染まり、駄目になってしまったのだ。
そのお陰で、宗介による「告発」が、衆目に晒されることにはならず。橘も無事、生き延びた為、宗介の企図した計画は、完遂とはならなかった。
無論、天道と凛果の親子関係に、世間が気づくことがなかった、という点に関しては、幸いと言えよう。
それから、天道以上に世の関心を集めたのが、日系アメリカ人人類学者の、レンジャーである。
レンジャーが、宗介の隠し子であったらしいこと。そして、彼が自分の異母兄弟たちと叔母を、皆殺しにしてしまったこと。こうした情報が知れ渡ると同時に、レンジャーは、希代の悪党として、世間から認知される。
レンジャーの、普段の人となりを知る人間にしてみれば、この点が、最もショックだったはずだ。
特に、レンジャーと蒼一の共通の友人であった、スチュアート・インダストリーの社長は、自身のSNSで、悲嘆するコメントを投稿。
「弊社主催のパーティーに招いた時は、二人とも変わった様子はなく、久しぶりの再会を喜んでいたと、部下からも聞いていた」
といった内容である。
かくして。
平成が終わり、令和が始まってから何ヶ月もの間、世間は「鷺沼家事件」の話題で、持ちきりだった。
その陰で、ありきたりな事故や事件のニュースは、埋もれて行く。
『先日、大阪府河南町の山中から、身元不明の男性の死体が、発見されました。大阪府警は身元の特定を急ぐと共に、この男性が、何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いとして、捜査を進めています』
平凡極まりない死体遺棄事件だと、誰もが、そう思っていた。
たった一人──いや、犯人を含む二人を、除いては。
※
白亜の町での惨劇から、約三ヶ月後。
二〇一九年──令和元年、八月。
平成最後の春が過ぎ、令和初の夏も、折り返しを迎えていた。この日も夏らしい日差しで、雑居ビルの狭い階段を上り、美杉探偵事務所のオフィスに着く頃には、彼はスッカリ、汗だくになっていた。
従業員に迎え入れられ、応接スペースのソファーへ腰を落ち着かせた彼は、挨拶の言葉を口にしつつ、ハンチングを脱ぎ、額や首筋を、ハンカチで拭う。そこへ、事務員の沢渡が、よく冷えた麦茶を運んで来た。以前、彼がここを訪ねた時は、まだ熱い緑茶でも、問題のない時期だった。
お茶汲みの仕事を終えた沢渡は、しかし、すぐに立ち去ろうとはせず。テーブルの傍ら立ったまま、客人に対し、好奇の眼差しを注いでいた。
そんな彼女を、彼の真向かいに腰かける田花が、横柄な態度で追い払う。
「しっし、厚化粧ババアはお呼びとちゃうねん。邪魔やから、話が済むまで引っ込んでろや」
普段はロクに仕事もしていないクセに、酷い言い草である。
沢渡も沢渡で、怒りを隠すようなことはなく、田花を睨みつけたかと思うと、
「死ね」
と、突き立てた中指を見せつけながら、パーテーションの向こうへ、去って行った。
あまりにも容赦のないやり取りに、客人はしばし、あっけに取られていた。が、どうやらこの探偵事務所では、珍しいことでもないらしい。
丸いサングラスをかけた顔に、相変わらず軽薄な笑みを浮かべたまま、田花は客人へと向き直る。
「すんませんねェ、口の悪いおばちゃんで。──それより、だいぶ元気になったようで、安心しましたよ、久住さん」
「え、ええ。自分でも驚くくらい、快復しました。手術を終えた直後は、本当に辛かったですが……お陰様で、こうしてまた、会いに来ることができましたよ。もしかしたら、紫苑お嬢様が、護ってくださったのかも知れません」
言いながら、久住完吾は下腹の右側──撃ち抜かれた場所を、手で摩る。
「怖しい経験をされましたね。ま、ホンマは高部の家を訪ねた時、俺らが久住さんに、気づいとったらよかったんですが……」
「いえいえ、私が悪いんですよ。……あの時、私の方は、お二人に気づいとったんです。それやのに、あの人──高部さんの息子さんに従って、無視してもうた。どうしても、真実を知りたい一心で」
紫苑の亡骸の在処と、吾郎が鬼村夫妻を惨殺した動機を教える──そんな口車に乗り、久住は、和人の言いなりとなってしまった。
その結果、久住は薬によって眠らされ、体を拘束された挙句、あまつさえ、射殺されかけたのだ。
「本当に、みなさんにはご迷惑をおかけしました。私の我が儘から、こんな大事件に、巻き込んでまうなんて……」
「久住さんは、悪ないでしょ。つうか、謝られる意味がわからん。俺としては、滅茶苦茶楽しませてもらいましたからね。まあ、オイシイところは全部、緋村に持ってかれてもうたけど」
いったい何の話か、久住には、わからなかったらしい。田花の後輩が、たった一人で白亜の町の真実に迫り、果てはライオンを相手に、大立ち回りを演じのだが──それらは全て、久住が意識を失っている間の、出来事だ。
「ま、ええわ。凹んどる爺さんの相手しててもおもんないし、そろそろ本題に入りましょうか。──久住さんのお父さんが、鬼村夫妻を殺害した動機について。たぶん『これなんちゃうか?』ってのが、ありましてね」
「動機がわかった、ということですか?」
「あくまでも、俺らの想像ですが。──キッカケになったんは、おそらく、事件が起きる一週間前の、出来事。久住さんが天国洞の中で、気色悪い爺さんと、遭遇したことです。端的に言ってしまうと、お父さんはその話を聞いて、鬼村夫妻の抹殺を、決意したのかと」
「わ、私のせいで、父は、犯行に及んだ……?」
「そんな風には言うてませんよ。あくまでも、キッカケってだけです。──久住さんの話を聞いたお父さんは、洞窟におったその爺さんが、鬼村やと気づいたんでしょう。と、同時に、なんで鬼村がそんなところに、半裸で、四つん這いになっとったんか──その理由にも、思い至った。だから、殺すことにしたんです」
つまり、非があるのは久住ではなく、鬼村の方だと、田花は付言した。
そうは言われても、容易には受け入れ難いのだろう。久住は、
「父は、五十年前の事件に纏わる秘密を、全て知っとったんでしたね。紫苑お嬢様が、実は延命されとって、鬼村先生の子供を、何人も……。そんな惨たらしいことが行われていたと知りながら、黙っとった。鷺沼家のみなさんに対する、忠義を貫く為に」
「そうやったんでしょう。せやから、すぐに理解できたんですよ。久住さんが洞窟で出会した時、ホンマは鬼村だけやのうて、もう一人、その場におったことを」
「もう一人? しかし、あの老人の他には、誰の姿も見当たらなかったはずですが……。もしや、洞窟の奥の暗がりにでも、隠れとったんでしょうか?」
「その人がおったんは、鬼村の真下です。つまり、あの時鬼村が四つん這いやったんは、その人へ覆い被さっとったから。
たぶん久住さんは、鬼村の異様さに気を取られて、その人の姿が、よう見えんかったんでしょう。……何より、彼女はまだ、子供やった。せやから、鬼村の体と、洞窟の暗がりによって、隠されてもうたんです」
「──ま、まさか」
久住は目を瞠り、言葉と共に唾を呑み込む。田花の言わんとしていることに、思い至ったのだ。
「せ、聖子さんが、そこにおった、ということですか?」
「……おそらく。なんで鬼村が、自分の娘に覆い被さっとったのか。嫌な想像になりますが……劣情を満たそうとしたのかと。つまり、久住さんが鬼村と出会した時、そこでは性的な虐待が、行われとったわけです」
探偵は顔を歪める。ちゃらんぽらんに見えて、案外真っ当な感性を、持ち合わせているらしい。
久住も田花同様、苦しげな顔をした。……が、しかし、真に不愉快な話は、ここからだった。
「鬼村は、ヘベフィリア──思春期前期の子供が、ストライクゾーンやった。宗介は、そんなことを言うてたそうです。だからこそ、奴は当時十三になったばかりの紫苑さんを、植物状態にさせてまで、手に入れたいと望んだ。……が、実際のところ、中学生でも小学生でも、大して関係なかったんでしょう。特に、当時の聖子さんは、確か小学五年生──十一歳になっとった。鬼村の欲した、『あの頃の紫苑さん』に、だいぶ似て来とったはずです。
初めは鬼村好みの少女やった紫苑さんも、二十年も経てば、大人になってまう。加えて、死を偽装する為に、鬼村は紫苑さんの両手両脚を、切断していました。……そうやなくても、やっぱり意識のない人間を相手にするだけでは、満足できんかったんでしょう」
「そ、それじゃあ、鬼村先生は……紫苑お嬢様の代役を、務めさせるつもりやったんですか? 聖子さん──自分の、娘に?」
「むしろ、初めからそれが目的やったのかと……。紫苑さんの血を引いた女の子を産ませることで、『生きている鷺沼紫苑』を、手に入れる算段やった。せやから、鬼村は女の赤ん坊が産まれるまで、紫苑さんを妊娠させ続けたんです。──そして、不要な存在である男の子供は、二人とも、高部さんに押しつけてもうた。それが、和人と俊太でした」
紫苑は離れに匿われ、密かに延命させられていた、と考えられる。当然、出産に関しても、秘密裏に行われていただろうから、事前に超音波検査によって、赤ん坊の性別を確認することはできない。離れに設置されていた医療機器は、せいぜい延命に必要な装置くらいだろう。
実際に産まれて来るまでは、紫苑の子供の性別はわからなかった。だからこそ、鬼村はハズレである男の子供であっても、中絶を行えなかったのだ。
「い、イカレとる。そんな悍ましいことが、現実に行われとったなんて……信じられません。信じたくない、と言うた方が、正しいかも知れませんが……」
「そこまで紫苑さんに執着しとった、ということでしょう。鬼村は。──ちなみに、倉橋家に引き取られた聖子さんは、養父の元さんに対し、心を閉ざしとったようです。おそらく、鬼村から受けた仕打ちがトラウマになって、大人の男を、警戒しとったのかと」
聖子は、両親を奪われたショックで、塞ぎ込んでいたわけではなかったのだ。彼女はもう一つ、心に深い傷を負っており、そのせいで、「父親」という存在を恐れていたのでないか。田花は、そう語った。
「……ま、結局どれもこれも、俺らの想像でしかありませんけどね。鬼村も、その子供たちも、みな死んでもうた。真実を知る人間は、もう、誰も生きてへん」
みな死んでしまったのだ。あの、白亜の町で。
「……父は、鬼村先生が聖子さんによからぬことをしていると、知った。せやから犯行に及んだと、そういうお話でしたね?」
「ええ。要するに、久住さんのお父さんは、救おうとしたんですよ。聖子さんのことを。聖子さんは、偶然事件に巻き込まれずに済んだ言う話でしたが……そもそも、彼女は初めから、標的に含まれてへんかった。むしろ、聖子さんの為の犯行やったからこそ、彼女が小学校にいてる間に、決行したのかと。
お父さんは、これ以上鬼村の被害者を出さんようにする為に、妻の和恵諸共、鬼村を亡き者にした。和恵に関しては、側杖を食らったような形やけど……どのみち彼女も、鷺沼家の秘密は知っとったやろうから。口を封じる必要があると、判断したんでしょう」
久住の父──吾郎が、犯行後、離れに火を放ったのも、そこで紫苑が延命されていた痕跡を、消し去る為。
吾郎は、鬼村の所業を、これ以上見過ごすことができなかった。
と、同時に、鷺沼家に対する忠誠心が、まだ残っていたのである。
