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終章・生命科学研究所(一)

(一)生命科学研究所


 生命科学研究所付属芳野台病院というプレートが掲げられたゲートをくぐるファンタムⅥ。

「久しぶりね。ここに来るのは」

「そうでございますね」

 今日は、ハワイでの航空機事故の後遺症がないかを、確認する為にやってきたのだった。二三日入院して念入りに診察がされることになっている。

 病院の敷地に併設されて生命科学研究所がそびえている。

 病院の玄関前に停まるファンタムⅥ。

 研究所の方には重症患者のICU(集中治療室)しかないので、病院の方で入院手続きすることになっている。

「受付けして参ります」

「研究所の方、ちょっと見てくるね」

「研究所員の邪魔にならないように気を付けてください」

「わかった」

 と確認しあって、麗香は病院内へ、梓は研究所へと向かった。


 生命科学研究所。

 以前病院の屋上から垣間見たことがあるだけだった。

 陽電子放射断層撮影装置(PET)や、核磁気共鳴断層撮影装置(MRI)などの最新設備を誇る生命科学研究所には、近隣の病院からも診断のために患者が運びこまれてくる。ただし通常として、交通事故現場や各家庭などから救急患者が直接運ばれることはない。ここはあくまで研究施設であり、各救急医療センターが手の施しようのない重症患者や、PETなどの診断を必要とした場合、研究対象としての治療を行うことを了承した場合に限って引き受ける。

 なお、日本で最初の倫理的な性転換手術が行われた埼玉医大総合医療センター病院も、車で十分としない距離のところにある。

 広大な敷地にそびえ立つ研究所だが、その地下には二万キロワットもの巨大な超伝導蓄電実験施設があるという。ただしこのことは一切公表されてはおらず、梓だけに極秘理に知らされているだけだった。


「あれ?」

 梓の振り向いた先には、見知った女性がいた。

 それはかつての自分、長岡浩二の母親だった。

 すっかり忘れ掛けていたが、まだ記憶の端に残っていた。

 交通事故の後、退院した際に母に連れられて長岡邸を見舞ったあの日。自分の記憶にある長岡浩二はイメージだけだと悟ったあの時のこと。

 もはや自分自身の母親という意識はなかった。今の梓の母親は渚一人、母娘の絆もしっかりと築かれていた。

「なんでここにいるのかしら……」

 長岡母は(渚と紛らわしいからこう呼ぶことにする)玄関から施設に入っていく。

 どうも気になるので後を追ってみることにする。

「ええと……どこに行ったかな……。あ、いた」

 丁度玄関から駐車場添いの通路の先の角を曲がるところだった。

 あわてて後を追い、角のところまで来たが、

「あれ、いない……?」

 その先の通路にはいくつかの研究室の扉と階段があった。

 研究室に入ったか、階段を使ったか?

 研究室に入るわけにはいかないし、階段は上か下か判らない。広大な施設だから下手に探しまわっていたら迷子になってしまう。

「うーん……。ここに来ているということは、家族に何かあって入院しているのかなあ……」

 もはや縁は切れているとはいえ、やはり気になるところだ。

 麗香に頼めば調べてくれるかも知れないが、どう説明する? 麗香は梓の人格が入れ代わっていることを知らない。そのことに気づいたのは幼馴染みの絵利香だけだ。

「あの……。何かご用がおありでしょうか?」

 後ろから声を掛けられた。

 振り返るときれいなお姉さんが微笑みながら立っていた。受付係のネームプレートを胸に付けていた。そういえば受付けを通らずに入ってきたから、追い掛けてきたのというところ。

「あれ? あなた……もしかしたら、梓お嬢さま?」

「はい、そうです」

 研究所の者なら誰しも梓の顔を知っている。いや、知っていなければ研究所員とは言えないだろう。研究所概要書には写真入りで載っているし、ここの所長室や会議室にも額入りで飾ってあるからだ。

