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第一章・生まれ変わり(二)帰国子女

(二)帰国子女


 川越の町並みを走るロールス・ロイス・ファントムⅥ。

『川越か……今日からここでの新しい生活が始まるのね。ニューヨークで生まれ育ったわたしに馴染めるのかしら。だいたいからして、日本語は一応話せるけど、漢字とかの読み書きが苦手なのよね。少し不安だわ』

 車窓から流れる外の景色を眺める十二歳の梓。その言葉は英語だった。

『絵利香は空港に迎えにきたご両親と一緒に帰っちゃったというのにな。うちの母親ときたら、迎えにもこない』

『渚さまは、とてもお忙しいお方ですから。でも屋敷に戻れば、ちゃんとご帰宅記念のパーティーを準備して待っておられます』

 お抱え運転手の白井も英語で応える。

『わかっているけど、やっぱり娘としたら寂しいわ。麗香さんも通関の手続きで残っちゃったし』

『お気持ちはお察しいたします』

 前方に赤信号が点灯する交差点に差し掛かった時だった。

 白井が速度を落とそうとブレーキを踏むが、まるで感触がなかった。

 あわててギアを一段落としてエンジンブレーキをかけた。

『お嬢さま、しっかりつかまっていてください』

 ハンドルを道の片側に寄せながらさらにギアを落としていく。

 サイドブレーキを引き、なんとか交差点の寸前で停まるロールス・ロイス。

 全重量2700kgのロール・ロイスの巨漢が事故を起こせば、今時のちゃちなボディーの自動車は全損破壊されるのは必至。ゆえに運転手の白井は、街中においてはどんなに前方が空いていても、法定速度の時速30km以上は出さないようにしていた。

 当然後方には、自動車の渋滞の列が続くことになる。なにせ黒塗りのロールス・ロイスなのだ、後続の運転手の脳裏には「暴力団幹部」の文字が浮かんで、とても恐くて追い越したり、クラクションを鳴らす勇気のある者は、だれ一人いない。まさか可愛い女の子が乗っているとは想像だにできないだろう。しびれを切らした者は、脇道へ入って迂回ルートを選ぶことになる。

『ふう、あぶなかった』

 何とか車を道路の脇に寄せて停車し、胸をなで降ろす白井だったが、すぐさま後部座席の梓を心配する。

『お嬢さま、大丈夫ですか』

『大丈夫です。いったい何があったのですか』

『ブレーキが効かなかったのです』

『ブレーキが?』

『はい。ちょっと調べてきます』

 白井は外に出て、後方に故障を示す三角板を置いてから、ボンネットを開けて調べはじめた。

『ひどいな……』

 ブレーキホースが何者かによって鋭利な刃物かなにかで切られていた。その切り口をパラフィンシートで巻いて覆ってある。エンジンが止まって冷えている間は、パラフィンは固まっているが、エンジンを始動しボンネット内が、エンジンの熱で温度が上昇し、パラフィンが溶けはじめると、ブレーキフルードが徐々に抜けていき、走行中に突然ブレーキが効かなくなるように細工されていたのだった。おそらく空港で梓を迎えにしばらく車を離れていた時だと思われる。

 ……高級車を持つものにたいする単なるいたずらか、それとも……

 白井は後部座席に腰掛ける梓を見やった。

『どうですか?』

 梓が窓を開けて尋ねてくるが、

『いえ。どうもこうも。しばらく動かせそうにありませんので、タクシーを呼びましょう。お嬢さまは、それで先にお帰りください』

 白井は、あえて事実を伏せることにした。梓を心配させたくないとの配慮だった。

『いいわ。ここからは歩いて帰るから』

『ですが、渚さまが首を長くしてお待ちになられて』

『いいじゃない。今日から生活することになる川越が、どんなところなのかじっくり見学させていただくわ。地図もあるし、屋敷の場所もわかりやすい所にあるから。いろいろとね』

『あ、お嬢さま』

 白井は梓を追おうとしたが、交差点前に停まった大型のロールス・ロイスを放ったままにはできない。交通の妨害になるからだ。

 ロールス・ロイスのそばで立ち尽くす白井。

 ……もしかしたら、お嬢さまは誰かに命を狙われているかもしれない……


 川越の町並みを散策している梓。蔵造りの街をめずらしそうに、あたりをきょろきょろと見渡しながらゆっくりと歩いている。

 交差点に差し掛かる。

 反対側からは、喧嘩を終えたばかりのあの男が歩いて来る。そのずっと後方からは先程の少年も後をついてきていた。

 信号は赤。

 横断歩道を挟んで対面する二人。先に相手に気がついたのは男の方だった。

「へえ、可愛い子がいるじゃんか。声掛けてみよう」

 信号が青に変わった。

 ゆっくりと横断歩道に進み出る梓。

 その時だった。信号を無視して突っ込んで来る大型トラック。目前に迫るトラックにも、梓は足がすくんでぴくりとも動けない様子だった。

「あ、危ない!」

 男はとっさにトラックの前に飛び込み、梓を抱きかかえるようにかばったのであった。

 当たりに飛び散る大量の血飛沫。交差点にこだまする悲鳴。

 梓を抱えたままトラックに跳ね飛ばされ地面に激突する男。

 当たりにいた人々も、あまりの惨劇に身体が固まって動けないといった表情であった。

 ぴくりとも動かなかった男だが、やがて意識を取り戻す。

「お、俺は、いったい……」

 男は額に手を当ててみるが、その手にべったりと付着した血糊。

「血……」

 男は自分が流血しているのを悟ったが、痛みを感じていないことに気づく。

 ふと首を振ると、そばに先程の梓が倒れている。

「お、おい。だ、いじょう、ぶか……」

 梓は答えない。じっと横たわったままだ。

 ……死んだのかな……。もっとも俺の方も……だめかな……

 次第に薄れていく意識の中で、男は最後の音を聞いた、それは近づいてくるサイレンの音だった。男はゆっくりと目を閉じ、そして動かなくなった。

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