「……いろいろと教えてくださり、ありがとうございます。正義感の強かった、あの人らしい動機や。──いや、ちゃいますね。幾ら子供を助ける為とはいえ、その親を殺したんでは、正義とは言えません。犯罪に手を染めた以上、父も、鬼村先生と同類。やはり、どんな理由があろうと、赦されるやり方やありません」
「そりゃそうですわ。二人も──いや、紫苑さんを含め、三人も殺しとるんやから」
「仰るとおりです」
追い討ちをかけるような言葉に、久住は俯く。
その姿を、サングラス越しに眺めていた田花は、不意に、声色を変えた。田花は、語りかけるように、
「……お父さんのやり方は、確かに間違っていた。けど、そのお陰で、繋がった命もあります」
「繋がった命? それは、聖子さんのことでしょうか? しかし、彼女はもうとっくに」
久住が言いかけた時。
外から誰かの話し声と、階段を上がって来る足音が、聞こえ始めた。
「ええタイミングやな」
田花が呟いた直後、久住の背後にあるドアが、開かれる。
最初に戸口から現れたのは、この探偵事務所の主である、美杉だった。最近また体重が増したと思われる美杉は、久住がここへ来た時以上に汗だくで、首にかけたタオルを使い、顔中を拭いつつ、挨拶して寄越す。
「あなたが、久住さんですね。初めまして。私がここの所長の、美杉です。暑い中、よくお越しくださいました。いやぁ、ホンマに暑くて敵いませんわ。すみませんねぇ、こんなお見苦しい登場の仕方で」
「はあ、どうも……あのぉ、私に会わせたい人というのは」
「ああ、いや、私やありませんよ」美杉は、頬肉に目を埋めるように笑い、丸々とした手を振った。「特別ゲストは、こちらの方です」
美杉は肥った体を退け、戸口を振り返る。
彼の後ろから現れたのは、一人の少女だった。淡い水色のブラウスと、紺地に花柄のスカートを纏う、美しい少女──
その姿を目にした瞬間、久住は口を開けたまま、絶句する。
緊張しているのか、不安げな面持ちでそこに佇んでいるのは、確かに紫苑ではないか。
「し、おん……」そこまで口にした久住は、一度目を伏せ、息を吐き出してから、自らの言葉を打ち消した。
違う。
彼女は確かに、紫苑と似ている。しかし、違う人間なのだ。
田花の言葉で言うところの「繋がった命」が、そこにあった。
澄んだ鳶色の瞳をこちらに向けたまま、どうしたらよいものか、戸惑っている様子の少女──凛果に対し、久住は会釈を送る。
「初めまして。久住完吾と言う者です」
「は、初めてまして──倉橋、凛果です」
それは、時を超えた再会とも言うべき瞬間。一人の男の苦悩が、令和の時代を迎え、ようやく報われたのである。
※
約三ヶ月前──二〇一九年、四月二十九日。
その時──緋村の要請を受けた松谷が、凛果の元を、訪れていた時。
天道琴矢は一人、丘の上に建つ廃屋の前で、佇んでいた。
何か、明確な理由や意義が、あったわけではない。ただ、なんとなく、天道はここに来たくなったのだ。
おそらく、緋村の推理を聞かされ、殺人犯として糾弾されたせいだろう。
今更ここへ来たところで、意味などありはしないというのに。
リンカはもう、この家にはいないのだ。
夜の帷が下り、一番星が昇った空の下、天道は思い出す。
十七年前のあの夜、この廃屋を、訪ねた時のことを。
──これ。忘れて行ったのか、置いて行ったのか知らないけど……返すよ。
差し出した天道の手には、香水の瓶が、握られていた。
ヴォル・ド・ニュイ──黄金色の『夜間飛行』だ。
それを見たリンカは、困惑したような笑みを浮かべ、
──いらんから、置いていってんけど。
──俺だっていらないよ。思い出したくないんだ。
リンカのことも。そして、亡き母のことも。
天道の恋人は、彼の母が愛したのと同じ香水を、好んでいた。初めてこの廃屋で、出逢った時も。リンカは、母と同じ香りを、纏っていたのだ。
しかし、「今」は違う。十七年前に再会した時、リンカからは、ほとんど煙草と石鹸が混ざったような、曖昧な臭いしか、感じられなかった。
──どうしても、受け取らないって言うのなら……いっそのこと、もう一度。
勇気を出して、天道は伝えようとした。本当の、想いを。
しかし……。
──わかった。なら、せっかくやし、ありがたく頂戴しとくわ。
言葉を探し、躊躇っているうちに。リンカの白い手が、ヴォル・ド・ニュイを奪い取ってしまう。
初めて出逢った日と、同じ月が見下ろす中で。リンカは、香水の瓶を、胸の前で握り締め、
──サヨナラ。もう、二度と会いたない。
最後に、そう言って寄越した。
少しの後悔も感じさせないほど、晴れやかな表情と共に。
天道は、何の言葉も返せぬまま……リンカが扉の向こうへと消え、カチャリと鍵の閉まる音が聞こえて来るまで、立ち尽くしていた。
いったい、何の為に、わざわざこの町に来たのか。
天道の胸に去来したのは、抗い難い徒労感と、虚無感ともいうべき情感。天道なりに勇気を振り絞ってみたつもりだったのだが……遅かったのだろう。リンカにとって、自分は、過去の人間になっていた。
天道は、踵を返した。帰ろう。未練がましく突っ立っていたって、仕方がない。
白い家に背を向けた天道は、風車のある方へ、歩き出す。すると──
──なんや、フラれてもうたんか?
風車の壁に寄りかかりながら、煙草を喫む古傷の男が、下衆らしいせせら笑いを浮かべた。
この訪問を許可するに当たり、鷺沼瑠璃子の出した条件の一つが、このヤクザ者──鈍山を同行させることだった。
──まあでも、しゃーないわ。あの女は、初めから、お前のもんとちゃう。俺らのや。貸した金取り戻す為に、俺が、陣野さんに売ってやった。
天道は目を合わせることもせず、鈍山の傍らに見える扉だけを、目指す。
──それに、お前もこれでよかったやろ。後腐れなく、サヨナラできたんや。安心して、芸能活動を続けたらええ。
紫煙と共に寄越される嘲弄を黙殺し。天道は、二段だけの階段を上る。そして、そのまま風車の扉へ、手をかけた。
──それとも……やっぱりあいつが生きとる限り、不安か? 何やったら、俺が殺したろか? あの女も、あいつの産んだ餓鬼も。
天道は、思わず動きを止めた……が、やはり、何も言わなかった。酒に酔って、陣野に絡んだ時とは違う。殺してやりたいのはお前らの方だと思いつつ、天道は、憎悪を呑み下した。
こんなクズの相手をしたところで、何の意味もないと、悟って。
「……行くか」
追憶を終えた終えた天道は、自らに号令をかけ、踵を返す。そして、十七年前のあの夜のように、廃屋に背を向けて、歩き出した。
あの夜とは違い、町を目指して。
この時の天道は、当然知る由もなかった。あの礼拝堂の中で、自らの人生に、幕を下ろすことも。
そして、たった今思い返していた過去──十七年もの間、誰にも話さずにいた、リンカとの最後のやり取りを、緋村に打ち明けることになるとも。
天道は、全く予想だにしないまま、丘を下り、白亜の町へと戻る。
入り組んだ細い通りの先で、彼を待ち構えていたのは──
「……やっと会えた。もしかして、鷺沼家のみなさんのところへ、向かうのですか? なら、僕も同行したいのですが」
相も変わらず仏頂面をぶら下げた、緋村だった。
『白亜の町に死す ドラマツルギー』未完
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【真の終章:虚無への叛逆】
めぐる宇宙は廃物となったわれらの体軀、
ジェイホンの流れは人々の涙の跡、
地獄というのは甲斐もない悩みの火で、
極楽はこころよくすごした一瞬。
オマル・ハイヤーム(小川亮作訳)『ルバイヤート』
令和元年八月。
突如として現れた訪問者たちを前にし、佐伯信洋は、まっさきに驚愕の表情を浮かべた。それから、見間違いを疑うかのように、銀縁眼鏡をかけ直す仕草をし、細い目を、パチパチと瞬かせる。
「な、なんですか、あなたたちは。いきなりやって来るだなんて」
佐伯の抗議を、遮るように、
「久しぶりですねぇ、佐伯さん。その節は、大変お世話になりました。俺のこと、覚えてはります?」
探偵──松谷新は、わざと挑発的な言葉を放つ。同僚の田花を、真似るつもりで。
これはたいそう効果があったらしく、佐伯はキツネ顔に、不快感を滲ませた。
「美杉探偵事務所の、松谷さんですね。ええ、覚えていますとも。──どうして突然、お越しになったのですか? ハッキリ申しまして、二度とお目にかかりたくありませんでした。あなたの顔を見ると、どうしても、あの事件のことを、思い出してしまいます。最近になって、ようやく社長たちの死と、向き合うことができたのに」
「そんな酷いこと、仰らんでもええやないですか。俺はただ、彼のつき添いで来ただけですよ」
松谷の言葉に釣られるように、佐伯はその傍らに立つ人物へ、視線を移す。
クタクタの黒いシャツに、同じく黒いズボンという、実に味気ない出立ちの青年が、愛想もヘッタクレもないという顔をして、そこにいた。
「初めまして。緋村奈生という者です。本日は、そちらにいらっしゃる鷺沼麗香さんとお話がしたく、伺いました」
緋村の無機的な瞳が、見据える先──名指しされた麗香は、彼らに背を向けたまま、振り返りもしない。
全身黒尽くめである緋村とは、対象的に。この日の麗香は、純白のブラウスに、薄ベージュ色のサマーカーディガン、下も似た色味のロングスカートという、白尽くめの姿だった。ちょうど、彼女がつま先を向ける先に置かれた花束と、同じ色。
カサブランカの花束の奥には、床を長方形にくり抜いたような深い穴が、奈落の如く、口を開けていた。そこは、かつて祭壇が置かれていた場所なのだが、どうやらピエタ像諸共、撤去されてしまったらしい。
骨と化した紫苑の亡骸を、掘り起こす為に。
「…………」
麗香の傍らに佇む男の子──鷺沼晴都は、無反応を決め込む母と違い、突然現れた訪問者たちに、興味津々といった様子である。
また、礼拝堂の中は、例の惨劇が演じられた時とは異なり、今や椅子とカーペットすらもなく……舞台が終わり、全てのセットを撤収し終えた会場のように、ガランとしていた。
残されたのは、奥の壁に飾られた、十字架のみ。
「れ、麗香さんと?」
ややあって、佐伯がたじろいだ声を発する。
「……いったい、どういったご用件でしょう? 見ず知らずの人と、お話しすることなど」
「『鬼村聖子という女性に関する話』と言えば、伝わるかと」
「なに⁉︎」
喫驚する佐伯を黙殺し、緋村は再び、彼女へと呼びかける。
「僕の考えを、どうしてもあなたに、聴いていただきたいのです。可能な限り簡潔に済ませますので、どうか、おつき合いいただけませんか?──鷺沼麗香さん」
「…………」
黙り込んでいた麗香は、やがて溜め息という形で、緋村の声に応えた。
「……わかりました。伺いましょう。──佐伯さん。晴都と一緒に、屋敷へ戻っていてください」
ようやく振り返った彼女は、硬い声で、佐伯に命じた。逆らうことを許さぬような、あるいは懇願するような響きがあった。
当然、佐伯は納得していない様子だったが、「お願いします」という麗香の言葉に、折れる。
「かしこまりました。……もし何かありましたら、すぐにご連絡ください」
「ありがとうございます」それから、麗香は晴都に目線を合わせ、「お母さんも、少ししたら戻るから。いい子にしてるのよ?」
穏やかな母の顔で、そう言った。晴都は素直に頷き返し、やはり訪問者たちのことをチラチラと盗み見ながら、佐伯に連れられて行く。
二人が出て行き、礼拝堂の扉が閉じられた。
