第一話 あなたと会った日
夜、鏡を見る。
そこにいたのは知らない女だ。
黒髪と黒い瞳の優しい母そっくりなのに、恐ろしく冷たい目をする女。
『悪女』
社交界がそう囁く顔。
それでも私は構わない。
愛した人を殺され、『私』は一度死んだ。
―― 今度こそ必ず、あなたを死なせないために。
■
――これは、あの人が死ぬ一年半前。
一度目の人生で、まだ何も知らず愚かだった私が彼と出会った日だ。
始まりは初夏、あの人が私のカフェに訪れてから。
長い脚を組み、優雅に座る一人の美青年が私をじっと見つめる。
「帝国一の大貴族、エリーザ公女が下町で店を開くとは思わなかった。……紅茶もコーヒーも、宮殿よりうまい。」
そう言って、にこやかに紅茶を口にする男に私は息を呑む。
第一皇子セドリック。
輝く金髪、皇室の証である赤い瞳に絵画から抜け出るかのような整った顔。
社交界デビューの日、一度見ただけなのに忘れられなかった。
世のご令嬢がこの容姿に憧れるのも納得できるほど優雅で美しい。
そんな彼に柔らかく微笑みかけられ、気さくに話しかけられ、
本来なら光栄だと喜ぶべきところなのだろうが、素直に喜べない事情がある。
第一皇子に関わること――それは帝位争いに巻き込まれるということだからだ。
絶対に逃げ切らねば!!
「どなたかとお間違えではありませんかぁ。わたくしはしがない下町の庶民ですわー」
わざとバカっぽい言葉遣いと態度で接する。
すると、彼は楽しそうに唇に弧を描いた。
「ふふ、黒髪も美しくて素敵だったが、茶色に染めた髪もなかなか似合っている」
きれいな笑顔なのに、威圧感がさきほどよりも強い。私の顔が汗ばんできた。
なんとかしてごまかそうと知恵を絞るが、赤い目は獲物を狩る猛禽類のように鋭い。
ごまかしはきかなさそうだ……。
私は仕方なく白旗を上げた。
「おほめにあずかって光栄ですわー、まさか皇子殿下がわたくしをご存じとは思いませんでしたわー」
私はバカを演じ続けることにした。
これで彼が私をあきらめてくれればいい。
しかし、彼は綺麗な顔を余裕たっぷりの笑顔にしただけだった。
「はっはっは。まったく心がこもっていない言葉だな。まあいい、ヴァルグレイス公爵家の直系の公女は君だけだ。興味がわくのは当然だろう?」
にこっと笑う顔は、思わず見惚れてしまう。
そして、威圧感はあるくせに気さくで、なんというか憎めない男だ。
――なのに、社交界では悪評が絶えない。
使用人を処刑した。
村を焼いた。
愛人を囲っている。
そんな話ばかり聞く。
目の前のこの人と結びつかなくて困惑するばかりだ。
けれど、関わると面倒になることは必然。
なんとしても帰っていただかなくては!!
「うふふーご興味もっていただけるほどの中身はありませんわー。オホホホ」
「公女の身分で下町にカフェを開いているというだけでも十分に興味が出てくるのだがなぁ」
「ただの趣味ですぅ」
「ほう、趣味でここまで上り詰められるのか。平民の言葉遣いも所作も随分としみ込んでいる。随分と長くやっていそうだな? ここで育ったとかか?」
細められた目が私をじっとみる。
何もかも見透かされそうで、背筋が凍り付く。
私はにこにこと微笑んだ。
作り笑顔は大得意だ。
「ご想像にお任せしますわ~」
「そういえば、バリンガ共和国の運河が開通した」
「……」
「バリンガ共和国はコーヒー豆の産地だからカフェオーナーなら食いつく情報だろ?」
彼は楽しそうに私を見る。
悔しいが、敗北を認めざるを得なかった。
降参だ、降参。
バカな令嬢の仮面を外し、カフェオーナーとして彼を見る。
「仕入れ値は三割は落とせますね。鮮度のいい豆も調達できそう」
彼は口角を上げる。
「頭の回転も速いな」
「それで……殿下は私に何をお望みですか?」
ビジネスチャンスは逃したくない。
いくら極悪非道とはいえ、大貴族の公女を白昼堂々襲わないだろう。
皇子は「ふむ」と少し考えて、魅惑的な笑顔になった。
「俺の婚約者になれ」
「無理です!! お断りです!! 私は一生ヴァルグレイス公爵家のスネを齧って生きるんです!!」
私が言うとセドリック皇子は笑った。
「そう言うな、ヴァルグレイスと縁を結べば帝位争いを有利に進められるから、ぜひとも欲しい」
「それ、私に何のメリットもないですよね!!!」
「皇后になれるぞ?」
「そんなものよりこの店の方が大事です!!」
私がいうと、彼は意外そうな顔で私を見た。
「権力に興味ないのか?」
「帝国一の公爵家の公女ですよ? 十分満足しています」
「そういうものか。権力があるものほど権力を欲しがると思っていたが……」
不思議そうなものを見る目で彼は私を見つめる。
珍獣じゃないっつーの。
「人によるんじゃないですか? 少なくとも、私はそういうタイプじゃないので」
そう前置きして、
「謹んで、辞退させていただきますわ」
にこっと、営業用の笑顔を向けた。
彼はあっけにとられた顔をした後、笑い出した。
「あははは!! すまない、君を私の物差しで測ってしまったようだ。規格外すぎる」
「それ、褒めてるんですか?」
「もちろんだ。それに……一本筋通っている女は好みだ。この俺に堂々と食ってかかる気概もいい」
「へ?」
「政治的だけでなく、お前の性格も好みだと言っている」
にこ。
彼の笑顔に不覚にも心臓が跳ねる。
……顔がいいというのは、本当にずるい。
けれど、私にも譲れないものはある。
「く……私は屈しませんからね!!」
「はは。すぐに落とせるとは思っていないさ。これから、君を口説くことにする」
セドリック皇子は私の手を取った。
驚くほど自然で、思わず見惚れてしまうほどに綺麗な所作で。
余裕そうに笑っている。
なのに、赤い瞳は私だけをまっすぐに見つめる。
次の瞬間、温かな唇が私の手の甲にそっと触れた。
たった一瞬なのに、熱が体中に駆け巡る。
礼儀なんかじゃない。
私を見つめるその目は、どこまでも真っ直ぐだった。
熱に飲まれ、私は文句一つ、言えない。
頬が熱くて、心臓が……まだうるさい。
彼はにこっとまた、気さくな笑顔に戻った。
「気が向いたらいつでも言ってくれ。大陸一の贅沢をさせてやる」
彼は少しだけ目を細めた。
今までとは少し違う、穏やかな笑みだった。
「……隣に立つなら、お前がいい」
そう言って彼は護衛を連れて私のカフェを離れた。
彼の後姿を見て、私はほっと胸をなでおろす。
口説くなんて冗談じゃない。どうせすぐに私のことは忘れるはず、なんて思いながら。
――この時の私は、まだ知らない。
社交界で"悪逆皇子"と呼ばれるこの人が、
誰よりも真っ直ぐで、不器用な人だったことを。
そして。
彼を"悪逆皇子"に仕立て上げた黒幕が、
まだ誰にも疑われていなかったことを。