「やっぱりでしたか。今日は検査でお見えでしたよね。ですが一応付属病院の方で手続きを……」

「ああ、いいの。手続きは麗香さんがやってくれているから。それより、さっきここを四十代くらいの女性が通ったでしょう?」

「長岡さまかしら……?」

「そうそう、その長岡さん。ここには何の用で来ているのかしら」

「申し訳ございません。その件に関しましては、守秘義務によって来院者さまのことは申し上げる訳には参りません。例えお嬢さまであってもです」

「そうなの……残念ね」

 確かにその通りなのだろう。医師や類する研究者が守秘義務を守らなければ、患者は安心して身を任せられない。

 長岡母のことは気になるが、今の段階ではどうしようもない。

 忘れなくちゃとは思うのだが……。



 そこへ麗香が迎えにきた。

「お嬢さま、こちらにいらしたのですか。診察がはじまりますよ」

「早かったのね。手続きを待っている患者さんはたくさんいるんでしょ?」

「既に予約は入っておりましたし、お嬢さまのことですから……最優先で処理されたのでしょう」

 麗香に代わって受付係りが答えてくれた。

「例によってⅥP待遇というわけね」

「その通りでございます」

 いつものことながら、どこへ行ってもVIP待遇なのよね。たまには庶民の暮らしを体験してみたいもの。本来なら十八年間長岡家で暮らしていたのだろうが、記憶がない以上体験とは言えない。


「それじゃあ行きましょうか。まずは問診からですよ」

 麗香に案内されて、問診室かと思ったが、別の診察室に入った。

 そこには女医さんが控えていた。

「ありゃあ! やっぱり女医さんか……」

 旅行の時の副支配人もそうだが、何かにつけても梓を応対するのはいつも女性だった。

「男性医師に診られるのは恥ずかしいでしょうから……」

「ま、どうでもいいけどね……」

「担当医の不破由香里でございます。よろしくお願いします。それではお嬢さま、まずは問診からはじめますね」

「うん……」

「事故の後、頭が痛いと感じたことはありますか?」

「ないわね」

「身体がだるいと感じたことは?」

「うーん……。ない」

 という具合に、問診表にそって質問と解答が繰り返される。

 およそ二十問の問答があってから、

「以上で問診は終わりです。続いて触診しますので、上着を脱いでいただけますか?」

「う、うん」

 女医の指示通りに上着を脱いでブラジャー姿となったところで、

「ブラジャーはそのままで結構ですよ。それでは……」

 健康診断で良く見られる打診や聴診器による診断がはじまった。さらに肝心ともいうべき首筋あたりの触診に入った。

「痛かったら言ってくださいね」

 押したり叩いたり、頭をぐりぐり回して首筋の動きとかに異常がないかを確認している。

「それにしてもこんな大きな事故を続けて二度も経験されるとは、お嬢さまもよほどついていないですね」

「二度め?」

 そうか……。飛行機墜落事故は、慎二のせいだと思っていたが、もしかしたら誰かによって巧妙に仕組まれていたのかも知れない。自動制御装置にコースを逸脱するようなプログラムをインストールされていたとしたら? 慎二はたまたま居合わせただけかも知れない。いくら重量ペイロード問題があったとしても、たかだか八十キロ前後の重量オーバーくらいで、あれだけの巨体のDCー10ジェット機が燃料切れをおこすはずがない。

 やはりUSA太平洋艦隊司令長官のドレーメル大将の言う通りにスパイが紛れ込んでいる可能性がある。


 問診が終わって、診断装置の準備が整うまで特別の応接室に通される梓と麗香。

 二人きりになったのを機に尋ねてみる。

「ところで麗香さん、例の件の調査は?」

「申し訳ありません。スパイがいるとして証拠隠滅されないように、極秘理に調査を進めていますので、まだ時間がかかりそうです」

「そう……。なんにしても、あたしの身の回りに命を狙う組織がいるとぞっとするわね」

「ボディーガードを、おそばにお付けしましょうか?」

「いらないわよ。葵さんみたいにぞろぞろ黒服を連れているのを見ていて、あまり印象が良くないのを知っているから」

 梓の言う葵とは、真条寺家の本家である神条寺家当主の跡取り娘である。社交界などで会った時などには、何かと本家ということを鼻にかける、梓にとってはいけすかない同い歳。

 まあ、そのうちにまた会うことになるだろう。

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