それを見届けてから、麗香は、肩に垂らした黒い髪の先へ触れつつ、
「……それで? お話というのは、何でしょう? 鬼村さんのこと、らしいけれど……」
「鬼村聖子さんの、真実について。あなたと答え合わせがしたいんです。真相をご存知なのは、もう、あなただけですから」
「……何を仰っているのか、わかりません。確かに、あの女性の遺体を最初に発見したのは、私です。でも、本当にそれだけ。答え合わせなんて、できませんよ」
「嘘です。あなたは、彼女の死に関与した誰よりも、『鬼村聖子という女性』のことを、よく知っているはずだ」
麗香は、細く整った眉を顰める。理知的な美人顔の中に、敵愾心を仄めかせて。
「何を根拠にそんなことを? もしかして、廃屋の鍵が、もう一本存在したからですか? 三ヶ月前の事件の際、警察が回収したと、聞きましたけど」
「もちろん、鍵のこともあります。あの鍵は、元々は聖子さんのものでした」
「なるほど。それでは、あなたはこう考えているんですね。鬼村さんの死は、本当は他殺で、犯人は彼女から奪ったもう一本の鍵を使い、外から廃屋に施錠した。そして、その犯人が、私だと。──馬鹿げています。私には、あの人を殺害する理由がありません。それに、アリバイだって、保証されています」
「事件当夜、あなたはビジネスホテルに、宿泊していたんでしたね。確かに、密かにホテルを抜け出して、この町へやって来たとは、考え難い」
「そこまでご存知なんですね。なら、わかるでしょう? 私は、あの件とは無関係。……仮に、鬼村さんが誰かに殺害されたのだとしても、その犯人は、私ではありません。別の人です」
「別の人、というと? あなたは、誰が犯人だとお考えですか?」
「さあ? 別に、何か考えがあって、言ったわけじゃ……ただ、あの俳優さんが怪しい、という噂を、聞いたことがあります。天道さんでしたっけ? あの人は、鬼村さんと交際していたらしい。それで、何か事情があって、彼女を自殺に見せかけて、殺害したのではないか──そんな意見も、あるそうです」
「……確かに、僕も以前は、天道さんを疑っていました。しかし、初めは本気で、彼が犯人だと思っていたわけではありません。あくまでも、疑っていたのは、聖子さんとの関係。すなわち、天道さんは聖子さんと親しい間柄であり、聖子さんの娘──倉橋凛果さんの本当の父親は、天道さんではないか。そう考え、鎌をかけてみたのです。……すると、天道さんはそれを認めただけでなく、聖子さんを殺害したのは自分だと、自白しました」
「まるで、名探偵ね。けれど、その話が事実だとすれば……やはり世間の噂どおり、天道さんが犯人、ということになりますね」
「いいえ。天道さんは、誰も殺していません。……十七年前、天道さんは確かに、人知れず、この町を訪れていました。しかし、天道さんの目的は、殺人ではなく、もう一度だけ、聖子さんと会うことだった。そして、そのついでにあるものを、聖子さんに、渡したのです」
「あるもの?」
もったいつけるような口振りが、気に障ったのか。麗香は苛立たしげに、小首を傾げる。
対する緋村は、至って落ち着き払ったまま、
「……ヴォル・ド・ニュイ。ダイニングのテーブルに残されていた香水は、聖子さんが携えて来たのではなかった。本当は、聖子さんが亡くなる直前に、天道さんから、受け取ったものでした。──あなただって、ご覧になったでしょう? テーブルの上に、金色の香水が、置かれているのを」
「……覚えていません。もう、十七年も前のことですから。それに、たとえ目に入ったとしても、窓から覗き込んだだけなので、気がついたかどうか」
「それも嘘だ」叩き斬るように、緋村は否定する。「あなたは、窓から覗き込んでなんかいない。本当は──現場に足を踏み入れていたはずです」
麗香の瞳が、大きく見開かれる。
しかし、それもほんの一瞬のことで、麗香はすぐに、この不遜な青年を、睨み返した。
「……先ほどと、同じ言葉を言わなくてはなりません。『何を根拠にそんなことを?』」
「それを、今から説明させていただくつもりです。もちろん、最後までつき合ってくださいますね?」
黒く染まった男と、白を纏う女──二人の視線が、交差する。
いよいよ、始まるのだ。最後の戦い、真の絵解きが。
その見届け人となった松谷は、密かに生唾を呑み込み、緋村と麗香の姿を、等分に見守る。
ピリピリと、伽藍堂となった礼拝堂の空気が張り詰めるのを、松谷は、感じ取った。
間もなく。
相手の返事を待つことなく、緋村が口を開いた。
※
「たった今お伝えしたことが、最大の根拠です。現場に残されていたヴォル・ド・ニュイは、聖子さんが携えて来たのではなく、天道さんからの贈り物でした。これが事実だとすると、一つ、疑問が浮かびます。聖子さんは、自前の香水を、所持していなかったのか?」
麗香は、紅を差した唇を結んだまま、仇敵と対峙するかのような眼差しを、緋村に向ける。
「あり得ないことだと思います。一通りの化粧品を、ポーチに入れていながら、香水だけは持ち込まなかったなんて。ましてや、聖子さんは『煙草を吸う女性』でした。煙草の臭いを全く気にしていなかったとは、考え難い」
「……だから、何だと仰るの?」
「聖子さんは、本当はヴォル・ド・ニュイではない、別の香水を、持参していたのです。しかし、現場に残されていたのは、何度も言うように、金色の『夜間飛行』のみ。これはいったい何故か。──答えは、明白です」
持ち去られてしまったのだ。
彼女の死後、何者かの手によって。
「……換言すれば、『聖子さんの香水を持ち去る必要のあった人物』こそが、彼女の死に深く関わっている、ということになります。そして、この条件に該当する人物は、僕の知る限りでは」
「私だけ、と言いたいのね……」
「ええ」
緋村は、言下に頷いてみせる。片頬を歪ませる、皮肉屋の笑みと共に。
「その誰かが、香水を持ち去らなくてはならなかった理由は、一つしか思い浮かびません。臭いです。具体的に言えば、煙草の臭いを誤魔化す為。
聖子さんは、ヘヴィ・スモーカーだったらしい。実際、亡くなる直前も、廃屋の中で煙草を吸っていたようです。ダイニングのテーブルに置かれた灰皿には、煙草の吸い殻と、マッチの燃え殻が、山のように積み上がっていました。だからこそ、聖子さんの死後、現場に足を踏み入れたその『何者か』は、自身の体に移ってしまった煙草の臭いを打ち消す為、彼女が持参していた香水を、失敬したのです」
その結果、現場には、天道のプレゼントしたヴォル・ド・ニュイだけが、残されることになった。
「仮にその『何者か』が、事件当夜、この町に滞在していたのであれば……そんなことをする必要は、なかった。わざわざリスクを冒してまで、聖子さんの香水を持ち去らずとも、煙草の臭いを誤魔化す方法は、幾らでもありました。服を着替えるなり、シャワーを浴びるなりすればいい。
また、天道さんのように、人知れず廃屋を訪れていた場合も、やはり香水を持ち去る必要は、ありません。仮に、天道さん以外の誰かが、町の外からやって来たのだとしても、同じこと。誰かと会う前に、臭いを消してしまえばよかった。夜中のことですし、時間は十分にありました」
──さらに言えば、天道に同行しとった鈍山さんは、喫煙者やった。つまり、煙草の臭いが体に移ってもうたとしても、気にする必要は、ないわけや。
松谷は胸の内で、緋村の推理を補足する。鈍山が犯行に関与していた場合も、香水が持ち去られることは、なかった。
「しかし、その人物だけは、事情が異なりました。だからこそ、苦肉の策として、聖子さんの香水を自らの体に振り撒き、臭いの上書きを、試みたのです。
纏めると、『聖子さんの香水を持ち去る必要のあった人物』は、『彼女が亡くなった夜、この町にいなかった人間』であり、尚且つ『すぐに誰かと鉢合わせしかねない状況にあった』ということになる。──鷺沼麗香さん。聖子さんが亡くなった翌朝に、この町を訪れ、死体の第一発見者となり、事件の発生を伝える役を担ったあなただけが、全ての条件を、満たしています」
核心を突く、緋村の言葉──その切先が、麗香の喉元へと迫る。
「廃屋の様子を見に行った時、あなたは、屋敷に荷物を置いた後だった。一応、ハンドバッグを携えていたようですが……その中に、香水のような、臭いを誤魔化せるものは、入っていなかったのでしょう。もちろん、聖子さんが煙草を吸うことは、ご存知だったかと思います。が、その臭いが自分に移ってしまうことまでは、気が回らなかったのですね?
加えて、あの時、家政婦として雇われていた女性が、町の中を散策していました。おそらく、廃屋を出たあなたは、丘の上から、彼女の姿を目にしたのかと。だからこそ、早急に煙草の臭いを、消し去る必要があった。彼女は、鷺沼家のみなさんとは違い、聖子さんの件とは、全くの無関係でしたから」
──鷺沼家の連中は、聖子さんが亡くなった真相を、知っとった。知っていながら、それを隠し通して来たんや。
事前に緋村の推理を聞かされていた松谷は、声に出さず、批判する。緋村が見出した真相は、俄には信じ難いものであり、だからこそ、松谷はこの場に立ち会うことを、望んだ。
──かましたれ、緋村くん。
松谷が、声援の眼差しを送る先で、緋村は更なる追撃を、放つ。
「思うにあなたは、灰皿に捨てられていたマッチの燃え殻を使って、聖子さんのリュックや、その中にしまわれていた化粧ポーチを、開閉したのでしょう。マッチの棒の部分を、ファスナーのスライダーに引っかけるようにしたのです。こうすれば、自分の指紋を残してしまったり、反対に、聖子さんの指紋を、不自然に掻き消してしまう恐れはない。
あるいは、形状や素材によっては、指紋が残らないか、仮に検出されても、個人を特定するのが、困難な場合もあります。ですから、喩え素手で触れてしまっても、さほど気にする必要は、なかったのかも知れません」
「…………」
押し黙ったまま、話に耳を傾けていた麗香は──やがて、頭痛にでも苛まれるように、白い額に手を当て、かぶりを振った。
「そんな細かいところまで、考えてくれたのですね。けれど……ごめんなさい。私には、どれも病的な妄想としか、思えません。鬼村さんの香水も、『根拠』と呼ぶには、あまりにも脆弱な気がします。
そもそも、私と鬼村さんには、何の繋がりもありません。生前の彼女とは、顔を合わせてすらいない。それなのに、どうして私が、鬼村さんを殺すのでしょう? だいいち、どのような方法を使えば、遠く離れた場所にいながら、鬼村さんを、殺害できたのか……」
「……あなたは、厳密には殺していません。あなたはただ、毒物を聖子さんに手渡し『これを呑んで死んでくれ』と頼んだ。それだけです」
今度の刃は、彼女の首筋に、わずかな傷を負わせた──白い肌に、鮮血が一筋伝い流れる。そんなイメージを、松谷は目の当たりにした。
「な──何を言い出すかと思えば……死ぬように頼んだ? 馬鹿げています。そんな頼みを聞き入れる人間なんて、いるわけがない」
「普通はそうでしょう。しかし、あなたの要望だけは違った。何故なら、聖子さんは、あなたに負い目を感じていたから」
先ほどから、緋村はやたらと、「あなた」という言葉を多用している。おそらく、緋村が見据えているのは、対峙している相手の役柄ではなく、その先にいる、役者自身。
緋村は、「彼女」と対決しているのだ。
「……わかるように仰っていただけますか?」
「そうしているつもりですよ。──ところで、先ほどからあなたは、嘘を吐いていますね。聖子さんとは無関係だと仰った。これは、真っ赤な嘘だ。あなたと聖子さんは、無関係──どころか、“表裏一体”とも言える関係ではありませんか」
「話が見えません」
「なら、ハッキリと言いましょう」
空気がいっそう、張り詰める。
松谷の見守る先で、緋村が巨大な剣を振り上げた。
「『鷺沼麗香』さん、あなたは──あなたは、かつて鬼村聖子として、この町で暮らしていた。鬼村医師と和恵夫人の、表向きの娘は、本当はあなただった。違いますか?」
その瞬間、彼女の、「鷺沼麗香」の体は真っ二つに斬り伏せられ──左右に別れたまやかしの姿の向こうから、黒々とした影のような正体が、現れる。
松谷は、確信した。推理という名の刃が、たった今、無数の顔を持つ怪物の急所へ、突き立てられたのだと。
怪物は──微かな怯えを含んだ瞳で、青年の姿を、見つめ返した。
「な、何故……そんな、突飛な発想に、至ったのでしょう。……わけがわからない」
「鬼村夫妻が殺害される、ちょうど一週間前のことです。久住完吾さん──事件を起こした久住吾郎の息子──は、天国洞の中で、奇妙な老人の姿を、目撃しました。その老人の正体は、あなたの父親である、鬼村医師だった。そして、鬼村医師はその時、誰か──おそらくは自身の娘に、覆い被さっていたと、推測できる。……ここまでの話が、全て事実であると仮定すると、一つ、矛盾が生じます。
久住さんが天国洞に入ったのは、平日の、十三時すぎだった。そして、それから一週間後に、鬼村夫妻が惨殺された際、娘である聖子さんは、小学校にいたお陰で難を逃れた。そう聞いています。
で、あれば……久住さんが、鬼村医師と出会した時も、聖子さんは、まだ小学校いたのではないか。つまり、鬼村医師が覆い被さっていた相手は、『鬼村聖子』ではなく、別の人物だったのでは? そう考えた時、僕はある可能性に、思い至りました」
すなわち──もう一人いたのだ。
鬼村の娘は。
「あの時、鬼村医師の体の下にいたのは、紫苑さんに産ませ、密かに育てて来た子供──我々が今まで『鬼村聖子』と呼び、この町の廃屋で亡くなった女性の方だった。対して、小学校に通っていた本物の鬼村聖子──鬼村医師と和恵夫人の娘が、あなたです。本来は、あなたの方が表で、彼女は裏だった。この表と裏が反転してしまったキッカケは、言うまでもなく、三十年前の事件。
鬼村夫妻の死後、彼女は豪造氏の采配により、紫苑さんの異父姉妹である、倉橋麻美さんの元へ、預けられました。そのタイミングで、彼女は『鬼村聖子』になり、本当の名前を奪われたあなたは、『柳麗香』という別の人間へ、転生を余儀なくされた。……これが、あなたと『聖子』さんの繋がり。そして、『聖子』さんがあなたに対して感じていた負い目とは──自分のせいで、あなたのご両親が殺されてしまったことです」
緋村は、影を──かつて鬼村聖子だった存在を見据え、言い放つ。
前世の記憶の為に、思い悩んで来た凛果。
鬼村の娘から、クラハシリンカへと生まれ変わることを望んだ、「聖子」。
そして、名前を奪われたことにより、「麗香」への転生を余儀なくされた、本物の聖子。
三人の転生した女性が、この複雑で長ったらしい事件の、鍵を握っていた。
「吾郎さんが凶行に及んだ目的は、鬼村医師の魔の手から、紫苑さんの娘──すなわち、裏の『聖子』さんを、護ることでした。その過程で、吾郎さんは、鷺沼家の秘密を知る和恵夫人をも、手にかけることにした。
『聖子』さん──名前すらつけられていなかったかも知れない彼女──は、このことを知っていた為に、あなたに対し、罪悪感を抱いたのでしょう。『自分は、何の罪もない人間の親を犠牲にして、護られたのだ』と。だからこそ、あなた──本物の鬼村聖子──の頼みを、断ることができなかった」
自分が救われる為に、鬼村だけでなく、その妻──本物の聖子の母親までもが、犠牲になった。もう一人の「聖子」は、そんな負い目を感じながら、生きて来たのだ。
そして、実際に彼女は──天道と出逢った時も、十七年前にこの町を訪れた時も──、廃屋のリビングにのみ、花を捧げている。
あのカサブランカの花束は、「聖子」が鬼村和恵の死を悼んでいたことの、証左に他ならない。
「…………」
影は、瞼を閉じた。
まるで、これまで失った来たものを、思い返すかのように。
※
その目が、再び開かれる。
影よりもいっそう昏い、二つの虚が。
「……あなたは病気です。精神を病んでいるから、そんな現実離れした妄想を、思いつくんだわ」
「話を十七年前に戻します」
「無視か。狂人が」
「どう思ってくださっても、構いません。それより、十七年前、この町で何が起きたのか。狂気に身を任せた結果、こんな与太話を、思いつきました。
まず、宗介会長に仕事の報告をした後、あなたはすぐに町を出たのではなく、廃屋に残っていた『聖子』さんの元へ、向かった。おそらく、ここに来る前から、彼女の来訪を、聞かされていたのでしょう。『聖子』さんとの再会を果たしたあなたは、そこで毒物の入った瓶を、彼女に渡した。『約束どおり、これを呑んで死んでくれ』とでも言って。
僕が考えるに、『聖子』さんは、本当はもっと前──借金を抱えてしまった時点で、死ぬことになっていたのかと。あなたはずっと以前から、『聖子』さんの死を、願っていたのです。……が、しかし、恋人──天道さんとの子供を授かった『聖子』さんは、出産することを望み、姿を消してしまった」
「聖子」ことクラハシリンカは、神薇教を頼り、高部の助けを受けて、アメリカへと渡った。そして、天道との間にできた子供──シオンと名づけるつもりだった赤ん坊を、無事に出産したのだ。
「『聖子』さんは、産まれて来た子供を、自分一人で、育てるつもりだったらしい。あなたとの約束を反故にし、生きることを望んだのです。
そして、借金返済の支援を求め、この町を訪れた。──そこへあなたが現れ、『いいから早く死ね』と迫る。その際、『聖子』さんの借金や、赤ん坊の養育費に関しては、全て神薇薔人が負担すると、伝えたのでしょう。実際に、そうなりましたから」
「それは、あくまでも義父──宗介の善意です。親の犯した過ちは、子供の罪ではありませんから」
「なるほど。確かに、鬼村医師の罪までもを、あなたが背負う必要はありませんね」
「…………」
「あなたは毒物を手渡すと共に、『聖子』さんから、廃屋の鍵を受け取ったのでしょう。そして、ようやくこの町を出て、ビジネスホテルを目指した。──あなたの予定では、『聖子』さんはこの町ではなく、別の場所で死ぬはずでした。それがどこかまでは、わかりません。が、少なくともこんなところ──鷺沼家の保養地で自殺するなんて、あなたも望んではいなかったでしょう。この町も、あの廃屋も、あなたや鷺沼家の秘密と、深く関わっています。つまり、あなたは『聖子』さんの死を望んだものの、彼女がこの町で亡くなったこと自体は、予想外の出来事だった」
──春先だかに、動物園で起きた毒殺事件と、一緒やったわけか。
松谷は、ふと思う。そちらの場合は、被害者が動物園の園内で、毒入りのチョコ菓子を食べてしまった為に、即座に事件が発覚したのだったか。
死を仕組んだ人間の意図に反し、標的がその場で毒物を摂取してしまったという点で、この二つの事件は、類似している。
「もしかしたら、あなたは『聖子』さんと一緒に、町を出ようとしたのかも知れません。しかし、実際には『聖子』さんだけが、この町に居残ることになった。『聖子』さんを引き留めたのは──鷺沼紅二さんでした。宗介会長から、『聖子』さんと交わしたやり取りを聞いた紅二さんさんは、彼女に、資金援助を申し出たのです」
ある条件と引き換えに──と、緋村は付言する。
「紅二さんが、『聖子』さんに提示した条件は……閨を共にすること。つまり、自分と肉体関係を持つことと引き換えに、資金を援助すると、提案した。そう、推測しています」
「……鬼村さんを、買おうとしていた、ということですか? 私の義弟が? 酷い侮辱ですね。亡くなった人であれば、どんな罪を着せてもいいと思っているの?」
彼女の背後に置かれた、花束。カサブランカの白い大輪が、窓からの陽射しに照らされ、彷徨える霊魂のように、浮かんで見えた。
「あなたがそれを言いますか……面白い」言葉に反し、緋村の声にはほんの一瞬、怒気が滲んだ。「話を続けますが──『聖子』さんは、紅二さんの申し出を、承諾しました。彼女にとって、手っ取り早く金を調達する方法は、他になかった。……が、しかし。それでもやはり、売春行為には、抵抗があったのでしょう。町に留まることを決めた『聖子』さんは、橙子さんや三黄彦さんに対しても、資金の援助を頼んでいます」
しかし、いずれもすげなく、断られてしまう。
「おそらく、『聖子』さんの来訪を察知した瑠璃子さんが、根回ししていたのでしょう。『聖子』さんの頼みには、決して応じてはならない、と。
十七年前の時点で、あなたと瑠璃子さん──鷺沼家は、繋がっていた。あなたにとって、鷺沼家は、憎むべき存在たり得たはず。にも拘らず、あなたは彼らと対立するどころか、鷺沼グループに入社し、ついには社長夫人として、家族の一員に迎え入れられた。そうなった理由が、『聖子』さんの存在でした。謂わば、『聖子』さんという共通の敵がいたことで、あなたと瑠璃子さんは、協力関係──あるいは、主従の関係になったのです」
かくして、他の人間の助けを得られなかった「聖子」は、ランタンとマッチを貸し与えられたのみで、例の廃屋にて、夜を過ごすこととなる。
「……ところで、『聖子』さんは二十二時頃、橘さんの借りていた家で、シャワーを浴びたそうです。その際、『聖子』さんは、そこで化粧を直していた。紅二さんと会う為の、準備だったのでしょう。
ただし、香水を使うことはしなかった。自分の香水の匂いを、部屋に残してしまわぬよう、配慮したのです。他人が借りている場所ですから、気を遣って当然ですね。……そして、だからこそ、現場に残されていたヴォル・ド・ニュイと、『聖子』さんの携えて来た香水が、別のものであることに、誰も気づきませんでした。
その後、『聖子』さんは廃屋に戻り、再び一人で過ごしていた。紅二さんが訪ねて来ることになっていたのか、それとも夜が更けてから、どこか別の場所で落ち合うことになっていたのかまでは、わかりません。が、いずれにせよ確かなのは、二人が会うよりも先に、天道さんが現れた、ということです」
天国洞を通り、廃屋へとやって来た天道は、携えて来た金色の香水を、「聖子」に贈った。何度も言うように、現場のテーブルの上に残されていた方の香水は、これである。
「『聖子』さんの来訪を、天道さんに伝えたのは、彼のマネージャーである、橘さんでした。そして、かつての恋人と、もう一度会いたいと望んだ天道さんは、まっさきに、瑠璃子さんへコンタクトを取った。その結果、瑠璃子さんの許しを得た彼は、鈍山という人に連れられて、この町に、やって来ました。──鈍山さんのことは、あなたもよく、ご存知のはずです」
「……夫の部下ということはわかりますが、私個人に、面識はありません。それに、すでに退職されていますし」
「……本当に、あなたは嘘ばかりだ」
「は? 何が、嘘だというの?」
「何もかもが、と答える他ありません。──それより、続けても構いませんか?
天道さんと再会したことで、『聖子』さんの心境に、劇的な変化が起きました。それまで『聖子』さんは、どうにかして借金を返済し、生きて子供を育て上げようと、考えていた。その為には、紅二さんに体を売ることも、やむなしと判断したのです。
ところが、かつての恋人を目の前にして、『聖子』さんは、別の選択肢を選ぶしかなくなった。だからこそ、彼女はヴォル・ド・ニュイの香りを纏い、自らの意思で、毒物を呷ったのです」
──もう、他の誰かに、体を許したくはない。
──あなた一人の女として、死にたい。
彼女は、最期に、そう願った。
懐かしい黄金色の香りに、包まれながら。
二人が初めて出逢った「白い家」の中で、「聖子」と呼ばれた女は、息を引き取った。
「これが、大まかな真相です。『聖子』さんは、あなたにずっと、負い目を感じていた。『聖子』さんはそれまで、あなたの希望には、可能な限り応えて来たのでしょう。……しかし、天道さんの子供を授かってからは、母として生きることを望んだ。その為に、わざわざアメリカへと渡って出産に臨み、帰国した後は、借金を返済する手立てを求めました。あなたの要求を、無視して。
ところが、『聖子』さんに手を差し伸べたのは、瑠璃子さんの命令に背いたであろう、紅二さんだけ。しかも、その条件は、あろうことか体を売ることだった。『聖子』さんは、生きて子供を育てる為には仕方のないことだと、それを、受け入れようとしました。──そこに天道さんが現れたことで、思い出したのです。自分が最も愛していた人の、存在を。
その結果、彼女は誰かに汚される前に、死ぬことを選んだ。死を選ぶしか、なくなってしまった」
そうした様々な条件が、奇跡的に噛み合ったからこそ……リンカは、あの夜、あの場所で、自ら命を絶ってしまったのだ。
「……なんというか、ロマンチックなお話ですね。下卑た妄想、とも言えますが」
毒突く影を、緋村は黙殺する。
「廃屋の玄関に施錠したのは、『聖子』さん自身でした。理由はおそらく、自殺の邪魔をさせない為。……もしかしたら、天道さんが引き返して来る可能性を、考えたのかも知れません。とにかく、彼女は自ら玄関のドアに、鍵をかけたのです。
そして、ヴォル・ド・ニュイの瓶に付着していたであろう、天道さんの指紋を、ティッシュで拭い去った上で、『聖子』さんは、『夜間飛行』を纏いました。何故そこまでしたかというと、無論、天道さんに、迷惑をかけない為です」
最初にこの話を聞かされた時、松谷は、ある疑問を抱いた。「聖子」の自殺は、予定外のもの──突発的に死ぬ決意をしたというのに、そこまで気が回るものだろうか、と。
しかし、考えてみれば、「聖子」は初めから、天道を気遣っていた。愛した男の俳優業に、支障を来さぬよう、一人で出産し、子供を育てようとしたのだ。ならば、天道にあらぬ疑いがかかってしまわぬよう、配慮したとしても、何ら不思議ではない。
「『聖子』さんが亡くなった後で、密かにある人物が、廃屋を訪ねて来ました。紅二さんです。
ところが、玄関のドアは施錠されており、幾ら呼びかけても、反応がない。紅二さんは仕方なく、窓から中を、覗き込んだことでしょう。しかし、リビングの窓からは何も見えず、紅二さんは、今度はダイニングの方へ、回り込んだ──そこで、彼はあるものを、見つけました」
紅二が窓越しに見たのは、ボンヤリと灯る、ランタンの光だった。
「室内に灯る光に気がついた紅二さんは、もっとよく、中の様子を見ようとした。そして、窓ガラスに付着した砂埃を、手で払ったのです。あなたがそうした──と、警察に証言したように」
──つまり、ホンマの第一発見者は、紅二やったわけや。
松谷は立ち疲れて来たのを感じつつ、「麗香」の反応を窺う。彼女の余裕は、更に大きく揺らぎ初めているように、見えた。
「あなたが、『ハンカチ越しに玄関のドアノブを握った』のも、『窓についた砂埃を払った』と、証言したのも──全ては、紅二さんが廃屋を訪れた痕跡を、隠蔽する為。すなわち、ドアノブや窓に付着したであろう紅二さんの指紋や、砂埃を払った形跡を、消し去ること。その為に、あなたは紅二さんの行動をなぞるように、ハンカチ越しにドアノブを握り、窓ガラスを拭いたのです。
これが、あなたが『第一発見者』の役を演じた、第一の理由。そして、第二の理由は、あなたが『聖子』さんから、あの家の鍵を、受け取っていたことです。
屋敷で保管していた方の鍵──会長が、彼女に貸していた方の鍵──は、施錠された廃屋の中にありました。そのせいで、あなたがこの町に戻って来るまで、誰も廃屋のドアを、開錠できなくなってしまった。
あなたが回収しそびれたのか、それとも『聖子』さんが、わざと返却しなかったのか。はたまた一度返した後で、紅二さんが、再び彼女に渡したのか……いずれにしても、みなさん困ったでしょうね。廃屋に入ることができなければ、遺書の有無を、確認できないのですから」
「いしょ……」
「そうです。『聖子』さんが遺書を認めており、そこに死を選んだ経緯や、鷺沼家との繋がり──彼女やあなたの出自などが、記されていたとしたら、大変なことになる。あなたも、鷺沼家も、破滅しかねません。
加えて、『聖子』さんの持ち物には、筆記用具とメモ帳がありました。絶対に、確認しなくてはならなかった。そして、もし本当に遺書か、それに類するメッセージが、残されているのであれば、内容に依らず、処分しなくては……。あの朝、あなたが廃屋に向かった最大の目的は、これでした。
また、遺書が残されていた場合、密かに持ち帰ることができるよう、あなたはハンドバッグを携えて、廃屋へ向かったでしょう。……実際に、遺書があったのか否かは、わかりません。ただ、間違いなく言えることは、あなたはそのバッグに、『聖子』さんの香水をしまい、現場を出たということ。遺書の有無を確かめていたせいで、室内に籠っていた煙草の臭いを、体に移す羽目になったのです」
かくして、「麗香」は「聖子」の香水を持ち去り、現場には、主を喪った夜間飛行だけが、取り残された。
※
「『聖子』さんの死体を最初に発見したのは、本当は、紅二さんだった。紅二さんはすぐさま、他のご家族にこのことを伝え、『聖子』さんと密かに会う約束をしていたことまで、打ち明けたのでしょう。その後、あなたの元にも連絡が行き、第一発見者の役に、任命されたのです。
あなたは見事、その役目を果たしました。のみならず、結果として『聖子』さんを始末することにも、成功した。こうした功績が認められ、あなたは晴れて、鷺沼家の一員となったのです。先代社長の秘書から、現社長の妻という立場へと、成り上がったわけですね」
最後の部分だけ聞くと、夢のあるシンデレラストーリーのようである。しかし、実際の彼女の役割は、童話の主人公などではなかった。
──むしろ、魔女やな。それも、シンデレラに出て来る魔女やのうて、毒林檎を渡す方や。
「また、天道さんが廃屋を訪れた痕跡──風車の扉に付着した彼の指紋──は、三黄彦さんが、上書きしてしまいました。指示したのは、天道さんの訪問を許可した、瑠璃子さんでしょう。どうやら瑠璃子さんは、天道さんを気に入っていたらしい。贔屓にしていた若い俳優を庇う為、小遣いを渡すと約束して、三黄彦さんに、指紋を残させたのです。──ここまでの話は、理解していただけましたか?」
「……あなたが、どうしても私たちを悪者にしたいことだけは、わかりました。けれど、仮にあなたの妄想が、全て事実だとして……結局のところ『鬼村聖子』は、自分の意思で死を選んだ。つまり、自殺だったことは、変わらないわけですよね?
あるいは、そんな奇跡のようなタイミングで現れた天道さんが、悪いとも言えます。彼が、自殺の引き金となったのでしょう?」
「……確かに、そういった見方も可能です。実際、天道さんと、彼に連絡をした橘さんは、少なからず、罪の意識に苛まれていたらしい。だからこそ、天道さんは、僕の糾弾を受け入れ、自分が犯人であるかのように、振る舞った。……また、橘さんにしてみても、『あなたの母親を死なせてしまったのは、自分だ』と、凛果さんに、謝罪したそうです。
しかしながら、天道さんは、運悪くトリガーになってしまっただけ。『聖子』さんに死を迫ったのはあなたですし、彼女を見捨てたのは、鷺沼家です。『聖子』さんは、あなた方に殺されたといっても、過言ではない」
「そうでしょうか? 私には、借金を抱えてにっちもさっちも行かなくなった女性が、当てつけのように私たちの町で死んだ──ただ、それだけのこととしか思えないわ」
「何も後ろ暗いところはない、とは言わせません。もしも、あなたが心から、そう思っているなら……蒼一社長は、レンジャー博士の奥さん──旧友の伴侶を殺害するよう、オーダーしなかったでしょう」
「レンジャー……私から家族を奪った殺人鬼の奥さんが、どうしたと言うんですか? 確か、事故で亡くなったと聞いていますけど……。まさか、世界中の人間の死が、全て鷺沼家の仕業とでも?」
「──松谷さん」
鋭い口調で名前を呼ばれ、不意を衝かれた探偵は、思わず背筋を伸ばした。
「な、なんや急に」
「倉橋元さん──『聖子』さんの里親から聴取した話について、教えていただけますか? キャサリンさんが、『聖子』さんの遺品を見た時のことです」
「あ、ああ」
観客役に徹するつもりでいた松谷は、突然の指名に面食らいつつ、与えられた役目を果たす。
「『聖子』さんの遺品に目を通したキャサリンさんは、日本語で、こう呟きはったそうです。『ヌスマレタ』と。……この話を聞いた時、我々は、遺品の中にあるべきものが、なくなっとった──つまり、キャサリンさんは、何かが『盗まれた』ことに気づきはったんやと、そう思いました」
「……それが何か?」
冷酷な眼差しが、松谷を射抜く。
思わず言葉に詰まってしまった彼に代わり、緋村が答えた。
「キャサリンさんは、何かがなくなっていることに気づいたのでは、ありませんでした。彼女の口にした『ヌスマレタ』という言葉は、そこにあるはずのないもの──天道さんの贈ったヴォル・ド・ニュイを、指していたのです。
ヴォル・ド・ニュイの『ヴォル』には、飛行の他に、盗みという意味もある。すなわち、『夜間飛行』は『盗まれた夜』と解釈することもできる、という言葉遊びです。キャサリンさんは、この言葉遊びを、『聖子』さんから教わっていたのでしょう。だからこそ、遺品の中にあった金色の香水を見て、思わず『盗まれた夜』と、言いかけた」
キャサリンは、その「盗まれた夜」が「聖子」──いや、リンカにとって特別な品であることも、聞かされていたのだろう。そして、かつて愛用していたその香水を、日本にいる恋人の元へ、残して来たことも。
「キャサリンさんが、その時点でどこまで気がついたかは、わかりません。が、とにかく彼女は、『盗まれた夜』ことヴォル・ド・ニュイの存在に、違和感を抱いたのかと。もしかしたら、香水が入れ替わっていることにまで、思い至ったのかも知れません。
あなたたちにとって、それは、見過ごせない出来事だった。よって、キャサリンさんが、誰かに香水のことを話す前に、彼女を始末するよう、手駒に命じたのです」
「……酷い言いがかりね。証拠もなしに」
「確かに。しかし、警察が改めて調べ直せば、鷺沼家の関与を裏づける何かが、出て来るはずです。……特に、先ほどこちらにいらした佐伯さんからは、色々と面白い話が聴き出せそうだ。──あの人なのでしょう? キャサリンさんが香水のことに引っかかっていたようだと、あなたや蒼一社長に、報告したのは。佐伯さんは、通訳として、キャサリンさんに同行していた。彼女を監視する為に、あなたたちが、差し向けたんだ」
「…………」
次は、どのようにして反論すべきか。そのセリフを探るかの如く、彼女は口を噤み、唇を噛む。
影は、いっそう黒く、昏く、染まって行く。
普通の犯罪者とは、真逆なのだ。
正体を暴けば暴くほど、そこには何もない。
「……あなたの話は、前提から、間違っている可能性があります」
「どういう意味でしょう?」
「天道さんは、『香水を渡す為だけに廃屋を訪れた』と、あなたは言いました。しかし、その話が嘘ではないという証明は、困難なはず」
「天道さんが、その話を打ち明けたのは、亡くなる間際です。ちょうど、この礼拝堂の中で。彼は腹部に銃弾を受け、内臓を損傷していた。そんな重傷を負いながら、人を騙すだなんて、どんな名優にもできませんよ」
「そうでしょうか? 予め用意していた話を語るくらいなら、十分に可能だと思います」
「理由がありません」
「天道さんは、誰かを庇おうとしていたのかも知れません。喩えば──マネージャーの橘さん。『鬼村』さんを毒殺した犯人は、本当は橘さんだった。その事実を知っていた天道さんは、橘さんから疑いの目を逸らすべく、『現場に残されていた香水は、自分が贈った品だ』と、嘘を吐いたんです。そうすることで、たった今あなたの語った推測が、成り立つように。……第一発見者の私が怪しまれるよう、仕向けたのでしょう。大切な人を庇う為であれば、瀕死の状態だろうと、演技くらいすると思います。役者なのだから、尚のこと」
紅を差した唇の端に、初めて笑みが浮かぶ。
嘲笑うような、挑むような、歪んだ表情。彼女の言葉を聞いた松谷は、感心と畏怖の両方を、抱かされた。
このわずかな時間で、これほどまでに的確な反論を、考えつくとは。この女は、なんという強敵であろうか。
「…………」
緋村は、しばし口許を手で覆い、黙り込む。その姿を見た彼女は、言い返すことができないと判断したのか、勝ち誇ると共に、蔑むような声色で、
「そこまで不自然な話ではないでしょう? 何か言ってみなさいよ、名探偵さん」
「……確かに、筋は通りますね」
「認めてくださるんですね。初めて、意思の疎通ができた気がします」
「……しかし」緋村は、口許から右手を離し、「残念ながら、それもあり得ません」
「……はあ?」
「天道さんは、元々こう言っていたんです。『この町での仕事相手──すなわち共犯者は、鈍山という男だ』と。その少し前、僕は『聖子』さんの死に、天道さんと橘さんが関与していた──つまり、天道さんの共犯者であり、実際に毒物を投入したのは、橘さんだったのでないかと、彼に問いかけていました。それに対する返答が、これです。……わかりますか? 天道さんは、自分の共犯者として、鈍山さんの名前を出していたのです。それなのに、亡くなる直前になって、急遽方針転換し、あなたに罪を擦りつける為の嘘を拵えるなんて、考え辛い。もしもあなたが言うように、橘さんを庇いたかったのであれば、『俺の共犯者は鈍山だ』と、もう一度念を押すのが、自然でしょう」
確実な証拠とは、とても言い難い。が、人間の心情としては、酷く真っ当な理屈である。
少なくとも、彼女の笑みを掻き消すには、十分なほどに。
「いかがですか? 今度こそ、納得していただけたと思いますが」
「……ええ。あなたの言い分はわかりました。けれど、完全に信用することはできません。あなたの話自体が、何もかも出鱈目かも知れない。全て本当のことだと、今ここで、証明できますか?」
「とても困難だと、答えざるを得ません」
「そうでしょう? なら、どのみち話はここまで」
「同じことですよ。僕を追い払ったところで、いずれ何もかも、明るみに出る」
「……何よそれ。負け惜しみにしか聞こえないわね」
「事実を述べているだけです。最初からね。──これだけやりたい放題しておいて、罪が暴かれないと、本気で思っているのですか? あなただって、本当は、理解しているはずだ。十七年も隠し通せて来たことは、ただの奇跡です。間違いなく、あなたは糾弾され、再び全てを失う。それも、そう遠くないうちに」
お前は絶対に逃れられない。緋村は、そう告げているのだ。
虚無へと、抗うように。
「『鬼村』さんは、勝手に死んだだけです」
「違います。『聖子』さんは、死ぬしかない状況に追い込まれた。そして、その元凶となったのが、あなたです。……でなければ、宗介会長も、あそこまで大がかりなことはしなかったでしょう」
「今度は、義父を貶めたいのね。いい加減、亡くなった人間を愚弄するのは、やめてもらえますか?」
「そういうわけにもいきません。こちらにも、引き下がれない理由がある」
緋村の声に、力を籠る。彼の言う「引き下がれない理由」が何なのか、松谷は、心当たりがあった。
「宗介会長の目的は、あなたが『聖子』さんの死に深く関わっているという事実を、隠蔽すること。その為に、会長は様々な人間を巻き込み、利用した。その中には、僕や僕の友人も、含まれています」
「それは……『鬼村』さんの娘のことですね。義父が、彼女をこの町に招いたことは、私も知っています」
「あの手紙を出した時点では、会長の考えは真逆──鷺沼家の抱える秘密や、闇を、世間に打ち明けるつもりだったのでしょう。キッカケは、久住さんが、三十年前の事件──吾郎さんの起こした、鬼村夫妻惨殺事件──の真相を、知りたいと望んだこと。この願いを知った会長は、これ以上罪を抱えたままでいることが、辛くなってしまった。そんなところだと思います」
宗介の最初の計画は、息子である蒼一の妨害により、阻止されてしまう。宗介は、鷺沼家の本邸にて軟禁状態となり……身動きを取れない間に、今度はレンジャーが、人質として、別邸の地下室に囚われてしまった。
「……罪の意識に苛まれた結果、義父は、暴走してしまいました。だから、拳銃を使って、天道さんや神薇教の人たちを、撃ち殺した」
「いいえ。あんなもの、ただの建前ですよ」
彼女が浮かべた「悲痛な表情」には構わず、緋村は断じる。
「会長は、初めは秘密を明かそうとしていた。ところが、ある事件が起きたことにより、状況が一変したのです。ご存知のとおり、逆上したレンジャー博士によって、社長たちが殺害されてしまった。……そのせいで、あなたの罪だけは、何としてでも隠さなくてはならなくなった。あなたの為──というよりも、お孫さんの為に」
彼女は静かに、目を伏せる。悟ったのだろう。
この男は、本当に全てを解き明かした上で、ここに来たのだ、と。
「矛盾しているように思えるでしょう。──改めて言いますが、会長は元々、罪を告白するつもりでした。もしも、蒼一社長の妨害を受けなければ、どのみち鷺沼家の闇は暴かれ、その地位は失墜していた。お孫さん──晴都くんは、邪悪な一族の末裔というレッテルを貼られ、苦しみながら、生きて行かなくてはなりません。会長はおそらく、それも仕方のないことだと、考えていたのかと。
しかし、蒼一社長たちが亡くなったことで、そうも言っていられなくなった。晴都くんは、父親を喪っただけではなく、他の家族までも奪われてしまう……。今回の事件が明るみに出れば、宗介会長や、あなたの罪までもが、暴かれてしまう可能性が高い。そうなれば、晴都くんを支える家族は、誰もいなくなってしまいます。会長はこの町に到着した直後、お孫さんに関して、こんな風に仰いました」
──男の子なのですが、まだまだ親離れできないらしく……特にお母さん──蒼一の奥さんには、未だにベッタリですよ。
「初孫を可愛がるのも、家族をなくしたその後を案じるのも、当然のことでしょう。ある意味では、会長も『聖子』さん同様、自分にとって誰が最も大切なのかを、思い出したのです。
かくして、宗介会長は、孫の晴都くんの為に、彼の母親であるあなたの秘密を護る策を、講じました。そうして行われたのが、神薇教の面々による『成りすまし』と、『聖子』さんの死の再調査。すなわち──天道さんと橘さんを、『聖子』さん殺しの犯人に仕立て上げる為の、茶番劇です」
※
「瑠璃子さんが所持していたという、警察の捜査資料や、二本目の廃屋の鍵を、我々に見せたのも……全ては、『「聖子」さんの死は、本当は他殺だったのではないか?』と、疑念を抱かせる為でした。そして、蒼一社長が、秘密を守らせる為に呼び寄せた天道さんたちを、そのまま犯人役として、キャスティングしたのです。
また、レンジャー博士や神薇教の面々を、町に留まらせたのは、この隠蔽工作を手伝わせる為。そして──最後には集団自決に見せかけて、まとめて口封じする為でした」
まるで、演技をすませた人形を、無の手筥にしまうかのように。
この壮大な茶番劇において、人形使いは天ではなく、宗介だった。
「先ほど『建前』と言ったのは、こういう意味です。隠蔽工作を手伝わせる以上、レンジャー博士たちにも、十七年前の真実や、本物の鷺沼家が警察に語った証言を、共有していたはず。何より彼らもまた、鷺沼家の闇を、知悉していました。だからこそ、用が済んだ後は、速やかに口を封じる必要があった」
「……つまり、神薇教の人たちは、義父の真意を把握していた、ということですよね? けれど、彼らがそんな計画に、手を貸すでしょうか? あなたの妄想の中では、彼らにとって、私は『仲間の仇』なのでしょう? そんな人間を護る為に、協力するとは思えません」
「……やはり、ご存知なのですね。和人さんたちと『聖子』さんが、兄妹だと」
彼女は、言い返さなかった。迂闊な発言をしてしまったことに、気づいたのだろう。
「仰るとおり、神薇教にとって、あなたは仇敵。『聖子』さんを死に追いやった、張本人です。……しかし、それでも彼らは、宗介会長の要望に応えることを、選んだ。やはり、あなたの為ではなく、晴都くんの為に。
あなたが先ほど仰ったことと、同じですよ。親や祖父母に罪があっても、晴都くんには、何の罪もない。そして、彼の家族を奪ってしまったのは、レンジャー博士だった。さらに言えば、博士を止めることができなかった高部さんたちも、同等の罪悪感を抱いたのでしょう」
だからこそ、彼らは、宗介の要望に応えることを選んだ。
蒼一たちや晴都への、贖罪として。
そして、大罪人となったレンジャーを、一人にしない為に。
「レンジャー博士の犯した過ちは、あまりにも大きすぎる。四人も殺してしまった以上、罪を揉み消すことは、困難でした。それならば──どうせ逃れられぬのなら、せめて宗介会長の望みを叶え、最後はみんな一緒に、この町で死ぬべきだ。それが、彼らの出した『答え』だったのです」
緋村は、カサブランカの花束の横に、視線を投げかける。かつて、そこにはテーブルが置かれており、その上で、赤ワインと人数分のグラスが、出番を待ち侘びていた。
「……おそらく、会長が用意していた遺書には──天道さんと橘さんを、毒殺犯として告発した上で──、『「鬼村聖子」の敵討ちをすべく、神薔教の人間は、町に留まった』『その結果、鷺沼家への成り済ましが、行われた』といった内容が、認められていたのでしょう。……もっとも、ライオンに襲われたことで、遺書は読めない状態──無意味になってしまいましたが。
とにかく、宗介会長は、『聖子』さんの死を他殺に見せかけた上で、あなたの罪に関わる人間を、皆殺しにする算段でいた。……ところが、予想外の邪魔が入ってしまった為に、狂気に陥ったフリをして、自ら関係者たちを、始末することになったのです。念の為に持ち込んでいたであろう、拳銃を使って」
松谷は、あの日何度も耳にした、けたたましい発砲音を、思い出す。それから、この礼拝堂に辿り着いた途端、目に飛び込んで来た、地獄絵図の惨状を。
緋村が──全てではなかったにしろ──宗介の企みに気づき、松谷に、橘らの保護を依頼していなければ……死体は、さらに増えていたはずだ。
「久住さんに関しても、同じことです。会長は、和人さん──この町では、紅二さんに成りすましていました──に、久住さんを拐って来るよう、命じました。そして、『犯罪の恩恵を受けて育ったのだから、犯罪者と大差ない』という無茶苦茶な理屈で、久住さんを、撃ち殺そうとした。何かしら、殺害する理由がほしくて、そんなことを口走ったのでしょう。
無論、本当の動機は、こちらも口封じ。先ほども言ったとおり、久住さんは、天国洞で鬼村医師らしき老人と、邂逅しています。このエピソードを聞いた誰かが、あなたの正体──鬼村医師の娘は、二人いたこと──に、気づいてしまう前に……久住さんの口を、永遠に塞ごうとしたのです」
犯行の際、吾郎は、紫苑が生かされていた離れに火を放ち、鷺沼家の秘密を守ろうとした──のみならず、紫苑の亡骸を、鷺沼家に引き渡している。
つまり、吾郎の犯行は、鷺沼家に伺いを立てた上で、行われていたはず。
で、あれば、当然宗介も、このエピソード──久住完吾が、ネブカドネザルを思わせる老人と鉢合わせたこと──を、把握していたと、考えられる。
幸いにも、久住は一命を取り止め、手術後の経過も、頗る良好だったらしい。おそらく今頃は、美杉探偵事務所を訪れ、彼女と対面しているだろう。
紫苑の血と面影を、継いだ少女と。
「……そもそも、レンジャー博士が凶行に及んだ時点で、鷺沼家の秘密を隠し通すことは、非常に困難な状況となりました。こんな曰くつきの町で、会長の隠し子が、鷺沼家の人間を、惨殺したのですから。
それでもあなたを護るべく、無理に無理を重ねた結果、編み出されたのが、このシナリオ。『鷺沼家の大半を滅ぼしたレンジャー博士と、その仲間である神薇薔人教団は、かつてこの町で殺された「鬼村聖子」の仇を討つべく、鷺沼家の屋敷に留まり、標的である二人を迎え入れた』。──こんな無茶苦茶な方法でしか、あなたの罪を、揉み消すことはできない。会長は、そう判断したのです」
「……あなたの話が、全て事実だとして。私の罪は、せいぜい自殺幇助くらいのはず。それも、十七年も前に、自殺として処理されていて、実際に『鬼村』さんは、自らの意思で、死を選んだ。わざわざ誰かを、毒殺犯に仕立て上げたり、大勢の人間を、殺害したり……そんな大それたことをする必要は、ないと思います」
「あったんですよ。先ほども言ったとおり、『聖子』さんを死ぬしかない状況に追い込んだのは、あなただった。それどころか──彼女が抱えていたという多額の借金も、本当は、あなたが拵えたものなのだから」
もう、何度目になるかわからない、核心を突く言葉。
悉く罪を暴かれ続け……彼女は、もはや反撃する気力すら、湧かなくなったらしい。
「かつて、あなたは鈍山さんから大金を借り、『聖子』さんに、その肩代わりをさせたのです。あなたの両親を犠牲にしたという、負い目のあった彼女は、それを断ることが、できなかった。そして、肩代わりした借金のカタとして、『聖子』さんは、陣野という資産家に、売られました。
『聖子』さんが、死を選ぶことになった元凶は、あなただった。ここまで来れば、大した罪ではない、とは言えない。……そして、だからこそ会長は、『聖子』さんの死を、他殺に書き換える必要があった」
普通は真逆──他殺であることを悟られぬよう、被害者の死を、自殺なり事故なりに、偽装するものである。
しかし、今回の場合は、そもそもの目的が違った。隠し通す必要があったのは、「殺されたこと」ではなく、「死の原因そのもの」だった。
「会長が知られたくなかったのは、『聖子』さんが自殺した、一番の要因──彼女の抱えていた多額の借金が、あなたに押しつけられたものだということ。……この事実を隠蔽するには、自殺のままにしておくのではなく、他殺にしてしまうのが、最も有効でした。
そのついでに、ヴォル・ド・ニュイを贈った天道さんや、彼が廃屋を訪れていたことを知る橘さんを、始末することにした。全ての罪を、二人に着せた上で」
天道と橘というコンビは、犯人役として、都合がよかった。「聖子」を手にかける理由があり、尚且つ二人とも、罪の意識に、苛まれていたのだ。
何より──約三ヶ月前、この礼拝堂で、緋村が指摘したように──、凛果を人質に取ることで、偽の鷺沼家と口裏を合わせるよう指示することも、可能だった。
「……知りません。私は、何も」
「借りた金は、人生をやり直す為の資金に、するつもりだった。『聖子』さんは、かつて天道さんに、そう語ったらしい。これは、本当はあなたが、鈍山さんから金を借り入れた理由、だったのでは? 鬼村聖子という過去を清算し、完全な別人へと生まれ変わる為に、大金が必要だったわけだ」
「…………」
「あなたは、『聖子』さんの罪悪感につけ込み、多額の借金を、肩代わりさせた。……当然、金を貸した鈍山さんも、あなたの所業を知っていました。だから──」
いっそう冷徹さを増す声で、緋村は告げる。
彼女の、最後の罪を。
「あなたと会長は、鈍山さんを殺害し、その死体を、山中に遺棄したのです」
その瞬間、彼女は──影は、怪物は、虚無は──目を瞠り、かと思えば、項垂れた。
敗北を、認めるかのように。
「大阪府河南町の山中で発見された、身元不明の死体。あれは、鈍山さんの成れの果てでした。鈍山さんが殺害された現場は、おそらく、鷺沼家の本邸でしょう。実行犯は、あなたか宗介会長か、あるいは両方か……いずれにせよ、会長が高部さんと通話した直後──四月二十六日から二十七日にかけて──には、鈍山さんは、殺害されていたはずです。
鈍山さんを生かしていては、あなたの秘密を隠し通すことなど、到底不可能。今までは、蒼一社長の手駒として重用することで、口を閉ざさせていたのでしょうが……社長が亡くなったとあっては、それもできません。厄介なことになる前に、速やかに、始末する必要があった」
──鈍山さんも、たいがい悪人やったが……上には上がいるもんやな。
例の死体は、鈍山の可能性がある。緋村にそう聞かされた時、松谷は少なからず、あの悪党のことを、気の毒に思った。
それから、ふと、ホスト時代に自分を贔屓にしてくれていた客に、思いを馳せもした。どこでどうしているのかは知らないが、無事に、生きていてほしいと。
無責任は承知の上で、松谷は、願った。
「鈍山さんを殺害した後、あなたと会長は、死体を自家用車のトランクに、詰め込みました。ニュースで度々拝見しましたが、お宅には、地下ガレージがある。その中であれば、死体を車に乗せる場面を、誰かに目撃される恐れは、なかったでしょう。
それから、あなたは宗介会長を車に乗せ、本邸を出発した。この町を目指して。……あの日、会長をここまで送り届けたのは、あなただったのですね? そして、その途中か後かは不明ですが、あなたは天国洞の入り口に寄り、トランクの中の鈍山さんを、別の車へと、乗せ替えた」
「……本当に、よくもまあ、そんなことまで……」
「それは、和人さんのミニバンでした。あなたが東京にある本邸に帰った後で、和人さんが、死体を遺棄したのです。神薇教の本部で、久住さんと落ち合う前に」
松谷は、あの時──神薇薔人教団の本部こと、高部家の庭先で出会した際の、和人の出立ちを、思い出す。上下共に黒いジャージに身を包んだ和人は、野良作業でもして来たかのように、袖口や裾を土で汚し、軍手まで嵌めていた。あれはまさしく、土を掘り返した、直後だったのだ。
死体となった鈍山を、埋葬する為に。
「和人さんは、『久住さんの拉致』と『死体の遺棄』という、二つの大役を、任されていました。そして、最後には、天道さんの始末まで……。しかし、和人さんは撃つことができず、躊躇っているうちに、殺害されてしまった。業を煮やした、会長の手によって」
「……わかった。もう、わかりましたから」
「また、元不倫相手である高部さんは、今でも宗介会長を、慕っている様子でした。レンジャー博士を身籠り、渡米してまで出産に臨んだ当時から、彼女の愛は、変わっていなかった。会長自身、そのことをよく理解していたからこそ、高部さんを利用することは、容易いと考えたのです。
それから、直接社長らを手にかけた、レンジャー博士に関しても」
「わかったと言っているでしょう! 黙りなさい!」
悲鳴のような怒声が、殺風景な礼拝堂に、響き渡る。
それはまるで、巨大な怪物の上げる、断末魔の叫び。
ようやく、決着がついたのだ。
「……認めてくださるのですね? あなたが、河南町での死体遺棄事件に、関与していると」
「……ええ。私と義父で、鈍山さんを殺して……家から運び出した死体の処理を、神薇教の人に託しました」
息を荒げながら、苦しげに、彼女は認めた。
その姿に、無機的な眼差しを注いだまま、緋村は頷き──かと思うと、黒いシャツの胸ポケットへ、手を突っ込む。
ほどなくして、取り出されたのは、スマートフォン。
「今の言葉、聞こえましたか? 岩尾刑事」
緋村が画面に呼びかけると、間もなく、スピーカーモードとなった電話の向こうから、抑揚のない男の声が、発せられた。
『はい。一字一句、聞き逃しはありません』
目の前で交わされる青年と刑事のやり取りを……彼女は唖然とした表情で、眺める。
『……「鷺沼麗香」さん。私は大阪府警の、岩尾という者です。突然ですが、例の死体遺棄事件について、あなたの話を伺う必要が、できました。お迎えに上がりますので、その場から、動かずにいてください』
「……すぐ近くまで、いらしているんですね」
『ええ。町の外の駐車場で、待機していました。どちらにいらっしゃるか、教えていただいても?』
「……礼拝堂と言えば、伝わるのかしら」
『緋村さんから、町の地図のコピーを、いただいています。直ちに向かいますので、お待ちください』
一方的に告げるや否や、岩尾は電話を切ってしまった。
伽藍堂の空間は、暫時、静寂を取り戻す。冗長な物語に相応しい、あっけない幕切れだった。
「……初めから、私を罠にかけるつもりで、警察を連れて来たのね」
「イチかバチかの賭けでした。まさか、ここまでうまくいくなんて、思いませんでしたよ」
用の済んだ電話をしまいながら、緋村は、こともなげに言う。
「それより、岩尾警部補が来る前に、教えていただきたいことがあります」
「何が知りたいの」
「『聖子』さん──いえ、リンカさんに、あなたの借金を肩代わりさせた、経緯です。あなたとリンカさんは、別々の家へと引き取られた。それっきり、全く顔を合わせなかったとしても、不思議ではありません。……が、しかし、そうではなかったのですね?」
「……ええ。私があの娘と再会したのは、もう、二十二年も前。ちょうどその時も、私たちは、この町にいた」
かつて聖子だった女は、遠い目をして、語り始めた。リンカとの最初の「再会」、そのあらましを。
「その頃の私は、人生に、行き詰まっていたんです。別に、特段辛いことがあったわけでは、ないのだけど……いえ、むしろ、何もなかったのよ。生まれた頃から、私には、何もなかった。父は、私になど関心がなさそうだったし……母も母で、狂った父のことを、見限っているようだった。そもそも、母はお金──鷺沼家からの口止め料が目的で、父と結婚したそうです。
そんな状態だったから、両親が殺された時も、大して、悲しくはなかった。ただ、これから自分はどうなるんだろうという不安は、あったけど。……それから、離れにいた母子は、どうなったのかが、気になった」
「では、三十年前の時点で、あなたはリンカさんと紫苑さんの存在を、知っていたのですね?」
「そうよ。私も母も、何度か父と一緒に、離れに入る機会があってね。紫苑さんの世話や、あの娘の遊び相手を、する為に。……幼い頃の私は、あの母子の存在を、何も不思議には、感じなかった。他所の家で、犬や猫を飼っているのと、大差ないことだろうって。さすがに、小学校の中学年くらいには、我が家は異常だと、気づいたけれど」
「それで、二十二年ほど前、この町で『再会』したというのは?」
「……その日、私は両親が死んだあの家を、訪れたんです。自殺する為に」
彼女は自嘲するかのように、白い顔を歪ませる。鬼村聖子は、「白い家」で死ぬつもりだったのだ。
「自殺って、なんで? やっぱりその時点で、借金を抱えとったんですか?」
今度は、松谷が尋ねた。
「確かに、私はその時すでに、かなりの額の借金を、抱えていました。ただ、それ以上に……このまま生きいていても、無意味だと悟ったんです。この先の自分の人生には、これまで同様、何もない。だから、私は……終わらせることにした。
そのついでに、鷺沼家の人たちを、困らせてやろうと思ってね。この町で、私──鬼村の娘に死なれたら、あの人たちにとっては、いい迷惑でしょう? 要するに、自殺自体、当てつけのようなものだったのよ」
かつて、蒼一に扮したレンジャーは、「聖子」の自殺を、「資金援助を断られた当てつけとも考えられる」と、言っていた。しかし、どうやらそれに近い発想を持っていたのは、本物の聖子だったらしい。
「……私は、あの家のある丘へ上った。それで、死ぬ前に、なんとなく、町を眺めていたの。そうしたら──」
突如、風車の扉が、開いたという。
「私はすぐに、あの娘だと気づいたわ。そして、それは、向こうも同じだった。彼女の方も、私のことを、忘れていなかった。それどころか、私の母に手向ける為の花束を、抱えていて……。
私たちは、あの娘の持っていた鍵で、家のドアを開け、中に入った。それからしばらくは、今までのお互いのことを、話していたんだけどね。その時、ふと、思いついたのよ」
──この女は、自分のせいで、私の母を死なせてしまったと、負い目を感じているらしい。
──こいつの罪悪感は、利用できるのではないか?
──私から名前を奪い、今まで「聖子」として生きて来たのだ。お陰で私は、本当に何もなくなってしまった。
──そのツケを、支払ってもらはなくては。
こうして彼女は、自らの人生という「最大の虚無」への叛逆を、決行した。
「……あの娘のお陰で、私は、全てを手に入れることができた。お金も、真っ当な仕事も、夫も、子供も……けれど、どうやら勘違いだったみたい。結局、私のものなんて、初めから、何一つ、なかった」
「……そうですか。教えてくださり、ありがとうございます」
「自分から尋ねておいて、随分と淡白な反応ね。……まあ、いいわ。それじゃあ、今度は、こちらから質問させてもらいましょうか。──あなたはどうして、ここまでのことをしたの? ただの学生なんでしょう? やっぱり……あの、倉橋凛果って娘の為に?」
「彼女は関係ありません。誰の為でもなく、ただの自己満足ですよ」
「自己満足? それにしては、やけに執拗な気がするのだけど」
「……僕は、誰も助けられませんでした。レンジャー博士も、天道さんも──他の人たちも、ただ、死んで行くところを見ていることしか、できなかった。その罪滅ぼしとして、あなたと、対決しに来たのです。自己満足としか、言いようがありません」
緋村はほんの一瞬、悔しげな色を、その顔に滲ませる。
そして、呟くような声で、つけ足した。
「そもそも、あいつをあの旅行に同行させたのも、俺だった……」
「……そういうこと」
彼女にも、ようやく理解できたらしい。緋村が何故、この対決に拘ったのか。緋村の口にした、「引き下がれない理由」が、何であったのかを。
「あなたは、お友達の敵討ちをする為に、再びこの町に来た、と。……無関係な人を巻き込んでしまったことは、本当に、申し訳なく思います。けれど……そうか。あなたと彼は、親友なのね。私の夫とレンジャーさんが、かつてそうだったように」
「……十年前、本物の白亜の町でお会いした時は、それこそ、親友同士に見えました」
「十年前って──そういえば、迷子になった日本人の子供を、レンジャーさんと一緒に助けたと、夫が言っていました。まさか、あなたが……?」
「ええ」緋村は、短く首肯する。
女は目を伏せ、軽く、かぶりを振ってみせた。
「そんな運命的なことも、あるんですね。レンジャーさんも、まさかこの町で、あなたと再会するなんて、思ってもみなかったでしょう。それに……あなたの記憶は、きっと正しいわ」
「……どういう意味ですか?」
緋村は、眉を顰める。
ほどなくして、持ち上げられた彼女の顔には──謎めいた微笑が、広がっていた。
「仲良く見えて、当たり前ですよ。だって──夫が全てを知ったのは、あの旅行の後なんだから」
男たちは、凍りつく。
女の言葉の意味するところを、瞬時に理解して。
「……で、では……キャサリンさんを殺すよう、指示したのは」
「私。私が陣野さんに、お願いしたのよ」
虚無が、嗤った。毒々しい紅を塗った唇を、捲り上げて。
「佐伯さんの報告を受けた後、すぐに。『鬼村』さんの自殺を調べ直されたら、困るのは、陣野さんも同じでしたから。借金の肩代わりと言っていましたけど、実情は、人身売買と変わりません。わざわざ泥酔して、警察のお世話になってまでアリバイを拵えたのに、無意味になってしまいますし」
「そ、それじゃあ、鈍山さんを使て、その陣野を殺させたのも……あなた、やったんですか?」
声を戦慄かせながら、松谷が尋ねる。
彼女だけが、笑みを浮かべていた。
「二人纏めて死んでくれたら、一番よかったんですけどね。お陰で十年近くも、あの下卑た男の顔色を、窺う羽目になりました」
「……あ、あなたは」今度は緋村が、顔を青褪めながら、「蒼一社長や宗介会長にも、同じことをしたのでは?」
「ふふふ、あなた、本当に察しがいいのね。──久住さんが、そちらの探偵さんに依頼をした時点で、早急に手を打つべきだと、夫へ進言したわ。あの人も、すぐにその気になってね。『一族の為』とか『日本の経済を護る為』だとか言って、張り切っちゃって」
「……そして、社長が殺害された後は、今度は会長を、操ったのですね。自分一人だけは、罪から逃れられるように」
「操っただなんて、大袈裟ね。私はただ、お願いしただけよ。『できることなら、晴都が一人立ちできるまで、母親として傍にいたい』と。心優しい義父は、私の願いを、聞き入れてくれた」
緋村は無事、この怪物を退治した。巨悪に打ち勝ったように、松谷には見えた。
それは、間違いないことだろう。しかし、死して尚、この化け物は、毒を撒く。
「……人形使いは、あなただったのか」
「何よそれ。気取った言い回しして、あんたやっぱりイカレてるわね」
彼女の顔から笑みが消え、代わりに果てしない憎悪が浮かぶ。
今にも第二ラウンドが始まるのではないかと、松谷が、身構えた矢先──背後にある扉が、勢いよく開かれた。
戸口から差し込む光を背に現れたのは、灰色のスーツを纏った、イカつい風貌の大男──岩尾警部補だった。
完全に、職務中の顔つきである岩尾は、自身の方を向く一同を、素早く見渡す。それから、奥に佇む彼女へと、油断ない眼差しを定めた。
「『鷺沼麗香』さんですね? 先ほど伝えましたとおり、お迎えに参りました。さっそくですが、ついて来ていただけますか?」
「……構いません。ただ、その前に一度、手を合わせさせてください。この人たちのせいで、死者を悼むことが、できていませんので」
岩尾の許可を得た「麗香」は、男たちに背を向けてしゃがみ、床に捧げた花束に向け、両手を合わせる。
その姿を、最後まで見届けることなく。緋村と松谷は、踵を返した。
立ち去ろうとする二人に対し、警部補は、戸口を塞いだまま、
「捜査協力、感謝します。それと、できれば緋村さんにも、同行していただきたい。三井警部が、あなたに会いたがっています」
「……すみませんが」
緋村の声に被せるように、
「すみませんけど、緋村くんはこの後、大事な用があるんです。事件の話は、また後日にしてください」
田花直伝の軽率な表情を浮かべ、松谷が答える。
眉皺を深めた岩尾は、しばし不遜な探偵の姿を、見つめ返した。が、ほどなく、「どうぞご勝手に」とばかりに右手を上げ、大きな体を退けた。
真夏の日差しを照り返し、よりいっそう白さの際立つ町の中を、二人は進む。
そして、広場へと差しかかった時。そこには、父を喪い、これから母とも別れる少年が、ぽつねんと佇んでいた。
「…………」
晴都は何も言わず、ただジッと男たち──いや、緋村のことを、見つめる。
「晴都くん!」
やがて、彼の名を呼びながら、屋敷の方から、佐伯が息を切らして、駆け寄って来た。目を離した隙にいなくなってしまった晴都を、連れ戻しに来たのだろう。
少年から視線を外した緋村は、足早に、その場から立ち去った。
「あの子に、恨まれてまうかもな」
隣りに追いつきながら、松谷は、そんなことを言ってみた。
「……構いませんよ。それも含めた上での、自己満足ですから」
※
緋村さんへ。
どうしても、あなたに伝えたいことがあり、こうして手紙を書かせていただきました。拙い文章で、読み辛いとは思いますが……どうか、ご容赦ください。
何と書けば、正確に気持ちが伝わるのか、とても悩みました。その上で、単刀直入に行かせてもらいます。
緋村さんは、何も悪くありません。
天道さんのことも、レンジャー博士のことも……他の人たちが亡くなったことも、全て、あなたのせいとちゃう。悪いのは、実際に、犯行に及んだ人です。
もしかしたら、余計なお世話かも知れません。むしろ、かえって不快な思いを、させてしまうかも……。
けれど、もし緋村さんが、少しでも責任を感じているのなら。
それは、必要のないことだと、伝えたかった。
あなたのせいで死んだ人間なんて、一人もいません。
そもそも、私があんなお願いをしなければ、緋村さんや若庭さんを、巻き込んでしまうことも、なかったわけで……。
ですから、私の方が、遥かに非があると言えます。本当に、申し訳ありませんでした。
そして、もしも緋村さんが、私を赦してくださるのなら……改めて、お礼を言わせてください。
本当に、ありがとうございました。
あなたのお陰で、私は母と父のことを知り、そして、大切なものに気づくことが、できたのです。
私はとっくに、自分の人生を、歩んでいた。
それは、エルギン・マーブルのように、漂白されたものではなく……とてもたくさんの色で、彩られていました。
お父さんと、お祖父ちゃんと、お祖母ちゃん。
本当の父と母……そして、もう一人の祖母。
他にもたくさんの人の色を受け継いで、私は、生きている。
そして、これからはもっと、自分らしい色を、塗り重ねられるように。
その第一歩……になるかはわかりませんが、私は今、お芝居の勉強をしたいと、考えています。
もちろん、才能も素養もありません。でも、橘さんには、太鼓判を押していただけました。
「琴矢くんの娘なんだから。きっと、いい役者さんになれるわ」と。
思いの外長くなってしまい、すみません。
とにかく、私はもう、前を向けています。ですから、緋村さんも、あまり思い詰めないでください。
そして、あなたの中で、この事件に決着がついた時は。
改めて、私の家庭教師になってください。まだまだ、あなたに教わりたいんです。ええですよね? 緋村先生。
倉橋凛果
緋村は、読み終えた便箋を封筒にしまい、テーブルへ置いた。それから、その傍らにある煙草の箱とライターを、掴み取る。
慣れた手つきで、マルボロに火を点けた緋村は、紫煙を吐き出しながら、深く椅子にもたれかかった。
緋村は首を捻り、窓の外へ、ボンヤリと目線を投じる。
《喫茶&バー えんとつそうじ》の店内は、この日も客と言える客はなく、緋村は一人、指定席と化した奥の四人がけに、座っていた。アイスコーヒーが注がれていたグラスは、とうに空になっており、円い灰皿には、吸い殻の山が築かれつつある。
ほどなくして。
ドアが開かれ、客の来店を報せるベルと共に、一人の青年が、薄暗い店内に現れた。
「いらっしゃいませ──おや?」
カウンターの向こうにいた店主は、その客人の姿を見るや、嬉しそうに破顔する。
「お久しぶりです。またお越しいただけて、嬉しいですよ。どうぞ、お好きな席に──ああ、いや」
店主は、緋村のいるテーブルへ、視線を向けた。そして、わずかに声を潜めながら、
「あちらの席へ。出先から戻って以来、ずっと、待っていたみたいですから」
耳打ちでもするかのように、そう言った。
さして広くもない店内である。そのやり取りは、当然緋村の耳にも、届いただろう。しかし、緋村はまるで、何も聞こえないとばかりに、カウンターの方へ、咥え煙草の横顔を、向け続ける。
その姿を見た青年は、苦笑を浮かべたのち、緋村のいる四人がけへ、歩み寄った。
彼が、テーブルの前に立つ。
緋村は当然のように、目線すら寄越さない。
先に声をかけたのは、客人の方だった。
「……やあ。久しぶり」
「……ああ。平成ぶりだな」
「え?──まあ、確かに。直接話すのは、あの時以来か」
若庭葉は、緋村のことを見下ろしたまま、ニヤリと笑った。
「けど、見舞いには来てくれたんだろ? 僕が眠っている間に。親から聞いたよ」
「……それで?」
「いや『それで?』って。相変わらず、愛想がないなぁ。友達が、死の淵から生還したんだ。少しくらい、嬉しそうにしなよ」
緋村はまだ、窓ガラスを見ている。
若庭は呆れたように、軽く首を振ってから、緋村の対面の椅子へ、腰を下ろした。
「緋村先生は、令和になっても平常運転か。ある意味、安心するね。──じゃ、さっそく聴かせてもらおうか。白亜の町で起きた事件の、顛末について」
「……退院早々、事件の話か。お前も大概だな。──長くなるぜ?」
「望むところさ。なるべく詳しく頼むよ? 事件記録として纏め上げなきゃ、終わった気がしないからね」
若庭はさっそく、ボディバッグから、メモ帳とペンを取り出す。
その様子を、横目で見た緋村は、体の向きを正面に戻し、まだ大して吸っていない煙草を、灰皿に押しつけた。
それから、ようやく友人の顔を、まともに見た──かと思うと、珍しく悄然とした声色で、
「……一つ、お前に、謝らなきゃならねえことがある」
「え? ああ、怪我をしたことなら、別に君のせいじゃ」
「すまない──お前のボールペン、ライオンに食われちまった」
「は?」
キョトンとした表情を浮かべる、若庭に対し……緋村は、それこそ滅多に見せることのない微笑を湛え、再びマルボロの箱へ、手を伸ばすのだった。
『白亜の町に死す ドラマツルギー』完
最後までおつき合いくださり、誠にありがとうございます。
この物語を(いい意味か悪い意味かは別として)あなたがいつまでも、忘れずにいてくれるなら……それが、自分にとって、何よりの幸福です。




